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三、
しおりを挟む六時限終了後、僕は気持ちを切り替え、学校の門を出て、向かえにある古くて、赤焦げた壁の二階建てのクラブハウスに向かった。
昔、工場の寮だったところを譲り受け、そこをクラブハウスとして使っているのだ。
四DKで一階は駐車場だ。十台分のスペースがあり、真ん中に簡易的なリングを造り、壁側に、上からパンチングボールとサンドバックを二つ吊るし、ジムが創設されている。
二階が部屋となっているので、雨は凌げるが、難は冬場の隙間風が身に染みることと、夏場の下から突き上げてくる熱気が異常に暑いことだ。まるでフライパンの上にいるかのように。
「チェイッス!」
階段を登った所で、上から挨拶が聞こえてきた。もう後輩が練習の準備を始めている。
「おう」
僕は少し威厳を持って応対した。
共栄高校ボクシング部の伝統は古く、昔は上下関係が厳しく、まさに貴族と奴隷のようだったが、今では大分緩くなってもきている。
チェイッスという挨拶も昔からの伝統だ。上り框には沢山のシューズが並び、それをかき分けて靴を脱いでから部室に入る。臭い、男臭が充満するこのスペース。
学生服を脱ぎ、先ずは計量をした。朝とあまり変わらず二・七キロオーバー。
舌打ちした後、裸のまま音が軋む、古びた廊下を歩き、洗濯ものの干してある部屋にいくと、据えた臭いが鼻腔を刺激し、咽ぶ。
咳払いをして、自分の運動着を手に取り、着替えた。
時々乾いていない服があるので、確かめてから着るのが日課となっている。洗濯は一年生の仕事だ。
僕が一年生の時には、先輩からジャージが乾いてねぇ、とよく殴られたものだ。
どうしてもこれを着たいと言われれば、近くのコインランドリーに行き、乾燥機を使って乾かしたこともあった。
あの時は常に気を張り、先輩らの顔色を窺っていた。
なぜなら、いつ何時げんこつが飛んでくるのか、分からなかったからだ。試合と同じく、油断ならない、ものだと。
それはこういう風にして習ったのかもしれない。常に気を張っておかなければ、痛い目に合うのは自分なんだから、と。
「チェイッス」
三年生の部屋に入っていくと三浦と河辺がいた。
「お前ら、まだいたのかよ」
顔が、自然とニヤけてきた。
「悪いかよ。そりゃ俺らは予選で負けたから、試合のない引退の身分だ。
でも、この予選が終わるまでは付き合ってもいいじゃないか」
「いいけど」
僕は腕を組み、間をとった。
「じゃ、一年と同じ扱いだけどいいな」
「そんなこと、やるわけないだろ、今更。何だよ、お前、勝ったからって調子に乗ってんじゃないぞ」
三浦が食ってかかってきた。
「冗談だ」
僕は入口に目を向けた。
「あの足音は、近藤か? あのヤル気のない足音。相変わらずだな。嫌なら来なきゃいいのに」
近藤も初戦で負けて、本当なら引退の身だ。今までの仕来りでは、三年生は負けたら即引退で、その翌日から練習に顔を出さないのが普通だった。
でも、今年は今までと違って、試合が無くなっても練習に参加するようになっていた。
「チェイッス」
近藤は、角刈りのフロント部分を気にしながらやってきた。
いつものように左手で上の方へと髪の毛を立たせるのに必死だ。
彼は左利きのサウスポーだ。背は低いが、リーチが長く、パンチが伸びてくるボクサーで、重いというより硬くて、痛かった。拳が堅いのだろう。
「川島と楢崎は?」
「校門でツレと喋ってたよ、あの二人」
「余裕あんな、あの二人は。試合前だっていうのに、早く練習しんといかんだろ」
河辺は一人、ソワソワとしていた。
