Don't Speak

国沢柊青

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act.03

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[4]

 ショーンは網戸と木の二重になったドアを開けながら、「ただいま」と呟いた。だが、その声に返事が返ってくることはない。
 父のスコットは遅くまで働いていた。
 ショーンをいい大学に進学させようとしている彼は、金を貯めるために時間外の仕事も積極的に引き受けている。残業は毎日のことだった。
 それでも幼い頃は小学校が終わる時間を見計らってスコットが一旦家に帰ってきていたので、その頃の名残がどうしてもショーンの口をついて出てしまうのだ。
 自分で夕食の支度ができるようになった今では、スコットが出迎えてくれることはなくなった。
 夕食の為だけに帰ってこなくてもいいと切り出したのはショーンの方だ。
 少しでもスコットの負担を軽くしたかったからだ。
 けれど本音を言えば、家に帰ってもスコットがいないことを少し残念に思っている自分がいる。
 わざとショーンは、自分のその感情に気づかない振りをしていた。
 ショーンが家に入ってまず向かうのが、ダイニングキッチンだ。
 その日もいつものようにキッチンのテーブルの上にナップザックを置こうとして、ショーンはハッとする。
 テーブルの上には、膝に歪なリンゴのアップリケが縫い付けられた小さなジーンズが置いてあった。
 ショーンは、優しくそのジーンズを撫でる。
 それは、ショーンとスコットにとって特別な意味のあるジーンズだった。
「別に、ケンカしてる訳じゃないのに・・・」
 ショーンは少し微笑みを浮かべて、ジーンズをぎゅっと抱きしめる。
 このジーンズがショーンの目に付くところに置いてあることには、スコットのメッセージが込められている。
 そのメッセージとはつまり、『仲直りしよう』だ。
 このジーンズを見る度、ショーンは甘酸っぱい気分になる。
 目を瞑れば、嫌でもあの頃の自分の声が蘇ってきた。


 「新しいジーンズが欲しいんだよ!」
 すっかり膝がすり切れてしまったジーンズを翳して、パンツ一丁の幼いショーンはスコットを睨み付けた。
 その頃はまだスコットが肩代わりした借金が残っており、それに加えショーンの学費も嵩み始めた時期だった。クーパー家が一番経済的に苦しかった時代だ。
 ショーンが学校に履いていけるまともなズボンはそのすり切れたジーンズのみで、膝に穴が空いてもなお、履き続けていたものだった。
 その日、ショーンがそんな台詞をスコットに叩き付けたのは、学校で穴あきジーンズをからかわれて悔しい思いをしたからだった。
 新しいジーンズを買えと言ったところで、本心では新しいジーンズなど買えるはずがないことは、幼いショーンでもよく分かっていた。ただ、クラスメイトに苛められた鬱憤をスコットに八つ当たりして、彼の困り果てた顔を見たかっただけだった。
 だが、スコットはそう取らなかった。
 彼はその日の夜に近所の家を訊ね、どうしたらいいか相談をした。
 結局、相談した相手が少し悪かったのだろう。
 洋裁好きのお祖母さんのアドバイスで、スコットは慣れない針仕事をする羽目になった。
 ショーンが翌朝見た光景は、リビングでショーンのジーンズを握ったまま眠りこけているスコットの姿だった。
 スコットの手は針で刺した傷が無数にあり、ジーンズの膝には歪な形のリンゴが縫いつけられていた。
 ── 絶対にまた、同級生にからかわれる。
 ショーンにはそれが手に取るように分かっていたが、それしか履いて行くものはなかった。
 結局、ショーンの思惑通り同級生の男の子から笑い者にされ、ショーンはその子を殴りつけた。
 自分ばかりか、一生懸命尽くしてくれたスコットまでもがバカにされた気がして、今まで苛められてきたストレスが一気に爆発したのだ。
 同級生に怪我を負わせたショーンは、そのまま学校を飛び出し、夜になっても家に帰らなかった。
 小さな町は大騒ぎになり、近所の人も手伝ってショーンを捜した。
 真夜中になって、公園のドラム缶の中に身を潜めていたショーンを見つけたのは、やはりスコットだった。
「・・・ごめんよ、ショーン。駄目な父親だな、俺は」
 そう言って苦々しい笑顔を浮かべるスコットの両目からは大粒の涙が零れ落ちていた。それは安堵の涙だった。
 スコットは、ドラム缶からショーンを連れ出すと、紙袋を渡してくれた。中には、真新しい子ども用のジーンズが入っていた。
 ショーンはそれを見て、唇を噛みしめた。
 スコットの腕に填められていた腕時計がなかったからだ。その時計は、スコットが高校の頃、州のアメフトベスト選手に選ばれた時の記念時計だった。
 その時になってやっとショーンは、自分が大変なことをしてしまったと感じた。
 幼心に、自分が世界一恥ずかしい存在のように思えた。
「ごめんなさい・・・。本当にごめんなさい・・・」
 謝罪の言葉は、泣きじゃっくりで上手く言えなかったが、それでもスコットは、満面の笑みを浮かべてショーンを力強く抱きしめた。
 そしていつまでも、「いいんだよ、ショーン。いいんだ・・・」と囁き続けてくれた・・・。
 

