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3話
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しおりを挟む卒業後、彼女は自身が育った孤児院に就職した。
長年過ごしていた場所というだけあり、環境への順応は早かった。ただ仕事内容を覚えればいいだけの話。住み込みでの就職だったため、住む場所にも困らなかった。
アルエとは一切の連絡を取らなかった――そもそも連絡先さえ知らなかった。もしあったとしても、雑談をするために会いに行くという間柄でもない。
それに、呼び出されることもなかった。
このまま一生呼び出されず、再会することもない。
心のどこかでそう思うようになり、いつしか『使役』されていることも忘れてしまっていた。
思い出さざるを得ない状況に陥ったのは、突然だのことだった。
そのとき、イリアは孤児院にいた。仕事中だった。
ふいに、足元に魔法陣が浮かび上がった。それが何か、脳が記憶を手繰り寄せる間もなく場所が移動した。
そこはどこかの屋敷のようで――目の前に、アルエがいた。
倒れ伏した身体の下には、血だまりが広がっている。
「アルエ!?」
叫び、駆け寄る。抱き起こせば、もう虫の息だった。
何があったか、問いただしても答える元気などあるはずがない。ならば個別魔法で読み取りたい気持ちもあった。だが、まずは治療が先だ。
「待ってて。今、回復魔法かけるから……!」
手をかざした瞬間、かすれた声が聞こえた。アルエの口が微かに動いている。
そんなもの、無視して魔法をかけるべき――頭では理解っていた。
なのに。
イリアはアルエの口元に耳を近づけていた。
途切れ途切れに紡がれる言葉を拾い損ねまいと。
か細い声を聞きとるのに、自分の呼吸さえ邪魔だった。
「イリ、ア……」
かろうじて聞き取れたのは助けを乞う言葉でも、辞世の句でもなく。
「イ、リア……、スミ、リッ、ト……」
絶えず、うわごとのように、その名を呼んでいた。
「君の、名を……、」
アルエの手は何かを探るように、微かに動いている。血だまりの数メートル先に、分厚い本が落ちていた。
血にまみれた手をそっと握る。虚ろな瞳がイリアを捉えた。
おもむろに閉じた瞼から、雫がこぼれる――最初で最後に見る涙だった。
微かに濡れた瞼が再び開いたのは、床の血だまりが凝固し始めた頃だった。
イリアの膝を枕に寝かされていたアルエは、訳が分からないと言いたげに辺りを見回す。
「イリア……? 私は……?」
そう言って起き上がろうとしたのをイリアが制した。
「ただ気を失ってただけよ。その間に回復魔法を使ったわ」
「そ、そうか……。手間をかけさせた」
「言っとくけど、私はあんたに『使役』されたままなんだからね」
一緒に死ぬのはごめんだわ、とイリアが鼻を鳴らすと、アルエは苦笑いを浮かべた。
「で? 何があったのよ」
「……む?」
「あんな瀕死状態になるまで追い詰められるほどの、何があったのかって訊いてるの」
個別魔法で読み取る時間ならいくらでもあった――むしろアルエが目を覚ますまでに使っていた。しかし、それでも分からなかったのだ。
読み取れなかったわけではない。
情報から状況が推測できなかったのだ。
イリアが読み取った『過去』からは――アルエが急に襲われたようにしか見えなかったから。
アルエはため息を返す。そして、きっぱりと言ってのけた。
「それは私が訊きたい」
予想していたが、いざ答えを聞くと再びため息が出た。
「だが、知らぬうちに追われる身になったのは確かだ」
ふたりは固まり始めた血だまりを見つめる。
アルエがイリアを呼び出していなければ、彼女が回復魔法を使っていなければ、確実に命を落としていただろう。
襲った相手は殺意を持っていた、ということに他ならない。
これまでの生活は送れないだろう。
表立った行動をすれば、また命を狙われる。
「……どうするの?」