「まあ、でも、ハチも今日は来るのが遅いって言ってたし」
「お前、何ソワソワしてんだ、さっきから」
「いや、ハチが来て、俺らに何か言うかも、って思ってな」
「言うわけないべ」
三浦が、河辺の腰を無理やり下ろさせた。
「あいつはそんな奴じゃない。黙って座ってろ」
「そうだ。お前はうざいんだ。じっとしとれ」
僕も、三浦に手を貸した。
「ボクシングでもそうだ、お前は。チョコ、チョコと無駄な動きばっかして。だから肝心な時に、すぐスタミナが切れるんだよ」
ハチとは、山田八郎コーチのことだ。本人の前では言えないが、部員の間では呼び捨てでもある。
彼は共栄高校の卒業生で、ボクシング部のコーチをしている男だ。
外見はまるでヤクザのような強面で、少し言葉使いが悪いが、内面は意外と優しいところがある。
コーチは、トラックの運転手をしながらこの部の面倒を見ており、好きだからやっているのだろうが、仕事との両立は大変のはず。
でも、本人に言わせれば、俺はここに来て、日頃溜まったストレスを、お前らに八つ当たりしているだけだ、と笑いながら言うが、その言葉を信じる者は、誰ひとりとして、いない。
練習の始まりは準備運動から始まり、ストレッチまで全員で声を出して行うが、学年によって行う場所が決まっている。格差だ。
三年生はリングの上。二年生はサンドバックを打つところ。そこは板張りの上となっており、若干ましだが、一年生は硬い凸凹の、砂利道の上と悲惨な状態になっている。
タイム係りは一年生の仕事で、ボックスの掛け声で始まり、試合形式の一ラウンド二分で動く。
休憩は、試合は一分だが、練習では三十秒の短縮時間となっている。
「チェイッス!」
一年生の声で動きが止まり、皆が入り口を見た。今までの風とは違う風が吹いた。
ここでコーチが登場した。ちょっとした緊張感が走った。
「おう」
手を上げ、リング下にやってきた。
「川島、楢崎、それから藤賀。体重は?」
川島は一キロ、楢崎は五百グラムのオーバーで順調の仕上がりだ。
「藤賀は?」
「二・七キロオーバーです」
「バカ野郎! 今の時点で二・七キロもオーバーしてて、どうするつもりだ、お前、試合、ヤル気あるのか? そんなことじゃ、試合に出さんぞ」
突然変わる顔の表情は、般若のようだった。
それだけで、背筋もピーンと張りつめる。
「済みません」
この男を怒らせると怖い。顔からして怖いのだ。
極道のようにいかつい顔をしており、何より声が大きくて、迫力がある。
「いいから、早く始めるんだ」
先ずはリングでシャドーボクシングをする。相手がいることを想定し、三ラウンド見えない相手と闘う。
体が温まってきたところで、下に降り、板張りの所で、スキッピング・ロープを飛ぶ。
小刻みにステップを踏むようにして跳ぶ。トン、トン、トンと小気味良い音と共に。
まるで踊るように。時折二重飛びを入れ、瞬発力を鍛える。休憩も飛び続け、三ラウンド。
そうすることにより汗が滲んできた。腕でその汗を拭い、グローブを付け、サンドバックを叩く。
ジム内には洋楽のヒップホップ系の音楽がかかり、サンドバックを打つ音に、キュ、キュという靴の擦れる音、それにシュッ、シュッという息遣いや、ロープが地面に叩きつけられる音。
それは時に柔らかく、時に強く、激しく。様々なハーモニーが奏でられ、ここはまるでコンサート会場のように熱気があった。
「タイム!」
そんな中、一年生のタイム係りの声で、インターバルに入る。それでも動きを止めることが許されず、手足を動かしながら、呼吸を整えて休む。
そうすることにより、汗が引かないようにするのだ。
先ずはリングに楢崎が上がり、コーチのミットが始まる。
パン、パン、スパパパパッ!
