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林の章

諏訪への参詣

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晴信の家督相続の報はすぐさま諏訪へも伝わり、諏訪惣領家そうりょうけは浮き足立つ。すぐにでも晴信とよしみを深めるべしという者。父親を追放するなど信用がおけぬから盟約を反故ほごにすべきと訴える者。まさに十人十色の様相を呈していた。

「予想はしておったがここまでとはな」
「兄上……」

頼重は苦笑せずにはおれなかった。そんな兄の姿を不安げに見るのは諏訪上社の大祝である弟の頼高だ。

「兄上はどうなさるおつまりなのですか?」
「晴信殿と共にゆく」
「それは対等にということですか?それとも……」
「今は分からぬ。どちらが竜となり雲となるか」

頼重は立ち上がり、廊下を横切るとそのまま庭へと降りる。そんな兄の姿を頼高は目で追う。頼重は一度大きく息を吸い、空を見上げた。空は雲一つなく、一羽の鷹が悠々と舞っている。

「だが、晴信殿とともにあれば我らはもっと高く飛べる」
「兄上がそう申されるのであれば、私は信じて付いて参ります」

頼重は心強い味方を得たと思ったのであった。



それから、一月ほどたったころ。甲斐から突然の知らせが届く。晴信が諏訪上社へ参詣したいとの旨が記されていた。と、同時に香姫の同行させるとも付け加えられていたのである。

「殿、兄は何と申してきたのですか?」
「案ずるな。諏訪上社に参詣するとの触れである」
「左様でしたか……」

晴信からの知らせと聞き、妻である禰々ねねが息を切らせて現れた。その顔は不安の色が濃く出ていたのは言うまでもない。頼重はそれを和らげるように微笑みかけ妻の不安を払拭するように心がける。それが功を奏し、禰々の顔から不安の色が消える。

「気になるのか?」
「そ、それは……」

頼重の問いに禰々の視線が彷徨う。それは禰々がこの上原城に上野こうずけからの使者がたびたび訪れていることに気付いていると確信させるには十分であった。武田と諏訪の懸け橋となるべく輿入れしてきた禰々。その彼女にどう理解してもらうか。それが頼重に与えられた使命のように思えた。

「それよりも晴信殿をお迎えする支度をせねばな。此度は香も連れて来てくださるとのことだし」
「え?」
「そろそろ里が恋しくなるころだろうから連れていくと仰せだ」
「まぁ!」
「そういうわけだ。いろいろ大変であろうが頼むぞ」
「お任せください」

禰々の明るい声を聞き、頼重は安堵した。それと同時に晴信への申し開きを如何に穏便に済ませるか、思案せねばならない。言葉を慎重に選ばなければすぐにでも潰しにかかってくるのは火を見るより明らかであった。

(はてさて、どうしたものであろうか……)



晴信が諏訪を訪れたのはそれから間もなくのことであった。

「晴信様!あの向こうが上原のお城ですよ!!」

香姫は嬉しそうに指さしてみせる。身を乗り出しすぎて鞍から落ちそうになるのを晴信は片手で支えて抱き寄せた。

「香、あまりはしゃぐと鞍から落ちるぞ」
「ごめんなさい」

窘められて香姫はシュンとなってしまう。そんな香姫を労るように晴信は頭を撫でてやった。

「御館様」

勘助が足早に近づいてきてある一点に目を向けている。その視線の先には数奇の騎馬がこちらに向かってくるのが見えた。

「父上だ!!」

その一団の正体に真っ先に気付いたのは香姫だった。飛び上がらんばかりに全身で喜びを表現している。くるくる変わる香姫の表情に晴信は苦笑せざるを得ない。

(こういうのを子供らしいと言うのだろうな)

晴信は己の幼少期を思い出す。人見知りが激しかったせいで随分と無愛想で無口であった。それに対して天真爛漫な香姫を羨ましく思い、そのように育てることの出来た頼重を敬いたいと感じるのは自然なことであった。

「よう、お越し下さいました」
「出迎え、かたじけない」
「いやいや、香も連れてきていただけると聞いては出向かぬ訳には参りませぬ」
「頼重殿は子煩悩であられたか」
「苦労を掛けた分、労うてやりたいだけにございます」

