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act.107
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ティム・ローレンスが殺された。
しかも彼を殺したのは、ジェイク・ニールソン・・・。
ウォレスの言ったことは、少なからずもマックスを動揺させた。
もしそれが事実であれば、恐ろしいほど残虐なカリスマが、既に自分達のすぐ側まで忍び寄っているという証拠に他ならないからだ。
「どうして・・・。どうしてそんなことがわかるんです?」
マックスの不安が、思わずウォレスを責めるような口調に変わっていた。それを自分で感じ取って、マックスは思わず自嘲気味に「すみません」と小さく呟いた。
ウォレスが、マックスの肩に手を置く。
「君が謝るようなことは何もないじゃないか。君にそんな思いをさせたのは私だ」
思わずマックスはウォレスを見た。顔色は青いままだったが、いつものウォレスの落ち着きが戻ってきていた。
「ねぇ、パパ。本当にどういうことなの? 私だって訊きたいわ。なぜそうだとわかるの?」
シンシアが訊ねてくる。
ウォレスは大きく深呼吸をした後、思いを馳せるように一瞬天を仰いだ。
「今日の帰り・・・。仕事が早く終わったから、ローレンスの店に寄ろうと思ったんだ。開店前だったから、一応連絡しておこうと店に電話をした。だが、電話に出たローレンスは、電話の主が私だとわかっているのに間違い電話がかかってきたかのような対応をした。最後には『うちはピザ屋じゃない。うちに電話したって、お望みのものは何もない。あるのは、アイルランドの臭い地酒があるだけだ』と言った」
「アイルランドの臭い地酒・・・?」
マックスが怪訝そうに眉間に皺を寄せる。ウォレスもその表情に同調するように小さく頷いた。
「そんなものはローレンスの店に置いてはいなかった。故郷を懐かしむなら、ぬるい黒ビールで十分だから。きっと彼がその時指していたのは、ジェイクだったんだ。あの時、きっとジェイクがあの店にいた。そして側で電話のやりとりを聞いていたに違いない。だからこそローレンスは、私からの電話を間違い電話だとしらを切ってくれたんだ」
「でも、パパ。そのジェイクとかいう男の声が聞こえた訳じゃないんでしょ? なのになぜそう思うの? セスは単なる強盗だって言ってる。本当に強盗かもしれないわ」
電話の子機を胸元で握り締めるシンシアを見て、ウォレスは首を横に振る。
「私は見たんだ。その電話に不安を覚えた私は、直ぐにローレンスの店に向かった。しかし店についた頃には警察が来ていて、丁度遺体を搬送するところだった。担架で運ばれるローレンスの小指に、見覚えのある指輪が填められていた」
「指輪?・・・何の・・・」
そう呟いたマックスの目前に、ウォレスが自分の左手を翳した。
その薬指に光る黄金色の指輪・・・。
「まさか・・・」
シンシアの瞳に、大粒の涙が浮かび上がる。
「ローレンスに、指輪をつける習慣はなかった。あれは間違いなくリーナの指輪だ。私達が監禁された時、リーナの指からジェイクが奪ったもの。きっと指輪の内側には、リーナと私の名前が刻まれているに違いない」
シンシアが、ゴトリと電話の子機を床に落とす。
そしてマックスは、身体の底から揺さぶられるようにブルブルと身体を震わせた。
永遠にウォレスの指から外されることのない黄金の指輪と対をなす指輪の存在にわずかでも嫉妬を感じてしまったマックス自身と、そして自らが殺した遺体の指に自分の妹が付けていた指輪をねじ込む程歪んだ愛情表現でウォレスを縛ろうとするジェイクという男の激情・・・。
その負の感情同士が一瞬シンクロしたかのようで、マックスは思わずウォレスに背を向けた。
自分達が再び生命を狙われるかもしれないという恐怖よりも、ウォレスに対する自分の執着心が、ジェイクと同じように彼を傷つけてしまうのではないかという恐怖感の方が強かった。
ウォレスを情熱のまま愛することが、ジェイクと同じ様な結果を招いてしまうような気がして・・・。
