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三、出発
しおりを挟む「明、早くしなさい」
「は~い。もう少し待って」
顔の腫れも大分引き、元の顔に戻りつつある。いまだ目の辺りの薄い痣は気になるが、メークをすれば、気にはならないだろう。
彩加は、あの事件の後、二日間はベッドに死んだように眠り、動けなかった。それでも、今では元通りの生活を送れるようにまで回復していた。
二人は出発直前まで、荷物整理に追われていた。
引っ越し業者がもう玄関先まで来ているのに、未だにこの家を後にする準備が整っていないのだ。引越し業者の二人も、若干困り顔を浮かべていた。
彩加は、明と、これから二人で生きていくことに決めた。そして、父親の家から出て、自立することにしたのだ。今では坂戸もいない。もうあの会社にいる理由もなくなった。むしろいるべきではないのだ。
どうしてもあの事件の被害者、という風に見られ、周りには気を遣わせてしまうし、興味本位で見てくる者も少なくはなかった。
それに、何よりも、自分自身があの時の事件を記憶の中から消し去りたい、と思ったからだ。藪押のことも。
それが一番の理由だ。
この家を出ることを決意すると、父親、母親は、そりゃ悲しい顔をしたし、大丈夫?
と何度も心配顔を見せてきて、正直何度も悩んだ。このまま親の援助を受け、生活をしていこうか、と。でも、決心したのだ。
それでも明の顔が少しだけ明るくなってきたことが救いだった。あの事件以来ずっと塞ぎ込んでいた明。夜中になると一人淋しそうに泣いていたことを、彩加は知っていた。学校にも行かず、ずっと部屋の中に閉じ籠っていたのだ。
だが彩加が新しい生活を口にした途端、明も吹っ切れたようで、この決断が間違ってはいなかったことを知る。
元々それほど荷物は持ち合わせてはいなかった。ここに来た時にも必要最低限のものしかなかったのだ。だから引っ越し業者に頼んだ二トンのトラックで充分事足りたし、二人のスタッフだけでも充分だった。ただ明の準備が、とにかく遅かったのだ。
「もう明、あなたは要領が悪いというのか、ちゃんといる物、いらない物、整理しなさいよ。
ほんと、優柔不断で困った子ね。お兄さんたちが困ってるじゃない。ほら、早くしないと」
「いや、僕らは大丈夫ですよ。まだ時間的にも、余裕がありますから」
それを見かねた先輩の方が言った。
「済みませんね」
明の背中を見ていると、堪えていないと涙が出てきそうだった。
明は写真やら他、思い出の数々を眺めている。
元居た所から旅立ち、新しい生活を始めるのだ。これからは覚悟や勇気だっている。明だけでなく、自分だって時折手を止めて、目の前の想い出の品々を見てしまうくらいだった。しょうがない明にこの現実を受け入れてもらうには、負担が大きすぎる。
だから私がもっと大きな心を持ち、明のことを包み込んであげなければならない。
「お母さん、」
「何?」
「もう、ボクシングはしないの?」
「うん。疲れるしね。それに、もう必要ないから」
彩加は、明の背中を抱き締めた。
「何?」
「何でもない」
「変なお母さん。引っ越しのお兄ちゃんが見てるよ」
「恥ずかしがらないでよ。見てないって」
彩加はそう言って、明の脇をこしょこしょとくすぐった。
「やめてよ。後ろにいるよ」
それでも明は嬉しそうにしていた。
「もう、全然進まないから、やめてよ」
「はい、はい」
明とじゃれ合っていると、もう、本当に、終わったんだろうか、とふと、そんなことを思った。
あの男は、本当にいなくなったのだろうか、と。
だって、こんなにも幸せを感じることができるんだもん。それに、安らぎだって感じることもできる。
心がゆったりと、幸せに満ちる、そんな時だった。身体中にサッと鳥肌を感じた。
まるで自分の背中に、何者かに触れられるような感触が残った。
彩加は、振り返った。
勿論、誰もいない。身震いをした。
何だこの感触は・・・・・・。突然いいようのない不安を感じた。
実は、あの事件以来、こんなことが頻繁に起こっている。
考え過ぎか、と言われるかもしれない。でも、現実には有り得ないことだが。まさか、そんなことは・・・・・・。
彩加は、頭を振った。
でも、薮押の影が、一時も頭を離れてはくれなかった・・・・・・。
何で、どうして ?
あの人は、なんで、死んでさえも、私のことを、こんなにも、苦しめるんだろう・・・・・・。
了
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