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蛍の思い出
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吉隆と楓が祝言を挙げて早二ヶ月が過ぎようとしていた。二人は鞆城の近くに居を構えた。幕府の要人が多い地区は避けて、大可島城に近い場所にしたのは義昭と親密になりすぎないようにとの隆景の指示があったからだ。
「港に面しているから風が潮の香りを運んでくるわね」
「ああ、そうだな」
港に面した庭に出た楓が伸びをしている。その表情は今まで以上に喜びに溢れていた。それが嬉しくて吉隆の表情も自然と緩んだ。だが、すぐに楓の顔が陰ったのを見逃さなかった。
「でも、ここは蛍が見れられない……」
「楓?」
小さな囁きだったが、吉隆は聞き逃さなかった。次の瞬間、楓は【何でも無い】と誤魔化した。その様子が気になり、もう一度声をかけようとしたところで、玄関から大きな声が聞こえてきた。
「又四郎様!!」
「平太?」
息を切らせて現れたのは平太だった。その様子にただならぬものを感じた吉隆は問いただす。
「何事だ?」
「亮康様がすぐに大可島城へ参れと仰せです」
「父上が?」
「はい。小早川様より書状が届いたそうにございます」
その言葉にただならぬものを感じた。大可島城を預かる父・亮康は小早川の直臣ではなく、あくまでも因島村上氏の分家だ。その本家を飛び越して直接指示が届いたと言うことは何か不測の事態が起きたのだ。
「わかった。すぐに参ると父上に伝えてくれ」
平太は城へとって返すと、吉隆はそれを追うように屋敷を後にした。
吉隆が大可島城に到着すると亮康と景康が一通の書状を前に腕組みをしていた。
「遅くなって申し訳ありませぬ」
「おお、吉隆か」
「何かありましたか?」
返事の代わりにその書状を差し出した。吉隆はそれに目を通す。それは織田家の動向を記したものであった。
「遂に安土城が完成しましたか……」
「それだけではない。城下では楽市令が発せられたそうだ」
吉隆は書状を戻し、ため息をついた。書状を見る限り、義昭の幕府再興の望みは絶たれたに等しかった。領民たちの多くは信長を天下人として扱い、【上様】と呼ばせている。
「輝元様は織田と戦をする気はなかった。それを恵瓊が……」
恵瓊とは臨済宗の僧で安国寺の住職だ。毛利にとっては隆景と並ぶ外交担当である。その手腕は皆が一目置くほどであった。
先年、義昭をこの鞆に迎える算段をしたのも恵瓊に寄るところが大きかった。
「父上、過ぎたことは仕方ありませぬ」
「兄上の言う通りです」
「うむ……」
亮康は再び腕を組み、深いため息をついた。
「それで、小早川様は我々にどうしろと?」
「織田との戦に備えて、備後の国人衆の結束を強めよとのお達しだ」
亮康はそこで言葉を切り、懐からもう一通の書状を取り出した。
「父上、それは?」
「小早川様直々の密書だ」
差し出された密書を景康が受け取り目を通す。その後、吉隆にも手渡された。それを読み終えた二人の顔には険しさが宿っていた。
「どうやら、輝元様は織田との戦は乗り気ではないようだ」
「そのようですな」
「とはいえ、織田は尼子の残党を支援しています」
「そこが悩みどころよ」
隆景からの密書は織田との全面対決をなるべく遅らせることを目的とした情報収集を命じるものだった。
「いくら分家の我らとはいえ、表立って動く訳にはいきませぬ」
「そこだ。何か手を考えねばならぬ」
亮康はこのとき、毛利家から知行を受けると同時に義昭からも知行を受けていた。つまり、信長を打ち破り幕府再興を望む義昭と、なるべくなら衝突を避けたい輝元の間で板挟みとなっていたのだ。
これに対して、それまで沈黙を保っていた吉隆が口を開いた。
「俺に一つ案がございます」
大可島城に呼び出されて十日後。吉隆は鞆を発ち、芦田川沿いを北上し、有地村の国竹城を目指した。
「本当に良かったの?」
「大谷城は水の綺麗な場所で、蛍もたくさん飛んでいる。それに有地殿には五年も世話になった。その礼も兼ねて尋ねるのも良いだろう」
「そっか……」