「・・・マックス?」
ウォレスが、背中を向けたままのマックスに声をかける。
マックスは俯いたまま振り返ると、「シンシアのこと、見て上げてください。彼女、ショックでとても怯えてる・・・」と早口で呟き、マックスは洗面所を出て行った。
「マックス!」
マックスの後を追おうとしたウォレスだったが、事実マックスが言うようにシンシアがかなりショックを受けている様子だったので、結局はマックスを追えなかった。
ウォレスは心に苦いものを感じながら、シンシアを彼女の部屋に連れていき、ベッドに座らせ、彼女が落ち着くまで抱き締め続けた。
シンシアにとって、つい最近になって聞かされた母親リーナはとても大きな存在になっていた。
顔すら覚えていない実の母親は、自分とウォレスを救うため、己の命を捧げた。
そんな風にしか生きることができなかった女性のことを、シンシアはとても大切に思うようになっていた。
父親にその話を聞かされるまで、いつも母親の存在は薄かった。まるで雲を掴むような感じで、自分が人のお腹の中から生まれてきたという感覚すら持てなかった。
母の身に起きた真実がやっと父の口から語られることによって、ようやくそれがリアルなものと感じることができたのである。
── 私が生きていることこそが、ママの生きた証。
その大切な母の存在を、ジェイクによって汚されたかのようにシンシアは感じたのだ。
その残酷な手で母親の指から指輪を抜き取り、父親の身体に無数の傷 ── それは心の傷も含まれる ── を負わせた男。
その男が母親の指輪をずっと隠し持っていたことにも嫌悪感を覚えるが、その指輪をあろうことか見せしめのように遺体の指にねじ込むだなんて・・・。
シンシアは、ショックで泣き続けた。
いまだにジェイクの暗い陰に悩まされ続ける父親がかわいそうだったし、実質ジェイクに殺されたも同じような結果になってしまった母親が不憫でならなかった。そして、何十年経った今でも亡霊のようにしつこく感情を押しつけてくるジェイクという男が憎くてたまらなかった。
だが、後から後から出てくるのは涙ばかりで、そんな気持ちを父親にうまく伝えることができなかった。
ウォレスは、てっきりシンシアが、命の危険に晒される恐怖に怯えているとばかり思ったらしい。
「お前は、私が守る。命に替えても・・・」
ウォレスはそう呟き続けた。
本当はそんなこと、父親の口から出て欲しくなかった。
どうして命を差し出す必要があるのだろう。
父が、自分の命に替えても娘の命を守ると言ってくれること自体は、とても嬉しいことだ。父と反目していた頃は、父親がそこまで自分を大切に思ってくれていることすら知らなかったのだから。
けれど、これまで血の滲むような苦労の中生き抜いてきて、娘から見ても『最高の伴侶』を得ることができた今、簡単に「命に替えても」だなんて言葉、口にして欲しくない。
もしそういう場面になって、父がその選択を選んだとしたら、どうなってしまうのだろう。もし自分が父の命を犠牲にして助かったとして、自分のことを許せるのだろうか・・・。
誰も命を差し出す謂われはない。
この広い世界で、誰かのために命を犠牲にする必要がある人間なんて、いなくていいはずだ。ましてや、一方的な暴力に自分の命が奪われることを諦めるなど、あることすら間違っている。
父が、まるで贖罪めいた気持ちで自分に“命を差し出す”覚悟を決めるなんて、そんなの辛すぎる。そんなこと、言って欲しくない・・・。
そのことを思うと、余計泣けてきて、直ぐにでも父を解放してあげなくてはいけないのに、それができなかった。
結局シンシアが泣き疲れて眠るまで、ウォレスはずっと傍にいた。
ウォレスがマックスの元に姿を現した時、マックスは寝室の中を歩き回り、ベッドの上に衣類の山を作り上げていた。
「・・・マックス?」
寝室の戸口でウォレスがマックスの名を囁くと、マックスの背中が目に見えてビクリと震えた。その彼の手には、大降りのボストンバックが握られていた。
