知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し~武田家異聞~

氷室龍

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林の章

歌会に秘められた謀議

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諏訪参詣から帰参して間もなく、上野こうずけの上杉憲政のりまさが動く。海野うんのの旧領を回復するために攻め込んできたのだ。これに対して晴信は静観を決め込む。村上も動かず、動いたのは諏訪頼重のみであった。頼重は長窪まで出向き、独断で上杉および海野と和睦する。上杉は葦田郷あしだごうを荒らした後、引き返したのだった。



躑躅ヶ崎つつじがさきやかたにドカドカと大きな足音が鳴り響く。それは重臣・原虎胤とらたねである。虎胤は鬼形相とはかくあるや、といわんばかりに眉をつり上げ興奮気味に主君のいるであろう広間を目指す。だが、その姿を途中の中庭で見つける。

「御館様、一大事にございますぞ!!」
「虎胤、何事か?」
「何と悠長な!! 諏訪が……」
「独断で上杉・海野と和睦したことか?」

晴信の落ち着いた口調に原虎胤は呆気にとられる。よく見れば、中には黒装束を纏った隻眼の男が控えている。

(確か、山本勘助といったか……)

そこで、虎胤は理解した。既に晴信はこの勘助から諏訪の独断を知らされていたのだ。

「如何なさいますか?」
「どうおせぬ」
「御館様?!」

晴信は平然と答え、勘助に目配せすると広間へ向けて歩き出す。勘助は一礼をし、煙の如くその場から消え失せた。困惑する虎胤は晴信の後を追いつつ、反論する。

「諏訪は我が武田とのえにしを無視して海野や上杉と和睦したのですぞ?!」
「分かっておる」
「ならば!!」

更に詰め寄る虎胤だったが、それを制止するように肩を掴まれた。振り返ればそこには板垣いたがき信方のぶかた甘利あまり虎泰とらやすが立っていた。信方は首を横に振り、反論の余地はないことを示す。虎胤は地団駄じだんだを踏みたい気分であったが、その思いをグッと飲み込む。

「まこと何もなさらぬつもりなのですか?」
「何もせぬ訳ではない」
「では!」
「ただ、諏訪を攻めぬと言うだけだ」
「それは一体どういうことでしょうか?」

広間に着くなり捲し立てる虎胤を一瞥することなく淡々と語る晴信。無表情と言えるその態度に虎胤の方が動揺する。
それを見て取った晴信はため息をつくと懐から一中の文を取り出す。それは母・大井の方に宛てた妹からの文であった。

禰々ねねが身籠もったそうだ」
「それは……。おめでとうございます」

複雑な思いを隠して三人は一応に祝いの言葉を述べる。それを苦笑して受け取る晴信。取り出した文を信方に手渡すと、読むように促した。
信方は主君の意図を図りかねるが、促された以上は読まぬ訳にはいかない。仕方なく読み進める。しばらく読み進めたところで表情が一変し。顔を上げた。

「御館様、これは?!」
「どうやら高遠のみならず、金刺も動き始めたようだ」

禰々からの文は自身の懐妊を知らせるものだけではなかった。昨今、海野と和解したことにより庶流の高遠たかとう、更には下社の大祝おおほうり金刺かねさしが不穏な動きを見せているようだと記されていた。

「御館様、これは好機かと」
「とはいえ、禰々はこれから大事なとき。煩わせるような真似はさせたくない」
「確かに……」
「表立って騒ぎ立てず、秘密裏に交渉を進める方が良さそうですな」

虎康は顎に手をやりながら呟く。それに賛同するように皆で頷き合う。そこへ飯富おぶ兄弟が現れる。場の雰囲気に何事かと驚いた顔をしている。

「何かございましたか?」
虎昌とらまさ昌景まさかげ。実は……」

虎胤が掻い摘まんで状況を説明する。すると、虎昌は眉間に皺を寄せ唸る。昌景も腕組みをしてどうしたことかと考えている様子だった。

「ここでああだ、こうだと話しても埒が明かぬ」
「御館様、既に何か手を打っておいでなのですか?」
「山本勘助に金刺とよしみを結ぶべく動くよう命じてある」
「ならば、我らはその動きを悟られぬようにせねばなりませぬな」

昌景の言葉に晴信は深く頷く。それを次いで口を開いたのは虎昌であった。虎昌が言うには間もなく武田八幡宮の本殿が竣工しゅんこうするとのこと。まずはそれを祝う行事を優先させ、諏訪は二の次とすべきだというのだ。

「おお、そうであった。これこそ武田の一大事じゃ」
「左様。まずはそちらを優先すべきでしょう」
「その後はどうする?」
「年明けに歌会始を催すというのは如何かと。近々、冷泉れいぜん為和ためかず殿が京からお戻りになると聞き及びましたので」
「なるほど。歌会に興じてると見せかけて諏訪攻略の謀議とするか……」
「御館様、それがしもそれが宜しかろうかと」
「そのように取り計らってくれ」

軍議はそれでお開きとなり、おのおの持ち場へと散っていった。後に残った晴信の元に現れたのは信繁のぶしげであった。

「兄上……」
「どうした?」
「年明けに歌会始を催すと聞き及びました」
「ああ、冷泉為和殿が京より戻られるらしくてな」
「そうでしたか。なれば、義姉上あねうえもお喜びになりましょう」
「そうだな。子らの世話も一息ついたようだし、気晴らしになろう」