楓はすまなそうにしながらも笑顔を浮かべる。
「父上からゆっくりしてこいと言われている。大谷城まではかなりあるから、少し寄り道をしていこう」
吉隆の言葉に楓は興味を惹かれた。備後の国人衆は毛利に従うようになって日が浅い。ましてや、備前の梟雄・宇喜多直家の存在もある。そのため、楓は鞆から一歩も出たことがなかった。遠縁とは言え、名家・広橋家の血筋である楓にもしもの事があってはならないとの隆景からの指示もあり、鞆から出ることを許されなかったのだ。
だから、吉隆が外へ連れて行ってくれることを喜んだ。
「まずは草戸稲荷に寄ってみるか……」
草戸稲荷は備後で最も大きな稲荷神社である。芦田川の中州に鎮座しており、その側には草戸千軒町と呼ばれる港町がある。古くから商いが行われており、中には唐渡りの品物まで取り引きされていた。
「これはこれは、【鞆の白狼】殿ではございませぬか」
「ご無沙汰しております」
吉隆に声をかけてきたのは草戸稲荷の宮司だった。その表情には明るい。どうやら、戦の影は及んでいないようだ。
「そちらの女人は?」
「俺の妻です」
「妻!? なんと、白狼殿が妻を娶られたか!! いや、めでたい」
宮司は楓の顔を見やると、にこやかに笑みを浮かべた。宮司は余程嬉しかったのだろうか、周りに大声で振れて回る。
「あの、鞆殿のご子息の嫁さんかぁ」
「えらい、べっぴんさんじゃあ」
あっという間に人だかりが出来、二人は囲まれてしまった。楓が戸惑っているのを感じ、吉隆はさりげなく抱き寄せる。
「又四郎?」
「すまない。こんなことになるとは思わなくて……」
その後は集まった人々から、祝いだと酒やら漬物やら饅頭を押しつけられる羽目に。だが、皆の顔に浮かぶ笑みで悪い気はしなかった。やがて、楓は子供たちに遊ぼうと誘われて連れられていった。
「吉隆殿……」
それまでと一変した宮司の声音に吉隆は眉根を寄せる。宮司は頷くと社殿の方へと歩き始めた。吉隆は黙って着いていく。着いた先は社務所だった。宮司は奥の間へと吉隆を案内する。
「機内から帰ってきた者によると、織田信長は安土に都を移すつもりではないかと……」
「まさか!!」
「楽市令により、安土城下には人も物も集まっております」
宮司の言葉に吉隆は腕組みをする。そんな、吉隆を諭すように宮司は続ける。
「織田はそれまでのしきたりを壊し、全く新しい仕組みを作ろうとしております。戦続きの今の世に必要なことではありますが、如何せんその進み具合が早すぎる」
宮司は目を眇めて、深くため息をつく。
「いずれ、大きな歪みが起きましょう」
「我々はどうすれば良いのでしょう?」
「亡き毛利の大殿が残された通り【版図の保全】即ち【守り】に徹することでしょうな」
宮司の言葉に吉隆は頷くより他なかった。
それから暫くして吉隆と楓は草戸稲荷を後にした。去り際に宮司から織田の動向は逐一知らせると約束してくれた。
「又四郎?」
「うん?」
「何かあった? さっきから、恐い顔している……」
楓が心配そうにのぞき込む。吉隆は後ろ頭を搔きながら苦笑する。
「宮司殿から織田の動向を聞いたからかな」
「織田の動向……」
「楓?」
今度は楓が暗い顔をする。吉隆は【大丈夫だ】と励ますように抱き寄せ、微笑みかけた。だが、楓は悲しげな笑みを浮かべて芦田川の流れをジッと見つめる。
「私は……」
「楓?」
「私はあのお方が恐い……」
「恐い?」
吉隆の問いに楓は頷いた。
「どう恐いんだ?」
「それは上手く言えない。だけど、私はあの方に見つかる前に逃げ出すことにしたの」
「それで公方様に従ったのか……」
吉隆は納得した。広橋家から本家の日野を継いだ輝資も広橋の当主・兼広も信長の説得を受け入れ、京に残った。にも拘わらず、楓は義昭に従ったのだ。
「遠縁の私が広橋の家に厄介になってるのを快く思ってない人たちがいるのは知ってたから」
自嘲気味に笑う楓を慰めるように吉隆は抱き寄せた。
(俺とは大違いだ……)
そう思わずにはいられなかった。吉隆は祖父が誅殺され、故郷を追われた。それでも、周りの助けで石見から備後に逃げ延び、温かく迎えられた。更に、自分を気に入った亮康に養子として迎えられ、母・朱里からも兄・景康からも可愛がられてきた。