尋ねると、アルエは物憂げに唸った。
「参ったな。職も失い、住む場所も追われた」
「アルエ。この屋敷に逃げ込んだのは……?」
「理由なら特にないよ。こっちは命からがら逃げてきたんだ、考える余裕もない」
だが、とアルエは周りを見回す。
家具などは揃っているが、手入れもされていないようで、舞っている埃が窓から差し込む夕日に反射している。
「よし、今日からここに住むことにしよう」
「はぁ?」
うなずくアルエに、また突拍子もないことを、とイリアは呆れる。
「誰のものかも分からないのに勝手に住んじゃって大丈夫なわけ? 所有者に見つかりでもしたら……」
「見る限り、長い間放置されてきたようだ。早々に所有者が現れるとも考えにくい。それに、誰も足を踏み入れないこの森は身を隠すのにもってこいなのだよ。そこに別荘にしろ廃屋にしろ都合よく住める屋敷があるときた」
イリアはいきなり連れてこられたこの森についても、この屋敷についても何も知らない。アルエの言葉が本当に信憑性のあるものなのか、はたまた強がりなのか。
真偽は個別魔法で読み取れば明らかになる。
だが――それをするのはあまりに無粋であろう。
どっちにしろ、イリアが取る行動は決まっているのだから。
「だったら、私も一緒に住むわ」
「……なんだって?」
怪訝そうに、アルエが眉をひそめた。
「聞こえなかった? この屋敷に、一緒に住むって言ってるの」
「聞こえているさ。意味が分からないと言ったのだ」
「そのままの意味よ? こんな広そうな屋敷だもの。私の部屋くらいあるでしょ」
「そういうことを言っているのではない!」
アルエは珍しく声を張り上げ、その拍子に勢いよく起き上がる。
「私と行動を共にすることが、どういうことか分かっているのか!?」
「今更、何よ。あんたとは運命共同体――そう説明したんでしょうが」
「君を呼び出したのは、この本から名を消して『解放』するためだ!」
「あー、いいわよ別に。そのままで」
「……は?」
取り乱している様子を見るのは初めてだ。それに気づくとなんだか滑稽で、イリアは思わず笑った。
「だって、あんたの命を狙う奴がここに来たらどうすんのよ。通常魔法も使えないくせに、どうやって応戦するつもり?」
普段は飄々と相手を言い負かしているアルエが、口を噤んでいる。
その姿が在りし日の自分と重なり、あのときの仕返しだと言わんばかりに彼女は続ける。
「刻んどきなさいよ、私の名前。ずっと『使役』しといて、今更必要ないっていうの? 毒を食らわば皿までって言うでしょうが」
運命なら、一緒に背負ってあげる。
自分の口からこのような言葉が出てくるとは。イリアは自嘲気味に笑う。
だが、きっと。
この心は、ずっと前から固まっていたのだ。
アルエに出会った――『使役』されてくれと頼まれた、あのときから。
個別魔法を――彼女自身の強さを認めてくれた、あのときから。
貼られたレッテルに左右されずに接してくれた、あのときから。
アルエになら、着いて行ける――たとえ、地獄の果てだろうと。
しばらく沈黙が続いた。
それを破ったのはアルエの哄笑だった。
それが収まると、確認するように尋ねる。
「イリア。その発言がどういう意味か、自分で理解っているんだね?」
「ええ、もちろん」
「もう、後には戻れないが?」
「あんたに『使役』された時点で」
「……とんだ数奇者だよ、君は」
「『劣等生』ってからかわれ続けた私をスカウトしたあんたが言う?」
アルエは含み笑いを浮かべ、手を差し伸べる。
無言でも聞こえてきた。
これからもよろしく頼む、と。
イリアはその手を優しく、しっかりと握った。
「それで、早速なんだが」
手を離すと、アルエはいつものすまし顔に戻り、立ち上がった。
「君の個別魔法を見込んで、調べてきてほしい者がいる。私が住んでいた街にある、武器屋の店主なんだが――」
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