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林の章
禰々からの文
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晴信が香姫を連れて居間に行くと、既に大井の方・信繁らが朝餉を取っていた。
「兄上、そのお姿は……」
「はは、一人飲んでおったらそのまま寝入ってしまってな」
「では、後で湯浴みをなさいませ」
「ああ、そうする」
晴信は上座に用意された膳の前に座ると朝餉を取り始める。香姫は大井の方の隣に座る。晴信はこの場に三条の姿がないことに違和感を覚え、母に問うた。
「三条殿ならば、次郎に乳をやっておる頃でしょう」
その言葉に晴信は納得した。実はこの年に三条との第二子にあたる男児・次郎が誕生しており、太郎の時と同じく次郎も良く乳を飲み健やかに育っていた。
二人の息子の成長に思いを馳せていると大井の方が手にした茶碗を膳に戻し、晴信に視線を向けてきた。
「晴信殿、お話ししたきことがあります」
「母上?」
「朝餉のあと、北の方へおいでなさい」
「今、ここでは出来ぬ事と?」
「はい。出来ればそなたと二人だけでお話ししたく……」
「分かりました。後ほどお伺いします」
晴信の返事に大井の方は安堵したようだった。すぐ後に膳を下げるよう侍女に申し渡し自室へと下がる。
「兄上。母上の様子、気になりますな」
「うむ。悪い話でなければ良いが」
信繁の心配そうな顔に同調するように晴信にも影が浮かぶ。晴信には母の話が何なのか察しがついていた。
恐らくは、諏訪に嫁いだ妹・禰々の事であろう。もしかしたら、頼重は晴信の家督相続に不信感を抱いているのかもしれない。それに気付いた禰々が文をよこしたのかもしれない。
当時の武家の妻は実家にとって外交官の役目もあったという。故に婚家の異変を実家に知らせることはままあることであった。
(やはり、禰々から何か知らせが来たのであろうか……)
朝餉を食べ終えた晴信は白湯を飲みながら、諏訪の地で一人奮闘しているであろう妹を思うのであった。
晴信は朝餉を終えて、巳の刻(午前十時ごろ)には大井の方の住まう北の方へと赴いた。大井の方は晴信が入室するとすぐに侍女たちに申しつけて人払いをする。戸は全て閉められ、密室となった。
「晴信殿、これを……」
大井の方は晴信と二人きりになったのを確認してから文箱を開け、その中から一通を取り出し、差し出した。晴信は手に取ると、視線で読んでも良いかを尋ねる。大井の方はゆっくりと頷き、促した。そこに書かれていたのは予想通りのものであった。晴信の家督相続を祝いつつも、諏訪への対応が変わるのではないかとの不安を滲ませていたのだ。
文を読み終え、晴信はそれを大井の方へと返す。受け取った大井の方の瞳には娘を案じる色が浮かんでいる。
「母上、禰々には何も心配はいらぬと返事をしてやって下さい」
「晴信殿……」
「父上とは違う道を選ぶつもりではおりますが、その中に諏訪を滅ぼすと言うのは含まれておりません」
「そうですか」
大井の方が安堵のため息をつき、笑みが浮かぶ。だが、晴信は重く低い声で言葉をつなげる。
「ただし、諏訪が独断で動けばこの限りではございませぬ」
「それはどういうことですか?」
「諏訪惣領家に不満を持つ者がおります。頼重殿の意向一つでその者たちの不満が膨れ上がるやもしれませぬ。そればかりか、この武田との盟約も無きものとなるやも……」
晴信の言葉が最後通牒に感じられたのか、大井の方はグッと手を握りしめ、唾を飲み込む。その背筋には冷たい汗が流れ落ちた。何より、自分を見つめる晴信の瞳は冷酷で残忍な輝きを湛えている。だが、その冷酷な色がフッと消えて無くなり、柔らかく優しい眼差しへと変わる。その変わりように大井の方は戸惑いを隠しきれない。
「ですが、この晴信の目が黒いうちはそのような真似はさせませぬ」
「晴信殿」
「近いうち、諏訪へ参って頼重殿と腹を割って話すつもりです。さすれば、禰々も心安んじられましょう」
「そうですね」
「とはいえ、すぐにとはいきませぬの。何かあれば知らせるように言い含めて下され」
「わかりました」
晴信は母の不安を取り除かんと柔らかい笑みを浮かべる。その様子に大井の方が心底安堵したのは言うまでも無い。