ウォレスはそれを見てぐっと唇を噛み締めたが、やがていつものような穏やかな声でこう言った。
「怖くなったんだね・・・。いいよ、出て行っても。それが普通の人間の反応だから」
マックスが無言のまま首を横に振る。そんなマックスを、ウォレスは不憫に思った。
── こんな男に関わったために、この青年は・・・。
マックスから笑顔を奪ったのは、自分自身だ。
ウォレスは自分の罪の重さを呪った。
「君が引け目を感じる必要はどこにもない。君は正しいんだ」
ウォレスの言葉に、マックスが振り返る。綺麗な涙をボロボロとかわいそうなほど零して、首を横に振った。
「君が選んだ選択なら、止めはしないよ。罪悪感を感じることはないんだ」
「違うんです! 違うんです!!」
マックスが叫ぶ。ウォレスは目を見開いた。
マックスは鞄を握りしめたまま、涙で声を詰まらせながら、大きな声を上げた。
「俺は・・・! 俺は・・・!! あの男みたいに・・・なりっ、なりたく、な、ないから・・・俺はっ!! ど、どうしていいかっ、わ、わかんなくて・・・!」
「マックス・・・?」
ウォレスはマックスに怖々近づき、鞄を握りしめる手にそっと触れた。
マックスは感極まったように泣き声を上げると、鞄を放り出してウォレスに抱きついてきた。
ウォレスは、マックスの髪を優しく撫でながら、マックスが落ち着くまでずっと待っていた。やがて、彼の呼吸が穏やかになったところを見計らって、訊く。
「・・・マックス・・・? どういうことなんだい・・・?」
マックスは、ウォレスの胸元でもなお首を横に振る。ウォレスは少し溜息をついた。
「君が一体何を考えているか、とても不安だよ」
マックスがビクリと身体を震わせる。
「君の正直な気持ちを聞かせてくれ。どんなことでも、受け入れてみせるから・・・」
その言葉を聞いて、再びマックスの顔が歪んだ。新たな涙が零れる。
「ごめんなさい・・・。あなたを困らせたい訳じゃないんです・・・。でも、俺・・・」
「何だい?」
ウォレスは、マックスの耳元で優しく囁く。
マックスは額をウォレスの胸に擦り付けた。
「嫉妬したんです・・・。指輪の話を聞いて、俺・・・。今まで、あなたの指に光る指輪を見ても、そう思っちゃいけないって自分を戒めてきたのに、今日の話を聞いて、恐怖よりなにより、嫉妬の気持ちが先に立ってしまった。こんな時に・・・。あのローレンスさんが殺されたって時に、そんなこと思うなんて・・・。あなたに対する自分の執着心が怖くなって・・・」
「それで、出て行こうとしたのかい?」
マックスが頷く。
「これ以上あなたの傍にいたら、ひょっとして俺も、あいつのようにあなたを雁字搦めにしてしまうんじゃないかって・・・、そう思って・・・」
ウォレスは、マックスの身体をギュッと抱き締めた。
「そういうことなら、君の考えは受け入れられないな」
「え?」
マックスが不安げに顔を上げる。
ウォレスはその唇をそっと奪った。
「私は、君に雁字搦めにされたいんだよ。私が君に傷つけられることなんて、これっぽっちもない。それどころか、君には与えられてばかりだ。君が自分の感情を誤解して出ていくというのなら、それは聞き入れられない。ダメかい?」
「ジム・・・!」
マックスの瞳が再び潤む。
ウォレスは、マックスの目尻に浮かぶ涙を指で拭った。
「でも、君が身の危険を感じてここを出て行くのなら、私は止めないよ。それはとても大事なことだから」
マックスは、強く首を横に振った。
「そんなことで、ここを出て行くつもりはありません。あの男に今の生活を奪う権利なんて、どこにもない」
マックスの瞳に、強い光が戻ってくる。
「昔はどうだったか知らないけれど、今のあなたは俺のものだ・・・。そうでしょ? そうですよね?」
ウォレスが微笑みながら頷く。
マックスは、ウォレスの首元に顔を埋めた。
「シンシアは・・・?」
「泣き疲れて眠ってしまったよ」
マックスの頬が赤く火照る。
「あなたを雁字搦めにしたい・・・。こんな時に不謹慎だけど・・・。あなたのことを想い続けていいんだって、この身体に刻み込んで欲しい・・・。ダメですか?」