そんな自分と正反対な境遇を生き抜いてきた楓を何としても守りたいと強く思う。それを現すように、強く抱き寄せる。
「大丈夫だ。これからは俺が側にいる」
「又四郎……」
楓は吉隆の胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らしたのだった。
結局、その日は山手村の銀山城に泊まることにした。
元々、この銀山城は西伯耆に移った杉原盛重の居城であり、村尾城主になったあとは一門衆が城代を務めていた。
「遂に【鞆の白狼】も年貢の納め時か!」
開口一番、愉快そうに笑ったのは現在の村尾城主・杉原景盛だった。吉隆は照れ隠しに後ろ頭を搔いた。
「相変わらず、大事にしているのだな……」
景盛が目を細めて、吉隆を見やった。その視線の先が、腰に差した脇差しだと気づく。それを取り出し、大事そうに撫でる。
「その節は……」
「気にせずとも良い。あれがあったからこそ、そなたを鞆殿に引き合わせることが出来た。それに……」
「それに?」
吉隆が訝しむように首をかしげる。景盛はニヤリと口の端を上げると言葉を続けた。
「こうして妻を娶ったとの報告も聞けた」
景盛は手にした杯を一気に呷った。吉隆は照れて俯くのだった。
「杉原様は良い方ですね」
「そうだな」
二人は宛がわれた客室で景盛の歓待ぶりを思い出していた。城をあげての歓待ぶりに申し訳ない気持ちになった。だが、皆【めでたいことは一緒に祝うべき】といって喜んでくれたのだった。
「あ……」
「?」
楓が何かに気付いたように庭に出た。目を懲らすと一匹の蛍が飛んでいる。
「そうか。この近くには川が流れているから、迷い込んだのかもしれん」
「ちょっとかわいそう……」
楓はそこか寂しげな笑みを浮かべた。そんな彼女を吉隆は後ろから包み込むように抱きしめた。
「大丈夫、ここまで自力できたんだ。仲間のところにも戻れるはずだ」
「そうだといいな」
楓は吉隆にその身を預ける。そして、何とはなしに話し始めた。
「子供の頃、今の時期になると父は母と私を伴ってよく蛍を見に連れて行ってくれた」
「だから、蛍が見たかったのか?」
楓にとって蛍は家族との幸せな思い出だった。
「大谷城にはもっとたくさんいる。新しい思い出を俺と作ろう」
「うん……」
吉隆の優しさに楓は心の底から笑うのだった。
「港に面しているから風が潮の香りを運んでくるわね」
「ああ、そうだな」
港に面した庭に出た楓が伸びをしている。その表情は今まで以上に喜びに溢れていた。それが嬉しくて吉隆の表情も自然と緩んだ。だが、すぐに楓の顔が陰ったのを見逃さなかった。
「でも、ここは蛍が見れられない……」
「楓?」
小さな囁きだったが、吉隆は聞き逃さなかった。次の瞬間、楓は【何でも無い】と誤魔化した。その様子が気になり、もう一度声をかけようとしたところで、玄関から大きな声が聞こえてきた。
「又四郎様!!」
「平太?」
息を切らせて現れたのは平太だった。その様子にただならぬものを感じた吉隆は問いただす。
「何事だ?」
「亮康様がすぐに大可島城へ参れと仰せです」
「父上が?」
「はい。小早川様より書状が届いたそうにございます」
その言葉にただならぬものを感じた。大可島城を預かる父・亮康は小早川の直臣ではなく、あくまでも因島村上氏の分家だ。その本家を飛び越して直接指示が届いたと言うことは何か不測の事態が起きたのだ。
「わかった。すぐに参ると父上に伝えてくれ」
平太は城へとって返すと、吉隆はそれを追うように屋敷を後にした。
吉隆が大可島城に到着すると亮康と景康が一通の書状を前に腕組みをしていた。
「遅くなって申し訳ありませぬ」
「おお、吉隆か」
「何かありましたか?」
返事の代わりにその書状を差し出した。吉隆はそれに目を通す。それは織田家の動向を記したものであった。
「遂に安土城が完成しましたか……」
「それだけではない。城下では楽市令が発せられたそうだ」
吉隆は書状を戻し、ため息をついた。書状を見る限り、義昭の幕府再興の望みは絶たれたに等しかった。領民たちの多くは信長を天下人として扱い、【上様】と呼ばせている。
