Amazing grace

国沢柊青

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act.104

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 「何だって? レイチェル。今、君何て言った?」
 セスが目を皿のようにして、呆然とそこに立ちつくすレイチェルを見上げた。
 それはマックスにしろテイラーにしろ、皆一様に同じ顔つきをして、レイチェルを見つめた。
 レイチェルは、必死に記憶の糸を手繰るような表情を浮かべていた。
 彼女の目に映るものはもはやウォレス家のリビングではなく、いつか廊下で激しくぶつかり、床に散らばった凄惨な写真を食い入るように見ていた年輩の男の横顔であり、いつかのダイナーで「部屋を探しているんだ」と訛りのきつい言葉で照れくさそうに話していた男の顔でもあった。
「そんな、嘘でしょう・・・」
 レイチェルが、そう囁く。
 レイチェルの脳裏に、あの廊下で写真を拾い上げる男の胸にぶら下がるネームタグが浮かび上がった。
 そこには、ベン・スミスと書かれてある・・・。
 レイチェルは、ひっと息を飲み込んだ。
 目を見開いたまま、テイラーを振り返る。
 テイラーが、益々怪訝そうな顔つきでレイチェルを見返した。
「ねぇ、そこの鞄に、ニールソンの写真、入ってるの?」
「え? あっ、ああ。でも・・・」
 テイラーは言葉を濁した。
 鞄の中に入っている資料は、機密性の高いものだった。
 病院でマックスに見せた写真も、当局の許可をもらった後に出したものだ。容易く民間人に見せられる資料ではない。
 しかし、それにしても、レイチェルの表情は必死だった。
 レイチェルはテイラーに歩み寄ると、その両肩を強い力で掴んだ。
「写真だけ。写真だけでいいの。他の捜査資料は読まない。顔だけ、顔だけ見たいのよ。もしニールソンが私の思っている男なら、私は立派な目撃者よ。言い訳は立つじゃないの」
 テイラーは、ゆっくり頷いた。
 彼は床に置いてある鞄を膝の上に持ち上げると、鞄のロックを外した。
 テイラーは僅かな隙間から手を差し込み、ファイルを探る。そうして一枚の写真を手に取ると、ゆっくりとそれを取り出した。
 ニールソンの写真が、遂にレイチェルに手渡される。
 レイチェルは食い入るようにそれを見入った。
 マックスは、自分の心臓が口から飛び出してしまうような感覚に襲われた。
 レイチェルが次になんと言うのか、それを聞き逃さないように息まで押し殺して答えを待っていたが、自分の心臓の音がうるさくて目眩がしそうだった。
 ── もしレイチェルがニールソンに会っているのだとしたら・・・。
 レイチェルがゆっくり顔を上げる。
「この写真は、いつのもの・・・?」
 小さな声で、レイチェルがテイラーに質問をする。
「随分前のものだ。投獄された後に刑務所にて撮影されたもので、五、六年は経っているだろう。だが、一番新しい写真だ。・・・で、どうなんだ。違うのか?」
 レイチェルは、答える代わりに写真を床に落とし、ヘナヘナとその場に座り込んだ。
「レイチェル?!」
 セスが走り寄り、彼女の身体を支える。レイチェルは、酔ったように数回瞬きをすると、セスを見上げた。
「私を強盗から助けた男・・・。その男がベン・スミスであり、ジェイク・ニールソンよ・・・」
 マックスが、声を失ったままソファーから立ち上がる。
 レイチェルが目に涙をうっすらと浮かべながら、悪態を付いた。
「何で気が付かなかったんだろう・・・。私、新聞社でも一度だけアイツに会ってた。でも気づかなかったのよ。二回目に会った時はキャップを被ってたし、雰囲気も全然違ってて・・・。チクショウ!」
 レイチェルの口から汚い言葉が漏れるが、誰も責めなかった。
「あいつが、あの男がケヴィンを殺したのね・・・。あいつの、あの目・・・」
 恐怖のためなのだろうか。レイチェルの両腕にはみるみる鳥肌が立っていった。セスが彼女を守るようにぐっと抱き締める。
 テイラーは、レイチェルが落とした写真に目をやった。
 色素の薄い青い瞳が、鋭い眼光でこちらを見ていた・・・。