ウォレスの頬も少し赤らんでしまう。
ウォレスは柔らかい微笑みを浮かべると、「ダメじゃないよ・・・」と囁いて、マックスにキスをした。
しかも彼を殺したのは、ジェイク・ニールソン・・・。
ウォレスの言ったことは、少なからずもマックスを動揺させた。
もしそれが事実であれば、恐ろしいほど残虐なカリスマが、既に自分達のすぐ側まで忍び寄っているという証拠に他ならないからだ。
「どうして・・・。どうしてそんなことがわかるんです?」
マックスの不安が、思わずウォレスを責めるような口調に変わっていた。それを自分で感じ取って、マックスは思わず自嘲気味に「すみません」と小さく呟いた。
ウォレスが、マックスの肩に手を置く。
「君が謝るようなことは何もないじゃないか。君にそんな思いをさせたのは私だ」
思わずマックスはウォレスを見た。顔色は青いままだったが、いつものウォレスの落ち着きが戻ってきていた。
「ねぇ、パパ。本当にどういうことなの? 私だって訊きたいわ。なぜそうだとわかるの?」
シンシアが訊ねてくる。
ウォレスは大きく深呼吸をした後、思いを馳せるように一瞬天を仰いだ。
「今日の帰り・・・。仕事が早く終わったから、ローレンスの店に寄ろうと思ったんだ。開店前だったから、一応連絡しておこうと店に電話をした。だが、電話に出たローレンスは、電話の主が私だとわかっているのに間違い電話がかかってきたかのような対応をした。最後には『うちはピザ屋じゃない。うちに電話したって、お望みのものは何もない。あるのは、アイルランドの臭い地酒があるだけだ』と言った」
「アイルランドの臭い地酒・・・?」
マックスが怪訝そうに眉間に皺を寄せる。ウォレスもその表情に同調するように小さく頷いた。
「そんなものはローレンスの店に置いてはいなかった。故郷を懐かしむなら、ぬるい黒ビールで十分だから。きっと彼がその時指していたのは、ジェイクだったんだ。あの時、きっとジェイクがあの店にいた。そして側で電話のやりとりを聞いていたに違いない。だからこそローレンスは、私からの電話を間違い電話だとしらを切ってくれたんだ」
「でも、パパ。そのジェイクとかいう男の声が聞こえた訳じゃないんでしょ? なのになぜそう思うの? セスは単なる強盗だって言ってる。本当に強盗かもしれないわ」
電話の子機を胸元で握り締めるシンシアを見て、ウォレスは首を横に振る。
「私は見たんだ。その電話に不安を覚えた私は、直ぐにローレンスの店に向かった。しかし店についた頃には警察が来ていて、丁度遺体を搬送するところだった。担架で運ばれるローレンスの小指に、見覚えのある指輪が填められていた」
「指輪?・・・何の・・・」
そう呟いたマックスの目前に、ウォレスが自分の左手を翳した。
その薬指に光る黄金色の指輪・・・。
「まさか・・・」
シンシアの瞳に、大粒の涙が浮かび上がる。
「ローレンスに、指輪をつける習慣はなかった。あれは間違いなくリーナの指輪だ。私達が監禁された時、リーナの指からジェイクが奪ったもの。きっと指輪の内側には、リーナと私の名前が刻まれているに違いない」
シンシアが、ゴトリと電話の子機を床に落とす。
そしてマックスは、身体の底から揺さぶられるようにブルブルと身体を震わせた。
永遠にウォレスの指から外されることのない黄金の指輪と対をなす指輪の存在にわずかでも嫉妬を感じてしまったマックス自身と、そして自らが殺した遺体の指に自分の妹が付けていた指輪をねじ込む程歪んだ愛情表現でウォレスを縛ろうとするジェイクという男の激情・・・。
その負の感情同士が一瞬シンクロしたかのようで、マックスは思わずウォレスに背を向けた。
自分達が再び生命を狙われるかもしれないという恐怖よりも、ウォレスに対する自分の執着心が、ジェイクと同じように彼を傷つけてしまうのではないかという恐怖感の方が強かった。
ウォレスを情熱のまま愛することが、ジェイクと同じ様な結果を招いてしまうような気がして・・・。
「・・・マックス?」
ウォレスが、背中を向けたままのマックスに声をかける。