 あれ以来、スコットはあの時のジーンズを大切にしまっている。
 そしてショーンが癇癪を起こす度に、このジーンズは活躍してきた。
 あの頃のスコットに対する自分の気持ちは、本当に純粋だったと思う。
 それが今、こんな風になるだなんて、あの頃の自分は夢にも思っていないだろう。
 ショーンは溜息をつくと、そのジーンズをスコットの部屋のクローゼットにしまった。
 ショーンがそこにしまうことによって、仲直りが成立したことになる。
 男同士、面と向かって謝りにくい時には随分役立ってくれたジーンズだ。
 ショーンはダイニングキッチンに戻ってテーブルの上にナップザックと鍵を置き、上着を脱いで椅子に引っかけると、手を洗ってケトルに水を入れ、コンロにかけた。
 冷蔵庫のドアを開け、フリーザーから冷凍したビーンズの煮物を取り出し、電子レンジにかける。
 背後にある壁掛け時計に目を遣ると、もうすぐ夜の7時になろうとしていた。
 ナップザックから家庭に向けての連絡プリントを出そうとした時、一緒にカーターホールでの明日の公演チケットが一緒に出てきた。
 床に落ちたそれをショーンは拾い上げ、溜息をつく。
 ポールは、「ショーンが一緒についてきてくれたから勇気が出たんだ」と家に帰る道すがら、ずっとショーンに感謝し通しだった。
 「彼女と一緒に明日見に行ったら?」とショーンはチケットの受け取りを拒んだが、ポールは納得してくれなかった。
 けれどショーンにとっては、気まずいこと甚だしい。
 なぜなら、劇場主はあろうことかポールでなく、ショーンに興味を示しているのだから。
 結局そのことが言えずに、ショーンはチケットを受け取らざるを得なくなった。
 ── やっぱり、明日ポールにチケットを返そう。言い訳なんて何とでも言える。人を疑うことなどしないポールだから、渋々でもチケットを彼女と分け合って公演を楽しんでくれるだろう。どうせ行くなら、ああいう所は本当に心から楽しめる人間じゃないとダメだ。自分は相応しくない。
 ショーンはバックの中にチケットを押し込むと、ぴしゃりとファスナーを閉めた。
 そして夕食を二人分用意し、一人分を一人で食べ、二階にある自分の部屋に閉じこもった。何だかやはり、スコットと顔を合わせるのはまだ気まずい。
 しかし、それにしても・・・。
 なぜあの人は、俺なんかに興味を持ったんだろう。
 ショーンは、部屋の片隅にあるアコースティク・ギターに目を遣った。
 スコットが買ってくれたものだ。
 そのギターは、スコットが留守にしている時にしか絶対に弾くことはない。
 昔のアーティスト達の名曲を聴くことは、スコットの唯一の楽しみのひとつで、LPレコードをかけて寛ぐのが彼の日課だった。だから隣で聴いていたショーンはすっかり暗譜してしまい、一通り弾くことはできた。もはや『古典』と呼ばれている往年のロックミュージックは、ショーンにとって今流行の曲よりもよっぽど身近な存在だった。
 これはスコットはおろか誰も知らないことだが、ショーンは昔から音を一度聴くと大抵の曲はギターですぐに演奏することができた。
 ショーンにとってギターは、分身みたいなものだった。
 ギターを弾くと楽しいし、一瞬でもポジティブな気分になれる。
 だがもちろん、毎日熱心に練習している訳ではない。
 家に誰もいない時にしか触ってないし、もちろん家の外では一切弾いたことがない。
 自分よりよっぽどバンド活動を熱心にしている連中だってこの町にも沢山いるし、ショーンが上手いと思う素人バンドもいる。
 歌だって熱心に練習などしてないし、あくまで趣味の範囲でひっそりと一人楽しんでいるだけだ。