 スカイブルーの瞳には、目の前を通り過ぎるパトカーの光が映り込んでいた。
 警察関係の車両は、放火の犯人であるジェイクを気にとめる様子はまったくなく、例のアパートメントから次々と去っていった。
 現場での捜査が終了したのだろうが、彼らがどう頑張っても自分にまで捜査の手が届くことはないだろう。
 ジェイクはパトカーのテールランプが街角に消えて行くまで見送ると、通りを渡ってある店のドアを開けた。
「悪いけど、まだ店は開いてないよ」
 カウンターの中にいたバーテンが、そう言いながら顔を上げた。
 次の瞬間、互いに驚いた顔で見つめ合った。
 ── これはこれは。意外なところで、意外な人間に会うものだ。
 ジェイクにとっても、男との再会は予想外のことだった。
 だが、何となく事情が飲み込めたような気がする。
 なぜ、アレクシスがこの街に腰を下ろしたのか。
 ジェイクは、思わずニヤリと笑みを浮かべた。
「ここはうまい酒が飲めそうだな。お前と俺の仲だ。開店前でも、サービスしてくれるだろう? なぁ、ローレンス」
 白髪混じりのバーテンは、驚愕の余り手にしていたグラスを落としたが、足下でグラスが割れる音がしてもジェイクから目を離さなかった。
 口を戦慄かせている彼の額には、見る見る汗の粒が浮かび上がった。
 ジェイクはすっかり冷静さを取り戻し、カウンターに腰掛ける。
「グラス、割れてるぞ」
 ローレンスの足下を顎でしゃくる。
 ローレンスは、呪縛から解かれたように足下を見ると、初めてグラスが割れていることに気が付いた様子で、慌ててガラスの破片を素手でかき集めた。
「痛!」
 指の根本を掴んで、ローレンスが立ち上がる。右手の人差し指から、赤い血がたらりと垂れた。
「ああ、何をやってるんだ、お前らしくもない。仲間内でも一番の冷静な紳士だと名高いティム・ローレンスだったじゃないか」
 ローレンスが、指を掴んだままジェイクを睨む。
 ジェイクは、その様が楽しくて仕方がないといった様子でニヤニヤと笑みを浮かべ続けた。
「再会を祝おうじゃないか。奢ってくれよ。あるだろう? ギネス」
 カウンターの向かいの棚に並べられているギネスのロゴが入ったグラスを指さして、ジェイクが言う。ローレンスは不愉快そうに益々顔を顰めた。
「お前に飲ませるものは何もない」
 ジェイクは肩を竦める。
「つれないな。俺がどれほどギネスと縁遠い生活を送ってきたか、お前だって知ってるだろうに。昔の同志とは思えない発言だな」
「お前を同志と思ったことは一度もない」
 ローレンスが唸るように言い返してくる。
「お前のすることには、正義がこれっぽっちもなかった。あるのは、私利私欲に走る腐った心だけだ。お前に騙されて人生を踏み誤った若者が、どれほどいたことか」
「人聞きの悪いことを言うな。お前だって俺だって、目的は違うにしろ、似たようなことをしてきたじゃないか。数多くの人の命を奪っておいて、正義もクソもなかろう。死にゆく人間に金が必要か? 俺は必要なくなったものを有効活用してきただけだ。きれいごとを言うな」
 ジェイクは、ローレンスこそ汚れた人間のように、白々しい目つきでローレンスを見た。
「どうせここだって、まともに得た金で開いた店ではあるまい」
 ジェイクは立ち上がると、カウンターの片隅に置いてあるビールグラスを手にとって、ギネスのビアタップから自分で勝手にビールを注いだ。その様子を、ローレンスが恨めしそうに睨み付けている。
 ジェイクは立ったまま、なみなみと注がれた黒ビールを啜ると「あ~」と内臓に染み入る声を上げた。
「これだ、この香り。こっちに来てから色々なビールを飲んだが、どれもこれも軟弱そのものでな」
 ジェイクは、グラス片手にまた元の席に戻ってくると、再びビールを口に含んで、満足そうな溜息をついた。
「ああ、生き返るようだ・・・。さて。うまい酒が出たところで、うまい酒の肴といこうか」
 ローレンスが怪訝そうな目でジェイクを見る。
「お前にはいろいろと訊きたいことがある。特に、お前の言う、『俺に騙されて人生を踏み誤った若者』とやらのことだ」
「何のことだ」
 ローレンスは冷たく言い放ったが、その瞳に動揺の色が一瞬浮かんだことをジェイクは見逃さなかった。
 ローレンスが一瞬目をやった、店の奥の席をジェイクは振り返る。
「何だ。あそこがお決まりの席なのか? アレクシスの」
 目に見えてローレンスの顔が強ばる。
 ジェイクは頭を横に振りながら、落胆の溜息をついた。
「ローレンス。この国に来て、お前もこの国のビールのように気の抜けた男に成り下がったのか? 前のお前は本当に切れる男だったのに。今のお前は素人そのものだ。そんなんじゃ、隠し事ひとつ満足にできやしない」
 ジェイクは再び席を立つと、先程ローレンスが目で指したボックス席のソファーに腰掛けた。
「アイツはどこらへんに座ってるんだ? ここか? ここ?」
 ローレンスが答えるつもりがないことを表情から読み取ると、ジェイクは肩を竦めて色の褪せたソファーをゆっくりと撫でた。
 愛おしそうに撫でるその手つきは、まるでそこにアレクシスの体温が残っていると思わせるほど執拗な手つきだった。
 やがてジェイクは鼻先をそこに近づけると、すうっと息を吸い込んだ。
「ふむ・・・」
 かすかにメンズトワレの香りがしたのだろうか。ジェイクは機嫌良さそうな表情を浮かべ、ローレンスの方に目をやり、「いい匂いだ。趣味がいい」と何度も繰り返した。
 ローレンスが口を開こうとする。そのローレンスの台詞を、ジェイクは人差し指を立てて遮った。
「あっ、あ。『お前は勘違いしている』とか、『アレクシスはこの街にいない』とか、陳腐な嘘をつくんじゃないぞ。これ以上俺を落胆させるな」
 ローレンスが唇を噛み締める。
 ジェイクはソファーにゆうゆうと身を預け、大きく深呼吸をする。
「俺が何も下調べなしに動くと思うか? この街にあの子がいることは、わかっている。この店によく出入りしていることも。ここで待っていたら、今夜会えるかもしれないなぁ。お前もそう思うだろう?」
 ジェイクはそう言って、満面の笑みを浮かべたのだった。
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