マックスは俯いたまま振り返ると、「シンシアのこと、見て上げてください。彼女、ショックでとても怯えてる・・・」と早口で呟き、マックスは洗面所を出て行った。
「マックス!」
マックスの後を追おうとしたウォレスだったが、事実マックスが言うようにシンシアがかなりショックを受けている様子だったので、結局はマックスを追えなかった。
ウォレスは心に苦いものを感じながら、シンシアを彼女の部屋に連れていき、ベッドに座らせ、彼女が落ち着くまで抱き締め続けた。
シンシアにとって、つい最近になって聞かされた母親リーナはとても大きな存在になっていた。
顔すら覚えていない実の母親は、自分とウォレスを救うため、己の命を捧げた。
そんな風にしか生きることができなかった女性のことを、シンシアはとても大切に思うようになっていた。
父親にその話を聞かされるまで、いつも母親の存在は薄かった。まるで雲を掴むような感じで、自分が人のお腹の中から生まれてきたという感覚すら持てなかった。
母の身に起きた真実がやっと父の口から語られることによって、ようやくそれがリアルなものと感じることができたのである。
── 私が生きていることこそが、ママの生きた証。
その大切な母の存在を、ジェイクによって汚されたかのようにシンシアは感じたのだ。
その残酷な手で母親の指から指輪を抜き取り、父親の身体に無数の傷 ── それは心の傷も含まれる ── を負わせた男。
その男が母親の指輪をずっと隠し持っていたことにも嫌悪感を覚えるが、その指輪をあろうことか見せしめのように遺体の指にねじ込むだなんて・・・。
シンシアは、ショックで泣き続けた。
いまだにジェイクの暗い陰に悩まされ続ける父親がかわいそうだったし、実質ジェイクに殺されたも同じような結果になってしまった母親が不憫でならなかった。そして、何十年経った今でも亡霊のようにしつこく感情を押しつけてくるジェイクという男が憎くてたまらなかった。
だが、後から後から出てくるのは涙ばかりで、そんな気持ちを父親にうまく伝えることができなかった。
ウォレスは、てっきりシンシアが、命の危険に晒される恐怖に怯えているとばかり思ったらしい。
「お前は、私が守る。命に替えても・・・」
ウォレスはそう呟き続けた。
本当はそんなこと、父親の口から出て欲しくなかった。
どうして命を差し出す必要があるのだろう。
父が、自分の命に替えても娘の命を守ると言ってくれること自体は、とても嬉しいことだ。父と反目していた頃は、父親がそこまで自分を大切に思ってくれていることすら知らなかったのだから。
けれど、これまで血の滲むような苦労の中生き抜いてきて、娘から見ても『最高の伴侶』を得ることができた今、簡単に「命に替えても」だなんて言葉、口にして欲しくない。
もしそういう場面になって、父がその選択を選んだとしたら、どうなってしまうのだろう。もし自分が父の命を犠牲にして助かったとして、自分のことを許せるのだろうか・・・。
誰も命を差し出す謂われはない。
この広い世界で、誰かのために命を犠牲にする必要がある人間なんて、いなくていいはずだ。ましてや、一方的な暴力に自分の命が奪われることを諦めるなど、あることすら間違っている。
父が、まるで贖罪めいた気持ちで自分に“命を差し出す”覚悟を決めるなんて、そんなの辛すぎる。そんなこと、言って欲しくない・・・。
そのことを思うと、余計泣けてきて、直ぐにでも父を解放してあげなくてはいけないのに、それができなかった。
結局シンシアが泣き疲れて眠るまで、ウォレスはずっと傍にいた。
ウォレスがマックスの元に姿を現した時、マックスは寝室の中を歩き回り、ベッドの上に衣類の山を作り上げていた。
「・・・マックス?」
寝室の戸口でウォレスがマックスの名を囁くと、マックスの背中が目に見えてビクリと震えた。その彼の手には、大降りのボストンバックが握られていた。
ウォレスはそれを見てぐっと唇を噛み締めたが、やがていつものような穏やかな声でこう言った。
「怖くなったんだね・・・。いいよ、出て行っても。それが普通の人間の反応だから」
