Amazing grace

国沢柊青

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 床の上でけたたましい音をさせてワイングラスが割れた。
「マックス!? 大丈夫?」
 シンシアが慌てて走り寄ってくる。マックスは、自分の左手から滑り落ちていったワイングラスの残骸を見下ろした。頼りなげな左手を握ったり開いたりしてみる。
「マックス?」
 シンシアが不安げに見上げてくるのを感じて、マックスは苦笑いする。
「ごめん、グラス割っちゃった」
「いいのよ、そんなこと。それより怪我しなかった?」
「ああ、大丈夫だよ」
 二人で床の上の破片を拾い集める。シンシアが持ってきた新聞紙に破片を包み、ゴミ箱に捨てながらマックスは溜息をついた。
「ワイングラスが三つになっちゃったな・・・」
 今ウォレスと待ち合わせをして例の件を調べているはずのレイチェルは、今夜も一緒にウォレス家で食事をすることになっていた。ということは、必然的にグラスが足りなくなる。
「いいわよ、マックス。気にしないで。別にグラスなんてどうでもいいじゃない。今夜はビールにしたら?」
「・・・そうだね。そうしよう」
 マックスはそう呟くと、何気なくゴミ箱の中の新聞紙を見つめた。


 そのアパートメントの管理人室は、もぬけの殻という有様だった。
 今まで幾つかのアパートメントを巡って、ここが最後である。
 残念ながら、さっきまで訪ねて回ったアパートでは収穫がなく、例のバーが眺められる位置にあるアパートメントとしてはここが最後だった。だが、位置からすると最有力とも言える物件なので、チャンスはまだ残されている。
 レイチェルには確信があった。
 ドースンの痕跡が残っている部屋の近くまで来ていることを。
 しかし、アパートメントのことを最もよく知っている管理人がいないとなると、少々やっかいだ。
 仕方なくレイチェルは、一階の端のドアから一つずつノックして回ることにした。
 だが、お世辞にも住み心地がいいとは言えなさそうなアパートに住む住人は少なく、そして他人に対して好意的な態度で接してくれる住人も、とても少なかった。
 ドースンの写真を見せて回ったが、一、二階の住人は誰もが首を横に振り、おまけについこの三日前、押し掛け強盗に管理人が殺されたことを聞かされて、さすがのレイチェルもごくりと息を呑んだ。
 ウォレスが言ったように、ここは危険な地区だ。
 そんな危険なところに部屋を構えていたというドースンの、事件に対する熱意を感じた。
 彼は夢中になっていたのだ。ウォレスを取り囲む謎に魅せられていた。そして開けてはならないパンドラの箱の蓋を開けてしまったのだ・・・。
 レイチェルは、ハンドバッグの中のペッパースプレーに手を掛けた状態で、三階フロアに向かう階段を上がっていった。
 見通しが悪く、かび臭い階段。
 ふと、自分以外の足音が背後から響いたような気がして、レイチェルは足を止めた。
 耳を澄ませる。
 聞こえてくるのは、通りを走る車のエンジン音と誰かの怒鳴り声。
 ── 気のせいかしら。
 レイチェルは、再び階段を登り始めた。
 また足を止める。
 レイチェルの心臓が高鳴った。
 ── 確かに、誰かが自分をつけてくる!
 レイチェルは、急ぎ足で階段を登った。
 手すりの間から、一瞬だが階下にいる男の腕が見える。
 さすがのレイチェルも顔から血の気が引くのを感じながら、階段を上がった。
 ハァハァとみっともないほどに自分の息が上がっているのが耳から聞こえる。
 やっと三階フロアの光が見えてきた。
 ── あそこまで上がれば、何とかなるわ・・・。
 レイチェルが三階フロアに飛び出した時。
「キャ!・・・・!!」
 突如横から伸びてきた男の手がレイチェルの身体を掴み、悲鳴を上げる口を別の手で塞がれた。廊下の陰にズルズルと引きずり込まれる。
 レイチェルは目を開き、背後の男の顔を見た。
 目指し帽を被っている。ブルーの瞳。
「静かにしろ」
 低くくごもった声が暴力的な口調でそう言う。
 レイチェルの額に、冷や汗が流れ落ちた。
 レイチェルの震える手が、ハンドバッグの中を探る。
 その手を捕まれた。
 凄い力で手首を捕まれ、レイチェルは呻き声を上げる。
 ハンドバッグは男に奪われてしまった。
 レイチェルの目の前に、男が取り出した飛び出しナイフが翳される。
 男が、レイチェルの耳元で楽しそうに笑った。
 ── 刺される・・・・!
 レイチェルがきつく目を閉じた時、ふいにレイチェルの身体は解放された。
 ── 刺されたのかしら?
 レイチェルはそう思ったが、痛みはない。
 ── 私、早くも天に召されたってこと?
 レイチェルは、恐る恐る目を開いた。
 背後で、男の呻き声が聞こえる。
 レイチェルはきょとんとして、背後を振り返った。
 今までレイチェルを掴んでいた男が、今度は別の男に羽交い締めにされている。
 背後から首を締め上げられている格好の男は、マスク越しに見てもわかるぐらい、顔が真っ赤に変色していた。
 レイチェルは怪訝そうな顔をして、男を羽交い締めにしている人間の顔を覗き込んだ。そしてレイチェルは、驚きの声を上げる。
「あなたは・・・!」
 レイチェルを救った男は、明らかに先日ダイナーで出会った男だった。
 男は、あの時と同じ野球帽を被り、あのゴツゴツとした白く力強い手で強盗の首を締め上げていた。
 やがて強盗の目が白目に反転し、泡を吹き始める。
「もういいわ! 死んでしまう!」
 レイチェルが声を上げると、男は強盗を解放した。
 強盗は完全に失神しており、泡を吹いたまま、廊下に転がった。
 野球帽の男は、足下に転がるナイフを拾い上げると、刃を仕舞って自分のポケットに突っ込んだ。
「やぁ、また会ったね」
「本当ね。助かったわ。ありがとう」
 レイチェルがそう言うと、男は苦笑いを浮かべ、肩を竦めた。
 男は実に落ち着いている。こういうことに慣れているのだろうか。
 レイチェルは手を差し出した。
「私、レイチェル・ハートよ」
「スタンだ。スタン・コネリー」
 レイチェルの手を握り返した手は、岩のようにゴツゴツとしている。
 ふと二人の傍のドアが開いて、二人はまた身構えた。
 中年の女が、ドアを細く開けて廊下の様子を窺っている。
 レイチェルと“スタン”は、身体の力を抜いた。
 中年女は、レイチェルとスタンを見、そしてスタンの足下で泡を吹いている強盗の見た。
 女がドアを大きく開ける。
「まったく。また強盗騒ぎだ。嫌になるわ。あんた、大丈夫?」
「ええ。助けて貰ったの」
「そりゃ幸運だったね。ここら辺じゃ、つい三日前に管理人が殺されたところよ。こいつが犯人かも知れないね」
 女は、床に倒れている男を顎でしゃくる。
「警察に言っても、この地域じゃ相手にもされない。無法地帯だからね。女の一人歩きは、無謀だよ」
「本当ね」
 レイチェルは大きく息を吐いて、苦笑いする。
「一応、警察に電話してみる。いつ来てくれるかもわからないけどね」
 女がそう言いながらドアを閉めようとするところを、レイチェルの手が抑えた。
 女が振り返る。
「ごめんなさい。少し訊きたいことがあるの」
「なんだい?」
 レイチェルは床に転がるハンドバッグを拾い上げ、その中からドースンの写真を取り出した。
「この人、この辺りで見かけなかった?」
 住人が写真を除き込んだ。
「あるよ」
 すぐさま答えが返ってくる。
 住人は、はす向かいの部屋のドアを指さした。
「その人なら、そこの部屋に住んでる。といっても、最近は見かけないけどね」
 レイチェルは驚きの声を漏らした。
「彼は亡くなったの。爆弾魔の事件で。ご存じない? 連日連夜テレビや新聞で大騒ぎしてたのに」
 ドースンの写真は、マックスの事件が起こるまでは大々的に報道されていた。今や全米中にドースンの顔は知られていると思っていた。
 女は、顔を顰めると悪態をつく。
「うちは生きるだけで精一杯なのさ。テレビもないし、新聞だってたまに拾って読むくらいよ。ここら辺に住んでいる連中は、どこもそうさ」
 女は、仕立てのいいスーツを着ているレイチェルを、足先から頭の先までジロリと見つめた。
「あんたみたいな人には、わからないだろうがね」
 ドアがぴしゃりと締められる。
 レイチェルは「マズッた」と舌打ちをして、後ろを振り返った。
 レイチェルが舌をペロリと出すと、スタンは肩を竦ませた。
「どうやら、あんたの捜し物は見つかったようだね」
 スタンがレイチェルの背後のドアを指さして言う。
「別に住むところを探していた訳じゃないんだね」
 レイチェルは二、三回頷いた。
「実はそうなの。友達が借りていた部屋を探しに来たのよ。さっき言った通り、残念ながら亡くなったの。だから部屋を引き払いにきたのよ」
 レイチェルは、部屋のドアを眺めて言った。