 それなのに、あの劇場主はショーンに「お前さんに興味がある」と言ってきた。
 例え父親譲りの音感と声があったとしても、ずぶの素人には変わりない。
 変わり者の劇場主の買いかぶりに、ショーンは肩を竦めた。
 やがて、下で物音がする。
 スコットが帰ってきたのだ。
「ただいま! ・・・ショーン?!」
 ダイニングキッチンからスコットの大きな声がして、ショーンは「二階にいるよ」と返事をした。階段を上がってくる足音がする。
 ショーンは引き出しから教科書を取り出し、ベッドの上でそれを読みふける振りをした。
 ドアがノックされる。
「ショーン?」
 優しげな声だ。スコットの声は、いつだって優しい。
「ショーン?」
 スコットの声が少し陰り、ショーンは「開いてるよ」と声を掛けた。
 ドアが少し開いて、スコットが顔を覗かせる。相変わらず、少しオイルの臭いがした。
「どこか、具合でも悪いのか?」
 ドアノブを掴むスコットのささくれ立った手を見て、ショーンは何とも言えない気持ちになった。
 最初に出会った頃のスコットは、まだ実業団アメフトチームの花形スターで、手もずっときれいだった。
 繊細なパスを投げる、逞しいが美しい手をしていた。
 それが今では、年中あかぎれだらけで、爪の先はオイル汚れが染みついて黒ずんでいる。
 彼をそんな風にしたのは、自分のせいのような気がして、ショーンはスコットの手から視線を逸らせた。
 息子のその苦々しい表情を、父は見逃さなかった。
 スコットは、ベッドに腰掛けるとショーンを抱きしめて前髪の生え際にキスをした。
「どうした? 仲直りはもう済んだだろ? まだ怒っているのか? 昨日、雑誌を見つけられたから?」
「別に、そんなんじゃないよ」
 ショーンは父の腕からさり気なく逃れる。
 本当なら、跳ね上がった心臓の音を聞かれまいと突き飛ばしたいくらいだが、そうすることによってスコットを傷つけたくなかった。でも、そうやって抱きしめられると、自分の中の欲望を押し殺せなくなる。
 スコットは、息子の歯切れの悪い返事に軽く溜息をついた。
「ショーンがそうじゃないっていうのなら仕方ないが。でも本当にそれを気にしてるんなら、そんなこと当たり前のことだって言いたいね」
 ショーンは、スコットの大きな青い瞳を見る。その目がふいに細められた。
「かといって、ああいう本を率先して買えっていう訳じゃないが。でもそういうことに興味を持つのは自然なことだ。お前ももう17だし、周囲はお前より一つ年上の18だ。もうそういう体験を済ませている人間も多いだろう。ショーンはどうなんだ?」
 ショーンは顔を赤らめた。
 学校ではクールと言われているショーンも、スコットの前ではそういう表情を見せる。
「 ── 前に無理矢理迫られたこともあったけど、断ったよ。・・・別に、そんなこと興味ない」
 ショーンが口を尖らせてそう言うと、スコットは声を出して笑った。
 嘘付けと言って、ショーンの髪をくしゃくしゃと掻き乱した。
「もし女の子とそういうことになりそうだったら、必ず避妊すること。病気の予防にもなる。それが相手に対する優しさだ。それから、遊びだけでセックスするのはよくない。互いに傷つくだけだぞ。好きな女の子ができたら、すぐに紹介すること」
 ベッドから立ち上がり、そう言いながら部屋を出ていくスコットに好きな女の子なんていないよ、と言い返した。
 スコットは、笑顔を浮かべながらドアの向こうに姿を消した。
 ショーンはパタンと閉じられたドアに向かって、小さな声で囁いた。
 俺が好きなのは、スコットただ一人だけだよ、と。