マックスが無言のまま首を横に振る。そんなマックスを、ウォレスは不憫に思った。
── こんな男に関わったために、この青年は・・・。
マックスから笑顔を奪ったのは、自分自身だ。
ウォレスは自分の罪の重さを呪った。
「君が引け目を感じる必要はどこにもない。君は正しいんだ」
ウォレスの言葉に、マックスが振り返る。綺麗な涙をボロボロとかわいそうなほど零して、首を横に振った。
「君が選んだ選択なら、止めはしないよ。罪悪感を感じることはないんだ」
「違うんです! 違うんです!!」
マックスが叫ぶ。ウォレスは目を見開いた。
マックスは鞄を握りしめたまま、涙で声を詰まらせながら、大きな声を上げた。
「俺は・・・! 俺は・・・!! あの男みたいに・・・なりっ、なりたく、な、ないから・・・俺はっ!! ど、どうしていいかっ、わ、わかんなくて・・・!」
「マックス・・・?」
ウォレスはマックスに怖々近づき、鞄を握りしめる手にそっと触れた。
マックスは感極まったように泣き声を上げると、鞄を放り出してウォレスに抱きついてきた。
ウォレスは、マックスの髪を優しく撫でながら、マックスが落ち着くまでずっと待っていた。やがて、彼の呼吸が穏やかになったところを見計らって、訊く。
「・・・マックス・・・? どういうことなんだい・・・?」
マックスは、ウォレスの胸元でもなお首を横に振る。ウォレスは少し溜息をついた。
「君が一体何を考えているか、とても不安だよ」
マックスがビクリと身体を震わせる。
「君の正直な気持ちを聞かせてくれ。どんなことでも、受け入れてみせるから・・・」
その言葉を聞いて、再びマックスの顔が歪んだ。新たな涙が零れる。
「ごめんなさい・・・。あなたを困らせたい訳じゃないんです・・・。でも、俺・・・」
「何だい?」
ウォレスは、マックスの耳元で優しく囁く。
マックスは額をウォレスの胸に擦り付けた。
「嫉妬したんです・・・。指輪の話を聞いて、俺・・・。今まで、あなたの指に光る指輪を見ても、そう思っちゃいけないって自分を戒めてきたのに、今日の話を聞いて、恐怖よりなにより、嫉妬の気持ちが先に立ってしまった。こんな時に・・・。あのローレンスさんが殺されたって時に、そんなこと思うなんて・・・。あなたに対する自分の執着心が怖くなって・・・」
「それで、出て行こうとしたのかい?」
マックスが頷く。
「これ以上あなたの傍にいたら、ひょっとして俺も、あいつのようにあなたを雁字搦めにしてしまうんじゃないかって・・・、そう思って・・・」
ウォレスは、マックスの身体をギュッと抱き締めた。
「そういうことなら、君の考えは受け入れられないな」
「え?」
マックスが不安げに顔を上げる。
ウォレスはその唇をそっと奪った。
「私は、君に雁字搦めにされたいんだよ。私が君に傷つけられることなんて、これっぽっちもない。それどころか、君には与えられてばかりだ。君が自分の感情を誤解して出ていくというのなら、それは聞き入れられない。ダメかい?」
「ジム・・・!」
マックスの瞳が再び潤む。
ウォレスは、マックスの目尻に浮かぶ涙を指で拭った。
「でも、君が身の危険を感じてここを出て行くのなら、私は止めないよ。それはとても大事なことだから」
マックスは、強く首を横に振った。
「そんなことで、ここを出て行くつもりはありません。あの男に今の生活を奪う権利なんて、どこにもない」
マックスの瞳に、強い光が戻ってくる。
「昔はどうだったか知らないけれど、今のあなたは俺のものだ・・・。そうでしょ? そうですよね?」
ウォレスが微笑みながら頷く。
マックスは、ウォレスの首元に顔を埋めた。
「シンシアは・・・?」
「泣き疲れて眠ってしまったよ」
マックスの頬が赤く火照る。
「あなたを雁字搦めにしたい・・・。こんな時に不謹慎だけど・・・。あなたのことを想い続けていいんだって、この身体に刻み込んで欲しい・・・。ダメですか?」
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