 丁度この階の高さでこの向きの部屋なら、例のバーがある通りを見渡せる位置にある。おそらくここに間違いない。
 レイチェルは“例の部屋”の前に立って、躍起になってドアノブを掴んだが、案の定しっかりと鍵がかかっていた。
 ── やはり、セスに言って合い鍵か何か作ってもらわないと駄目ね。
 レイチェルは内心そう思って、振り返る。
 丁度スタンが、階段を下りていこうとしていた。
「あ、待って!!」
 レイチェルはスタンを追いかけて腕を掴んだ。
「助けてもらったお礼がしたいの。近くに雰囲気のいい飲み屋がある。そこで一杯奢るわ」
「いいよ、そんな・・・」
 スタンが首を横に振る。
「でも・・・」
 レイチェルがスタンに詰め寄ろうとした時、ハンドバッグの中の携帯電話が鳴り始めた。
「あ、ちょっと待って」
 レイチェルが電話に出ると、ウォレスの声が聞こえてきた。
『レイチェル、約束の時間が経ったよ。大丈夫かい?』
「大丈夫と言いたいところだけど、さっきはかなりやばかったの。あなたの言った通りね。反省してるわ」
 ウォレスの声が濁る。
『何かあったのかい? 大丈夫?』
 レイチェルは苦笑いする。
「強盗に襲われたんだけど、ラッキーなことに助けてもらったの」
 レイチェルはそう答えながら、スタンを見た。
 スタンは電話から少し漏れてくる声を聞き、「友達かい?」と訊いてくる。レイチェルは「ええ、そうよ。さっき言った飲み屋に今いるの」と答えた。
『レイチェル、今どこにいるんだ? 今からそっちへ行くよ』
「でも、これから警察が来るかもしれないから・・・」
 レイチェルがそう呟いた時、スタンがレイチェルの電話が終わるのを待たずに、階段を下りていく。
「スタン!」
 レイチェルが階段の手すり越しに叫ぶと、“スタン”は再び肩を竦め、笑顔を浮かべつつ、そのまま階段を下りて行った。
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