間違いを愛したかっただけ 〜年下の男の子達に挟まれて〜

西浦夕緋

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 それはシャンプーの匂いのようでした。緋実くんはしょっちゅう私の長い髪に自分の指を通し、鼻を近づけて匂いを嗅いだものでした。『亜麻色の髪の乙女』を感情豊かにする弾き方を鍵盤の上で実演していた私は、緋実くん、とその名を呼びます。先生の話は真面目に聞きなさい。

 そんな言葉も聞いていない緋実くんは、いい匂い、と言い、それから、
「ね、先生、もっと長く教えてよ」と言います。「三十分は短い。一時間教えて。頑張るから。ちゃんと月謝払うから」
「時間を短く感じるのは緋実くんが無駄話や余計なことばっかりしてるからでしょ」
 あ、そうか、と素直にも緋実くんは笑います。邪気のない笑顔、ですか。その笑みにつられてしまうのです。針と糸を使って自分で作ったという布製のレッスンバッグを持って嬉しそうに毎週レッスンに通いに来るのもまた愛らしく、時には、おりこうさん、なんて言って彼の頭を撫でてやりたくもなったものでした。

「ね、先生、来月から一時間教えてね」
「分かったから先生の話をまともに聞きなさい。ほら、指を見て。こうやって少しずつ重ねながら動かすと柔らかい音が出るんだよ」
 緋実くんはおとなしく私の指の動きを真似ますがそれも何秒もったのでしょうか、彼はすぐにお喋りを始めます。
「ねえ先生、俺ね、友達にピアノうまいって言われたよ」
「良かったね。ほら、こうよ、こう動かすの」
「先生も褒めてよ」
「褒めたら緋実くん調子に乗って練習しなくなるでしょ」
「あ、そっか」
 緋実くんは邪気なく笑って、それから、
「ね、先生、何か弾いてよ」
と言い始めます。

 ドビュッシーやラヴェル、ギロックの音楽を緋実くんは好みました。そして音源でなく生の演奏が聴きたいのだと彼はしょっちゅう私に弾かせようとしたものでした。ほら、と言って、私の手を掴んで。

 そうした時私をピアノの前に座らせるわけですから当然彼は立ち上がることになります。一見小柄ですが身長は私より高いのです。子犬のようにつぶらな瞳をした緋実くんに見下ろされるたびに私は妙な気持ちになったものでした。

「もう終わり。時間だよ、緋実くん、帰んなさい」
「いやだ」
「帰れって言ってるでしょ」
 思いのほか冷たい声が出たわけですが緋実くんは特に驚くこともなく、
「分かった。その代わり一緒にパフェ食べに行こう、おごるから」
 なんて言って邪気なく笑うのです。私を見下ろしながら。

 おごるから、そう言えてしまえたのもドーナツ店でアルバイトをしていたからでしょう。世間でしっかと働く大人、なのでした。

「私は忙しいのよ」
「そんな中年のおばはんみたいなこと言うなよ」
「私は二十七歳のおばはんよ」
 私の言葉に緋実くんは吹き出します。そうして彼は、
「先生は綺麗だよ」
と言うのでした。


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