母の元を辞してから晴信はすぐに行動を起こす。勘助を呼び、諏訪領の内情を調べるように命じる。そして、信繁を伴い城下を視察するとの名目で館を出る。下府中・一条小山にて香姫の侍女・滝と落ち合った。
「滝、なんぞ掴んではおるか?」
「上野から諏訪へ頻繁に出入りがあるようです」
「そうか。何か理由を付けて頼重殿に合わねばならぬな」
「でしたら、諏訪上社への参詣を打診されては如何でしょう。今は弟の頼高様が大祝を努めておいでですが、もとは頼重様が努めておいででした。何より諏訪は軍神。これより先の武田の必勝祈願と申せば下手な疑いもかかりませぬでしょう」」
「ふむ。では、そのように手筈を整えてくれ」
「御意」
滝は一礼してその場を離れようとした。が、晴信はと思い立ち彼女を呼び止めた。そして、思わぬ事を告げる。【香姫も同行させる】と……。滝は驚きを隠せず、しばらくその場に立ちすくむ。
「兄上、この時期に香姫を同行させるのは……」
「香がここに来て早半年。そろそろ故郷が恋しゅうなっておろう」
「確かに」
「だから、同行させる。そのほうが都合が良いこともある」
「いつぞや話しておった【女狐】のことにございますか?」
信繁の言葉に晴信は黙って頷く。信繁は反論しかけるが、兄の瞳に決意の色を見て口をつぐむ。晴信の中では【女狐】の尻尾を掴むための策を張り巡らせている事が見て取れたからだ。
「お方様がどう思われるか……」
「快くは思わぬであろうな」
「わざわざ、波風を立てるような真似をなさるのですか?」
「そう思わせれば【女狐】は動かざるを得ぬであろうよ」
「【虎穴に入らずんば虎児を得ず】と」
晴信は【女狐】と呼んだ三条の侍女・多重がいずれ武田に災いをもたらすことを感じていた。その目は早い内に詰んでおくべきである。だが、相手もそれなりの場数を踏んでいるのだろう。易々と馬脚を現すような真似はしない。だからこそ、晴信はわざと波風を立てることにしたのだ。
「上手くいくでしょうか?」
「分からぬ。だが、やるしかあるまい」
「ですな」
「滝よ。これからも苦労を掛けると思うがよろしく頼む」
「勿体なきお言葉。姫様のため、身を粉にして働きまする」
滝の返事に晴信は満足し笑みを浮かべる。
「これから忙しくなるぞ!」
晴信は活を入れるが如く叫ぶ。それは夏の暑い盛りのことであった。
「兄上、そのお姿は……」
「はは、一人飲んでおったらそのまま寝入ってしまってな」
「では、後で湯浴みをなさいませ」
「ああ、そうする」
晴信は上座に用意された膳の前に座ると朝餉を取り始める。香姫は大井の方の隣に座る。晴信はこの場に三条の姿がないことに違和感を覚え、母に問うた。
「三条殿ならば、次郎に乳をやっておる頃でしょう」
その言葉に晴信は納得した。実はこの年に三条との第二子にあたる男児・次郎が誕生しており、太郎の時と同じく次郎も良く乳を飲み健やかに育っていた。
二人の息子の成長に思いを馳せていると大井の方が手にした茶碗を膳に戻し、晴信に視線を向けてきた。
「晴信殿、お話ししたきことがあります」
「母上?」
「朝餉のあと、北の方へおいでなさい」
「今、ここでは出来ぬ事と?」
「はい。出来ればそなたと二人だけでお話ししたく……」
「分かりました。後ほどお伺いします」
晴信の返事に大井の方は安堵したようだった。すぐ後に膳を下げるよう侍女に申し渡し自室へと下がる。
「兄上。母上の様子、気になりますな」
「うむ。悪い話でなければ良いが」
信繁の心配そうな顔に同調するように晴信にも影が浮かぶ。晴信には母の話が何なのか察しがついていた。
恐らくは、諏訪に嫁いだ妹・禰々の事であろう。もしかしたら、頼重は晴信の家督相続に不信感を抱いているのかもしれない。それに気付いた禰々が文をよこしたのかもしれない。
当時の武家の妻は実家にとって外交官の役目もあったという。故に婚家の異変を実家に知らせることはままあることであった。
(やはり、禰々から何か知らせが来たのであろうか……)
朝餉を食べ終えた晴信は白湯を飲みながら、諏訪の地で一人奮闘しているであろう妹を思うのであった。
晴信は朝餉を終えて、巳の刻(午前十時ごろ)には大井の方の住まう北の方へと赴いた。大井の方は晴信が入室するとすぐに侍女たちに申しつけて人払いをする。戸は全て閉められ、密室となった。