小気味良い音を弾かせ、楢崎が、音楽にノッてパンチを打つ。
「そうだ、そうだ」
「ほれ、左、左、右!」
「オッケェッッッ!」
いつものように首を振りながら、パンチを交わし、ミットに強烈なパンチを叩き込んでいく楢崎。
次にキャプテンの川島がリングに上がり、コーチのミットに目掛け、多彩なパンチを繰り出す。
やはりインターハイ経験者の二人の動きは違うし、ミットに響く音も違った。
腹の底に響くような重低音だ。それから音楽に乗って繰り出すパンチに、相手との間合いをとる足捌き。
それはダンサーのようであり、芸術的でもあった。見ているこちら側も、惚れ惚れする。
ちきしょう。僕だって、あの二人のようにリングの上でカッコよく蝶のように舞いたい。
あの二人には敵わないかもしれないが、僕だってボクシング関係者をアッと言わせたい。いや度肝を抜かしたいんだ。
何度となく自分が一発KOを勝ち取った時の妄想を見てきたことか。
僕はクソ、クソと心の中で呟き、何に対しての怒りか認識もせず、力の限り、思いっ切り、音楽にノッてサンドバックを打った。
楢崎や川島のように一発のパンチ力はないが、僕には二人にも引けをとらないスピードがある。
彼らが一発打つ間に、僕は三発、四発と打ってやる。
今の僕は、これでいいんだ。これをしてさえいれば。先のことは考えるな。今は、これをする時なんだ。
くそ、くそ、何で、コーチは楢崎や川島ばかり面倒を見るんだ?
「藤賀、リングに上がってこい」
川島のミットを受けていたコーチが僕を呼んだ。普段は川島が最後を務めるので、今日はないとばかり思っていたのだが、違った意味で、少し面を食らった。
いつもコーチに優遇されている二人。そりゃ、しょうがないさ。あの二人は試合に勝つから、次がある。だから指導、面倒を見なくてはならない。
でも、少しくらいは、俺のことにも目を向けてくれよ。俺だって、俺なりに頑張っているんだから。
「何ぼけっとしとるんだ、止まるんじゃない。汗が引くだろうが。
お前はまだ三キロも落とさなければならないんだぞ。
試合前でも、もっと動くんだ。しごいてやるから、早く上がってこい」
「二・七キロッス」
そうだ。俺も、次があったんだ。
コーチの言うことを聞いていれば間違いはない。そうだ。僕はロープを潜り、リングに上がった。
「ツベコベ言うな、馬鹿。いいか、このパンチを今から何回も練習するんだ。太田対策としてな。
お前は、不器用だから一つのことだけをやっていればいいんだ」
コーチが僕の腕を取り、中央に呼んだ。
そうだ。今の僕は決勝戦のリングに上がることだけを考えていればいいのだ。
海や山?
それから将来?
他事を考える必要なんて今は、ない。夢中になって、前に突き進んでいけばいい。
「太田の右ストレートは速いし、強い。カウンターも天下一品だよ。うちの楢崎といい勝負かもしれないな。
だけどお前にはスピードがある。相手が右を出したところを、上から叩きつけるようにして、右をぶん回してやれ。必ず当たるから、このパンチが。
いいか、ボクシングは力だけじゃない。動体視力や反射神経も勿論必要だが、それだけじゃない。頭を使った奴が強いんだ。分かるか?」
コーチはパンチングミットで、自分の頭を指した。
だが、僕はコーチの言葉に理解できず、首を傾げた。
「ハハハッ。分からんか」
コーチが僕の頭をミットでこついた。そして、動きながら説明していく。
「人と同じことをしていては勝てんぞ。そこで、右のオーバーハンドで打つクロス・カウンターだよ。
いいか、相手はお前の真っ直ぐのストレートに合わせて、セオリー通りに右ストレートを打ってくる。
だからそこで、お前は軌道を少し、ずらしてやる。
そうなると、相手はどっからパンチが飛んで来るのか分からず、様子を確認するよう、無防備にも、顎を上げてくるようになる。
いいか。あいつは、疲れてくると必ず顎が上がるんだ。
まるで、平泳ぎの水泳選手が息継ぎをするために、水面にぷかって上がってきて、口を開けるように、な。
それが奴の癖だよ。だから、上がってきたところを、お前がその顎を打ち抜くんだ」
コーチは、オーソドックス・スタイルで構え、そして、右を出し、僕の右のオーバーハンドを導く。
視線は下に向けたまま、野球のボールを投げるような感じで、大きく振り被って繰り出すパンチだ。
時折、ジャブをついて、ワンツー、連打を出させるが、最後はコーチが右を出し、僕に、それをステップバックで避けさせてから、右のオーバーハンドを出させる。
僕は、早口でやいやい言うコーチのその口を黙らせるために、楢崎のニャけた顔を真剣な顔にするために、それから川島の冷静沈着な表情を崩すために、コーチのミットにパンチを叩き込んでいった。
ジャブ、ジャブ、フック、右ストレート、アッパー。自分の今持っている妬みをパワーに代え、この右を振り抜け!