 翌朝。
 今日はいつものように寝床を起き出し、すぐに一階に下りた。
 夕食を一緒に食べることができない二人は、朝食だけは必ず一緒に食卓につくようにしていた。
 ダイニングテーブルの上には、いつものようにトマトサラダとハムエッグ、薄切りのトーストが4枚皿に積まれている。その横には業務用のピーナッツバターの瓶が置いてある。大振りのグラスには並々とミルクが注がれていた。
「おはよう、ショーン」
「おはよう、父さん」
 ショーンが椅子に座ると、いつになく真剣な顔をしたスコットが真っ直ぐにショーンを見た。
 ショーンはその重い空気に、怪訝な表情を浮かべた。
「何? 仲直りなら、昨夜したじゃない」
 昨日スコットが言った台詞を、今度はショーンが言う番だった。
 スコットは「そうだったな」と小さく頷いたが、堅い表情は崩さなかった。
 そのスコットが、懐から一枚のカードを取り出す。
「お前の上着から出てきた」
 ショーンは自分の前に差し出されたカードを覗き込んだ。
 それは、クリス・カーターの名刺で、クリスの携帯番号までご丁寧に手書きで書き加えられている代物だった。
 恐らく、帰り際「またきっと来ることになる」とショーンに囁いた時に、上着のポケットに落とし込んだのだろう。
 ── あのおっさん・・・。
 ショーンが心の中で舌打ちをした時、スコットが鋭い声でこう言った。
「何でこんな名刺を持っているんだ。私的な番号まで書いてある名刺なんか」
 温厚な彼から想像も付かないような、厳しい声色だった。
 ショーンには、スコットがその名刺でここまで目くじらを立てる理由が理解できなかった。
 こんな紙切れより、この前の薄汚れた雑誌の方がよっぽど悪い筈だ。
 ショーンは肩を竦める。
「これはただ、ポールに付き合って昨日劇場に行った時に貰っただけだよ。父さんだって、知ってるだろ? ポールが役者目指してるの。昨日、オーディションしてもらったんだよ」
 それを聞いてもスコットは、まだいい顔をしなかった。
「オーディションを受けたのは、ポールだけだったんだろ? それなのになんで、お前まで名刺を貰う必要があるんだ」
「知らないよ! ついでなんじゃない。父さんだって、俺がそういうの嫌いなの知ってるだろ? 何でもないよ、こんなの」
 ショーンは名刺を丸めると、部屋の片隅にあるゴミ箱に向かって放り投げた。
 スコットは、苦々しい顔でゴミ箱を眺めている。
「たかが名刺だけなのに、熱くなりすぎだよ、父さん」
 ショーンはそう言って、トーストを囓った。
 スコットはようやくゴミ箱から視線を外すと、小さな声で呟いた。
「とにかく。クリス・カーターには近づくな。悪い噂の絶えない人間だ」
 ショーンは、ちらりとスコットの顔を窺い見た。
 だが結局、スコットと視線が合うことはなかった。
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