「輝元様は織田と戦をする気はなかった。それを恵瓊が……」
恵瓊とは臨済宗の僧で安国寺の住職だ。毛利にとっては隆景と並ぶ外交担当である。その手腕は皆が一目置くほどであった。
先年、義昭をこの鞆に迎える算段をしたのも恵瓊に寄るところが大きかった。
「父上、過ぎたことは仕方ありませぬ」
「兄上の言う通りです」
「うむ……」
亮康は再び腕を組み、深いため息をついた。
「それで、小早川様は我々にどうしろと?」
「織田との戦に備えて、備後の国人衆の結束を強めよとのお達しだ」
亮康はそこで言葉を切り、懐からもう一通の書状を取り出した。
「父上、それは?」
「小早川様直々の密書だ」
差し出された密書を景康が受け取り目を通す。その後、吉隆にも手渡された。それを読み終えた二人の顔には険しさが宿っていた。
「どうやら、輝元様は織田との戦は乗り気ではないようだ」
「そのようですな」
「とはいえ、織田は尼子の残党を支援しています」
「そこが悩みどころよ」
隆景からの密書は織田との全面対決をなるべく遅らせることを目的とした情報収集を命じるものだった。
「いくら分家の我らとはいえ、表立って動く訳にはいきませぬ」
「そこだ。何か手を考えねばならぬ」
亮康はこのとき、毛利家から知行を受けると同時に義昭からも知行を受けていた。つまり、信長を打ち破り幕府再興を望む義昭と、なるべくなら衝突を避けたい輝元の間で板挟みとなっていたのだ。
これに対して、それまで沈黙を保っていた吉隆が口を開いた。
「俺に一つ案がございます」
大可島城に呼び出されて十日後。吉隆は鞆を発ち、芦田川沿いを北上し、有地村の国竹城を目指した。
「本当に良かったの?」
「大谷城は水の綺麗な場所で、蛍もたくさん飛んでいる。それに有地殿には五年も世話になった。その礼も兼ねて尋ねるのも良いだろう」
「そっか……」
楓はすまなそうにしながらも笑顔を浮かべる。
「父上からゆっくりしてこいと言われている。大谷城まではかなりあるから、少し寄り道をしていこう」
吉隆の言葉に楓は興味を惹かれた。備後の国人衆は毛利に従うようになって日が浅い。ましてや、備前の梟雄・宇喜多直家の存在もある。そのため、楓は鞆から一歩も出たことがなかった。遠縁とは言え、名家・広橋家の血筋である楓にもしもの事があってはならないとの隆景からの指示もあり、鞆から出ることを許されなかったのだ。
だから、吉隆が外へ連れて行ってくれることを喜んだ。
「まずは草戸稲荷に寄ってみるか……」
草戸稲荷は備後で最も大きな稲荷神社である。芦田川の中州に鎮座しており、その側には草戸千軒町と呼ばれる港町がある。古くから商いが行われており、中には唐渡りの品物まで取り引きされていた。
「これはこれは、【鞆の白狼】殿ではございませぬか」
「ご無沙汰しております」
吉隆に声をかけてきたのは草戸稲荷の宮司だった。その表情には明るい。どうやら、戦の影は及んでいないようだ。
「そちらの女人は?」
「俺の妻です」
「妻!? なんと、白狼殿が妻を娶られたか!! いや、めでたい」
宮司は楓の顔を見やると、にこやかに笑みを浮かべた。宮司は余程嬉しかったのだろうか、周りに大声で振れて回る。
「あの、鞆殿のご子息の嫁さんかぁ」
「えらい、べっぴんさんじゃあ」
あっという間に人だかりが出来、二人は囲まれてしまった。楓が戸惑っているのを感じ、吉隆はさりげなく抱き寄せる。
「又四郎?」
「すまない。こんなことになるとは思わなくて……」
その後は集まった人々から、祝いだと酒やら漬物やら饅頭を押しつけられる羽目に。だが、皆の顔に浮かぶ笑みで悪い気はしなかった。やがて、楓は子供たちに遊ぼうと誘われて連れられていった。
「吉隆殿……」
それまでと一変した宮司の声音に吉隆は眉根を寄せる。宮司は頷くと社殿の方へと歩き始めた。吉隆は黙って着いていく。着いた先は社務所だった。宮司は奥の間へと吉隆を案内する。
「機内から帰ってきた者によると、織田信長は安土に都を移すつもりではないかと……」
「まさか!!」
「楽市令により、安土城下には人も物も集まっております」
宮司の言葉に吉隆は腕組みをする。そんな、吉隆を諭すように宮司は続ける。