そう答える頼重は悲しげな笑みを浮かべていた。その顔を見て晴信は自分の迂闊さに舌打ちしたくなった。だが、それを気にした様子もない頼重は自ら上原城まで先に立って案内したのだった。



上原城に着くと禰々が出迎える。諏訪の地に馴染み、頼重からも大事にされているのであろうことはその顔に浮かぶ笑みからも分かる。晴信はその様子に安堵した。

「兄上、ご無沙汰しております」
「息災のようでなによりだ」
「はい、皆には良くしていただいております」

禰々は晴信たちを客間へと案内する。城の者たちへ指示を出す姿は頼重の妻としてしっかり務めていることを意味しており、同時に皆が禰々を信頼していることを意味していた。

「甲府から馬で来られたのでしたらお疲れでしょう」
「ああ、此度はやたらと暴れる【子猫】が一緒だったからな」
「ですが、兄上も満更ではないのでしょう?」
「さぁな」

クスリと笑う禰々に晴信はそっぽを向いて誤魔化そうとするが、効果は無いようだった。晴信は禰々に案内された客間で一息を着いた。禰々からは【今宵ささやかな宴を催す】と告げられる。

「御館様……」
「勘助、何かあったのか?」
「今宵は大祝おおほうりの頼高殿も同席されるよし」
「そうか」
「頼重殿は必ずしも武田とたもとを分かちたいというわけではないようです」

勘助の報告に晴信は諏訪訪問が間違っていなかったと確信する。

(あとは頼重殿と如何に話を進めるかだ)

晴信は目を瞑り、深く息を吸い込む。それをゆっくり吐き出し、決意を込めてカッと目を見開く。そして、左の拳をグッと握りしめるのだった。



その夜、頼重の主催で宴が催される。晴信は頼重と並び上座に座る。どういうわけか、香姫が晴信の膝の上に座っていた。

「香、そなたの席は……」
「晴信様の膝の上です」

悪びれもせずに香に苦笑せざるを得ない。頼重は申し訳なさそうに眉を下げ、「好きにさせてやって下され」というのだった。
宴は和やかに進む。城下を訪れていた旅の猿楽師が招かれ、はやりの演目を披露する。物珍しさもあって皆の目は釘付けとなり、いつしか場は華やいだものへと変わる。そして、お開きとなる頃には武田・諏訪双方とも打ち解けたものとなったのだった。



晴信は頼重に呼び止められ、私室へと招かれた。頼重の瞳の奥にただならぬ光を見て取り、いよいよ核心を突いた話をする気なのだと悟る。

「長旅で疲れているところ申し訳ない」
「いや、かまいませぬ。そのために諏訪へ参ったのですから」

頼重は一つため息をつき、晴信と向かい合う。刹那、二人の間に沈黙が訪れる。それを切り裂くようにふくろうの鳴き声が響く。そして意を決したは頼重は話し始める。

「上野より使者が参っております」
「そのようですな」
海野うんのは山内上杉氏の力を借りて旧領奪還を目論んでおるようです」
「それで?」
「海野は滋野しげの三家の嫡流。信濃の名跡、残すべきです」
「だが、今は古い血筋がいつまでも残れる世ではないですぞ」
「それはそうですが……」

晴信のも頼重の言いたいことは分かる。滋野三家は古くから信濃支配を続けてきた氏族だ。その血は尊い。だが、今は血筋だけで生き残れるわけではない。それは父・信虎から三条を後添えに迎える際に釘を刺された言葉である。

「頼重殿、それがしは父から【古い血筋はやがて滅びる】と言われました」
「……」
「もし、このまま海野と和睦をなさるおつもりなら……」

晴信は一度言葉を切り、頼重の顔色を覗う。そして、その瞳の奥に戸惑いと苦悩の色を見て取る。

「この晴信、全力をもって諏訪を潰す」
「妹御がどうなってもよいと?」
「禰々とて【武田の姫】。それくらいの覚悟はありましょう」

そう断言する晴信の瞳には一切の迷いがない。だが、頼重はそれに臆することなく持論を展開する。

「晴信殿、急速な変化はかえって逆効果なのだ。特に信濃のように豪族の寄り集まりで出来ている国は……」
「どういう意味か?」
「甲斐のように武田という強い領主が纏め上げ、治める国ならば大きな変化も受け入れられましょう。ですが、信濃はその土地柄ゆえそうもいかないのだ」
「だから、古い血筋が必要だと?」
「【一所懸命の土地】という言葉をご存じか?」