一瞬、会話が切れたかと思うと信繁は背筋を伸ばし、晴信と相対する。そのただならぬ様相に晴信は眉根を寄せた。

「兄上、諏訪をどうなさるおつもりか?」
「まだ、決めておらぬ」
「このままでは禰々が……」
「心配はいらぬ」
「兄上?」
「信繁、耳を貸せ」

晴信は周りに誰もいないことを確認してから、信繁に耳打ちをする。最も信頼の置けるこの同腹の弟には真実を告げておくべきと考えたのだ。自分と頼重だけが知っている謀議を……。
その話の内容にみるみるうちに顔色が変わる弟の姿を目の当たりにし、晴信は苦笑せざるを得ない。

「何と、大それた事を……」
「それくらいせねば【武家の棟梁】など夢のまた夢であろう」
「では、此度の諏訪殿の行動はその一環と?」
「そうだ。だが、今は雌伏の時。下手に事を荒立てるな」
「分かりました」
「話はそれだけか?」

晴信のその問いかけに信繁は頭を掻きながら、困ったように眉を下げる。弟のこの態度が無理難題を頼みに来たときの癖だと思い出し、ため息が漏れる。

「あー、香姫のことです」
「香の?」
「先日、諏訪上社へ参詣した折の話を聞きましてな」

晴信は諏訪へ赴いたときのことを思い返した。
頼重と密約を交わした翌日。武田の戦勝祈願と銘打ち、皆で諏訪上社へ詣でたのだった。そのとき、香姫が熱心に祈りを捧げていたのを思い出した。

(そういえば、香はあのとき眉間に皺を寄せてまで強く祈りを捧げていたな)

晴信はそのとき、香姫に何をそれほど強く願ったのか聞いたのだが【しゃべったら願いが叶わなくなるからダメ】と言われて断られたのだった。

「その様子だと聞いてはないようですな」
「お前は聞いたのか?」
「聞いたと言うより……」
「?」
「宣言されました」
「は?」
「【香は晴信様の側室に上がって男児を産む】だそうです」

その言葉に衝撃を受けて、晴信は手にしていた扇を落としてしまう。もし、この場で酒でも飲んでいたら思いっきり吹き出していたことであろう。兎に角、動揺が激しく挙動不審になる。普段の晴信からは想像も出来ない慌てぶりに、信繁は笑いを堪えるのがようやくのようで肩がふるふると震えている。

「な、なんだ、その宣言は?!」
「さぁ、分かりかねます」
「こ、香はまだまだ子供だ!」
「ですが、女子というのは我ら男より大人になるのが早いとか」

信繁の言葉に最早晴信の口からはため息しか出てこなかった。香は十か十一だ。それがもう自分との子供を望んでいたとは思いもよらなかった。

(はて、どうしたものか……)

晴信は心底困った。以前、三条から心変わりを疑われて泣きつかれたことがあるからだ。元々、恋の駆け引きが出来るほど女を知っているわけではない。故にどうしたものかと頭を悩ませることになる。

「なんだ?」
「一つ思い出したことがありまして……」
「思い出したこと?」

信繁がニヤニヤしているのを見て顔を顰める。晴信は嫌な予感しかしなかった。信繁がこういう顔をするときは何かしら晴信の弱みを握っているときだと記憶していたからだ。そして、それは的中する。

「滝から聞きました」
「滝から?」

香姫の侍女である滝から何を聞いたのか。晴信にはすぐに思い至らなかった。だが、すぐに思い出す。上社を後にする直前、晴信は一人の老婆に呼び止められたことを……。



その老婆は若い頃は巫女として上社に務めており、その役を降りてからは占いを生業としている。そう言って晴信の顔をまじまじと見上げ、カッと目を見開いたと思ったら一言告げたのだ。

「御武家様、貴方様には女難の相が出ておいでじゃ!!」
「は?」

晴信は笑い飛ばすつもりでいたが、その老婆の迫力に気圧され呆気にとられた。なおもにじり寄る老婆に戦く晴信。と、次の瞬間には老婆はカラカラと笑いはじめ助言を下した。

「【英雄色を好む】ですじゃ。寄ってくる女子おなごは皆あなた様に幸運をもたらすでしょう」
「で、俺にどうしろと?」
「その女子おなごら、等しく愛しなされ」
「この俺にはとても出来そうになさそうだが……」
「カッ、カッ、カッ。心配ななさらずとも貴方様がありのままに接しておられればあとは女子おなごの方がついて参ります」
「そんなものか?」
「皆、さと女子おなごのようじゃて。貴方様は愛でてやるだけでよい」
「はぁ……」
「ただ、女子おなご同士の争いにはご注意なされませ。此度の相はそれに巻き込まれれることを示しておりまする」

どう受け取ってよいものか、晴信は釈然とせぬ思いで立ち去っていく老婆を見送った。



「兄上?」
「何でも無い」

晴信は信繁に声を掛けられ我に返る。信繁はいぶかしむように首をかしげていた。晴信は邪念を振り払うかのように首を振り、差し迫った案件に意識を戻す。

「信繁、正月に冷泉為和殿を招いて歌会始を催す。そのように触れを出すのでお前もそのつもりでいろ」
「御意」
「それから……」

晴信は声を潜め、信繁に耳打ちをする。
それは【歌会】を隠れ蓑に反諏訪派を取り込み、その後の諏訪郡運営に有益な者を洗い出す作業でもある事を伝える。そして、それに際して今川からの口出しをさせぬ為の根回しも含まれることも伝える。

そして、迎えた天文十一年(1542年)一月七日。晴信の館で【歌会始】が催されたのであった。


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