「織田はそれまでのしきたりを壊し、全く新しい仕組みを作ろうとしております。戦続きの今の世に必要なことではありますが、如何せんその進み具合が早すぎる」
宮司は目を眇めて、深くため息をつく。
「いずれ、大きな歪みが起きましょう」
「我々はどうすれば良いのでしょう?」
「亡き毛利の大殿が残された通り【版図の保全】即ち【守り】に徹することでしょうな」
宮司の言葉に吉隆は頷くより他なかった。
それから暫くして吉隆と楓は草戸稲荷を後にした。去り際に宮司から織田の動向は逐一知らせると約束してくれた。
「又四郎?」
「うん?」
「何かあった? さっきから、恐い顔している……」
楓が心配そうにのぞき込む。吉隆は後ろ頭を搔きながら苦笑する。
「宮司殿から織田の動向を聞いたからかな」
「織田の動向……」
「楓?」
今度は楓が暗い顔をする。吉隆は【大丈夫だ】と励ますように抱き寄せ、微笑みかけた。だが、楓は悲しげな笑みを浮かべて芦田川の流れをジッと見つめる。
「私は……」
「楓?」
「私はあのお方が恐い……」
「恐い?」
吉隆の問いに楓は頷いた。
「どう恐いんだ?」
「それは上手く言えない。だけど、私はあの方に見つかる前に逃げ出すことにしたの」
「それで公方様に従ったのか……」
吉隆は納得した。広橋家から本家の日野を継いだ輝資も広橋の当主・兼広も信長の説得を受け入れ、京に残った。にも拘わらず、楓は義昭に従ったのだ。
「遠縁の私が広橋の家に厄介になってるのを快く思ってない人たちがいるのは知ってたから」
自嘲気味に笑う楓を慰めるように吉隆は抱き寄せた。
(俺とは大違いだ……)
そう思わずにはいられなかった。吉隆は祖父が誅殺され、故郷を追われた。それでも、周りの助けで石見から備後に逃げ延び、温かく迎えられた。更に、自分を気に入った亮康に養子として迎えられ、母・朱里からも兄・景康からも可愛がられてきた。
そんな自分と正反対な境遇を生き抜いてきた楓を何としても守りたいと強く思う。それを現すように、強く抱き寄せる。
「大丈夫だ。これからは俺が側にいる」
「又四郎……」
楓は吉隆の胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らしたのだった。
結局、その日は山手村の銀山城に泊まることにした。
元々、この銀山城は西伯耆に移った杉原盛重の居城であり、村尾城主になったあとは一門衆が城代を務めていた。
「遂に【鞆の白狼】も年貢の納め時か!」
開口一番、愉快そうに笑ったのは現在の村尾城主・杉原景盛だった。吉隆は照れ隠しに後ろ頭を搔いた。
「相変わらず、大事にしているのだな……」
景盛が目を細めて、吉隆を見やった。その視線の先が、腰に差した脇差しだと気づく。それを取り出し、大事そうに撫でる。
「その節は……」
「気にせずとも良い。あれがあったからこそ、そなたを鞆殿に引き合わせることが出来た。それに……」
「それに?」
吉隆が訝しむように首をかしげる。景盛はニヤリと口の端を上げると言葉を続けた。
「こうして妻を娶ったとの報告も聞けた」
景盛は手にした杯を一気に呷った。吉隆は照れて俯くのだった。
「杉原様は良い方ですね」
「そうだな」
二人は宛がわれた客室で景盛の歓待ぶりを思い出していた。城をあげての歓待ぶりに申し訳ない気持ちになった。だが、皆【めでたいことは一緒に祝うべき】といって喜んでくれたのだった。
「あ……」
「?」
楓が何かに気付いたように庭に出た。目を懲らすと一匹の蛍が飛んでいる。
「そうか。この近くには川が流れているから、迷い込んだのかもしれん」
「ちょっとかわいそう……」
楓はそこか寂しげな笑みを浮かべた。そんな彼女を吉隆は後ろから包み込むように抱きしめた。
「大丈夫、ここまで自力できたんだ。仲間のところにも戻れるはずだ」
「そうだといいな」
楓は吉隆にその身を預ける。そして、何とはなしに話し始めた。
「子供の頃、今の時期になると父は母と私を伴ってよく蛍を見に連れて行ってくれた」
「だから、蛍が見たかったのか?」
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