「おい、楢崎。悪いが、リングに十四オンスのグローブを付けて上がってきてくれ。ヘッドギアはいらないから」
コーチが、サンドバックを終え、軽いシャドーに入った楢崎を呼んだ。
「藤賀も一旦降りて、十四オンスのグローブを付けて、また上がってこい。マスだ」
マスとは、正式にはマスボクシングと言い、寸止めのスパーリングのことをいい、実戦に近い練習だ。
スパーリングはパンチの衝撃で、蓄積していくダメージのことを思い、選手の健康を考え、滅多にやることはない。
なぜならスパーでは、お互いが思いっ切り殴り合うからだ。
脳への影響も大きいため、なるべくマスで実戦を想定するようにしている。
それにグローブも試合は十オンスを使用するが、マスでは主に十四オンスと大き目の物を使って行うようにしている。
仮に当たったとしても、グローブが大きければ、それだけスピードも落ちるし、威力も鈍るというものだ。
「楢崎、なるべく右ストレートを出してやってくれ。
そして、藤賀はそれに合わせて右のオーバーハンドを打つ。じゃ、始め」
試合前の軽い練習ということで、楢崎は早くもクールダウンし、練習を終えようとしたのだろうが、僕の練習に付き合ってくれた。
リング下を見ると、川島もストレッチをしながら真剣な目、鷹のような鋭い目を、リング上に送ってきた。
嬉しい、と感じた。皆に見守られているようで。そんな中、僕は気を引き締めて、構えた。
楢崎は筋肉質で、胸板が厚つい。いつもの構え、両頬に拳を固定し、ガードを固め、頭を振って前に出ながら、早速、左右のフックに強弱をつけて、シュッ、シュッといきなり八発のコンビネーションブローを打ってきた。
マスでさえ、楢崎は重戦車のように迫力があった。
そして、ステップインが速い。一拍おいて、右ストレートを出してきた。一度目はタイミングがずれて、もらった。
「ステップバックしろ」
二度目は猫のような動きで、上体を反らせ、スウェーで交わした。
「駄目だ。もっと大きく離れろ」
三度目は大きく豹のような脚力で、ステップバックした。
「よし。そこでオーバーハンドだ」
僕は右のオーバーハンドを打った。
「よーし。よし。いいぞ。ドンピシャだ。そのパンチが当たれば、絶対に倒れるんだ」
コーチは言った。
もし・・・僕がインターハイに行けるようなことがあったら、彼女に告白する。もう決めた。
何度もそう思ってきたが、そうだ、絶対だ。僕は太田に勝って、彼女に告白をするんだ。だから、怖れてはいけない。
インターハイ出場が決まれば、彼女も、それで僕を見る目が変わってくるはずだ
それから告白すれば、いい結果に繋がる、きっと。
しかし、なぜ、僕はこんなにも彼女のことを好きになったんだろう。
一目惚れといえば分かりやすいのかもしれないが、もしかしたら、自分のタイプに見合っただけで、彼女を好きだと思うことにした。
そして、単に張り合いを持たせているだけなのかもしれない。恋をする自分に酔って・・・。
あの時の僕は、何に対しても確証などというものを持てず、一歩立ち止まって、よく考えることもせずに、ただ前へ、前へと進むことしか知らなかったのだろう。
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