「晴信殿、これを……」
大井の方は晴信と二人きりになったのを確認してから文箱を開け、その中から一通を取り出し、差し出した。晴信は手に取ると、視線で読んでも良いかを尋ねる。大井の方はゆっくりと頷き、促した。そこに書かれていたのは予想通りのものであった。晴信の家督相続を祝いつつも、諏訪への対応が変わるのではないかとの不安を滲ませていたのだ。
文を読み終え、晴信はそれを大井の方へと返す。受け取った大井の方の瞳には娘を案じる色が浮かんでいる。
「母上、禰々には何も心配はいらぬと返事をしてやって下さい」
「晴信殿……」
「父上とは違う道を選ぶつもりではおりますが、その中に諏訪を滅ぼすと言うのは含まれておりません」
「そうですか」
大井の方が安堵のため息をつき、笑みが浮かぶ。だが、晴信は重く低い声で言葉をつなげる。
「ただし、諏訪が独断で動けばこの限りではございませぬ」
「それはどういうことですか?」
「諏訪惣領家に不満を持つ者がおります。頼重殿の意向一つでその者たちの不満が膨れ上がるやもしれませぬ。そればかりか、この武田との盟約も無きものとなるやも……」
晴信の言葉が最後通牒に感じられたのか、大井の方はグッと手を握りしめ、唾を飲み込む。その背筋には冷たい汗が流れ落ちた。何より、自分を見つめる晴信の瞳は冷酷で残忍な輝きを湛えている。だが、その冷酷な色がフッと消えて無くなり、柔らかく優しい眼差しへと変わる。その変わりように大井の方は戸惑いを隠しきれない。
「ですが、この晴信の目が黒いうちはそのような真似はさせませぬ」
「晴信殿」
「近いうち、諏訪へ参って頼重殿と腹を割って話すつもりです。さすれば、禰々も心安んじられましょう」
「そうですね」
「とはいえ、すぐにとはいきませぬの。何かあれば知らせるように言い含めて下され」
「わかりました」
晴信は母の不安を取り除かんと柔らかい笑みを浮かべる。その様子に大井の方が心底安堵したのは言うまでも無い。
母の元を辞してから晴信はすぐに行動を起こす。勘助を呼び、諏訪領の内情を調べるように命じる。そして、信繁を伴い城下を視察するとの名目で館を出る。下府中・一条小山にて香姫の侍女・滝と落ち合った。
「滝、なんぞ掴んではおるか?」
「上野から諏訪へ頻繁に出入りがあるようです」
「そうか。何か理由を付けて頼重殿に合わねばならぬな」
「でしたら、諏訪上社への参詣を打診されては如何でしょう。今は弟の頼高様が大祝を努めておいでですが、もとは頼重様が努めておいででした。何より諏訪は軍神。これより先の武田の必勝祈願と申せば下手な疑いもかかりませぬでしょう」」
「ふむ。では、そのように手筈を整えてくれ」
「御意」
滝は一礼してその場を離れようとした。が、晴信はと思い立ち彼女を呼び止めた。そして、思わぬ事を告げる。【香姫も同行させる】と……。滝は驚きを隠せず、しばらくその場に立ちすくむ。
「兄上、この時期に香姫を同行させるのは……」
「香がここに来て早半年。そろそろ故郷が恋しゅうなっておろう」
「確かに」
「だから、同行させる。そのほうが都合が良いこともある」
「いつぞや話しておった【女狐】のことにございますか?」
信繁の言葉に晴信は黙って頷く。信繁は反論しかけるが、兄の瞳に決意の色を見て口をつぐむ。晴信の中では【女狐】の尻尾を掴むための策を張り巡らせている事が見て取れたからだ。
「お方様がどう思われるか……」
「快くは思わぬであろうな」
「わざわざ、波風を立てるような真似をなさるのですか?」
「そう思わせれば【女狐】は動かざるを得ぬであろうよ」
「【虎穴に入らずんば虎児を得ず】と」
晴信は【女狐】と呼んだ三条の侍女・多重がいずれ武田に災いをもたらすことを感じていた。その目は早い内に詰んでおくべきである。だが、相手もそれなりの場数を踏んでいるのだろう。易々と馬脚を現すような真似はしない。だからこそ、晴信はわざと波風を立てることにしたのだ。
「上手くいくでしょうか?」
「分からぬ。だが、やるしかあるまい」
「ですな」
「滝よ。これからも苦労を掛けると思うがよろしく頼む」
「勿体なきお言葉。姫様のため、身を粉にして働きまする」
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