晴信は頷く。
【一所懸命の土地】とはその土地に根付いた領主が本貫ほんかんとする土地のことである。土着した武士たちはその地の名を名字とし、子々孫々へと伝えてきた。まさに命がけで守ってきた土地のことである。
晴信は頼重の言いたいことがなんなのか気付いた。そういう思いがこの信濃は強いのだ。だから、それを取り除こうとすれば民の反発を買うことは明白。必然的に【守ること】を選ばざるを得ないと言うことである。

「なかなかに厄介なことだ。だからといって、このまま見過ごすことは出来ない」
「でしょうな」

頼重は苦笑する。そして、フッと笑みをこぼしたかと思うと意外な提案をしてきたのだった。

「晴信殿、我ら二人で芝居をいたしませぬか?」
「それは……」
「お義父上と長きにわたり芝居をうってきた貴方なら容易いことでしょう」

晴信は自身が持ちかけようとしていた話を頼重にされていささか動揺した。だが、頼重はそれすらも見抜いているのか笑みを湛えている。

「晴信殿は滋野三家嫡流・海野の名跡が欲しくはありませぬか?」

頼重の提案に晴信は眉をしかめる。その意図を図りかねたからだ。だが、頼重は不敵な笑みを浮かべ続ける。

「棟綱殿は先の戦でご子息・幸義殿を亡くされたのです。これを懐柔するなら今をおいてないでしょう」
「それはどういうことか?」
「晴信殿は先頃ご次男が産まれたと聞き及んでおりますが」

頼重の目が細くすがめられた。晴信は目の前の男が何を言いたいのか理解する。冷たい汗が背筋を流れ落ちる。

(どうする?このまま頼重殿の策に乗るか?)

晴信は気付かれないように思案する。掌は汗でべとつく。それを悟られぬように握りしめる晴信。だが、その思考は既に読み取られていたようだった。

「晴信殿、諏訪は海野と独断で和睦して領地を割譲します。それを利して諏訪惣領家に反感を抱くものを纏めていただけないでしょうか?」

頼重の策は敢えて諏訪が海野と和睦し、領地を割譲する。晴信はそれを知り、反感を抱く諏訪の一族を纏め、上原を攻める。そうして、頼重と頼高を甲府に連行する。

「私に切腹を言い渡すと触れて回れば、高遠辺りは喜び勇んで首実検に参りましょう」
「それを利用して高遠を切れ。そういうことか?」
「そんなところです」
「それで頼重殿は何を手に入れるというのだ」
「そうですね。晴信殿に反感を抱くものを黙らせ、諏訪が武田に下ることを了承させる。それと同時に諏訪内部の不穏分子を一掃出来る」
「で、こちらが得るものは?」
「労せずして諏訪を手に入れられます。それだけではない。海野の名跡、更に真田幸綱を配下に加えることも」

頼重の提案に晴信の心は揺れる。だが、今一歩踏み切れずにいた。頼重は最後の一押しと言わんばかりに言葉をつなげる。

「諏訪は武田への詫びとして香を側室に差し出す。という、大義名分が出来ますがいかがか?」
「頼重殿……」
「滝から話は聞いております。此度、香を連れてきて下されたのは【獅子身中の虫】である【女狐】の尻尾を掴むためだとか。とはいえ、まだまだ香は子供。馬脚ばきゃくを現しますまい」
「いずれ大きな災いとなるのは必定。早い内に芽を摘んでおきたかったのだが……」
「ままならぬのは人の世の常。代わりに布石を打っておきましょう」
「香には辛い思いをさせるかもしれませぬ」
「それは禰々とて同じ事。恐らくは晴信殿をののしることになりましょう」
「それでも武田が【武家の棟梁】になるためには必要なこと。妹の罵りくらい受けようが構いませぬ」
「それを聞いて安堵しました」

頼重は右手を差し出す。晴信はその手を取り固く握手を交わした。こうして晴信は今一度大芝居をうつことになる。
今度は諏訪・武田のみならず、海野・山内上杉果ては村上すらも騙す大芝居。そして、失敗が許されぬ。多くの命がその両肩に重くのし掛かる。それでも前を見つめて進むしかない。それが自分に与えられた使命である。そう決意する晴信だった。

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