心に傷を負った男

中野拳太郎

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第一章 発端 一、

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 ―二年前―

 雨が優しく、窓を撫でるように降っていた。

 誰もが寝静まる暗闇の中、少年の目だけは冴えていた。
 何度も目を瞑り、寝ようと心掛けるが眠れず、しまいには喉の渇きを覚える。
 少年は居たたまれず、ベッドから起き上がり、誰もいない廊下に出てみた。
 その少年は、これといって特徴のない子だった。病弱なため、痩せ細った男の子だ。ただ、彼はこの病院に入院していたがために、見なくていいものを、目にしてしまう。
 この先苦しむことも知らずに。偶然が重なると、それがいつしか必然に変わるように。 

 昼間の病院は人が行き交い、騒々しいが、このように皆が寝静まる闇の中では、蛇口からこぼれ落ちる水滴の音でさえ、クリアに聞こえ、まるで自分だけがこの静寂な空間に、取り残されたような錯覚を受ける。
 
 そんな中、少年は自動販売機に向かい、上着のポケットから小銭を取り出し、コーラのボタンを押した。ガコーンという大きな音に、ピクリと背筋に緊張が走った。後ろを振り返った。

 誰もいないし、何もない。

 プルタブを開けて一気に半分ほど飲んだ。妖精でも現れないかと期待を寄せてみたが、何も起こらなかった。
 それはそうと、看護師の巡回には気をつけなくてはならない。こんなところを見つかったら、何を言われるか、わかったものじゃない。
 さっきからパタパタと、誰かの歩く音が聞こえたし、気をつけよう。コーラを飲み干すと、外の雨の音が気になる。病室にいる時と違い、今では雨足が強くなっていた。
 階段の踊り場にある窓に視線を移すと、叩きつける雨が見て取れた。
 
 ヒューッッ、ガタガタガタ、扉を揺する風の音。
 病室から出てからが、まるで異質の世界に迷い込んだかのようで、心細い。夜というものがこれ程までに暗く、音もなければ、静かで、恐々しい孤独の世界であることを知る。

 そんな時だ。

 一人の男の姿が視界に入った。
 
 こんな時間帯に人がいることが不思議だ。
 外部の者だろうか。上下とも黒い服を着た、見かけない男だ。
 その真っ暗な人影が近づいてきた。このまま見続けてはいけない予感がした。だから咄嗟に自販機の前にある長椅子の後ろに隠れた。

 風の音が大きくなっていた。何かが起こる。そんな気がした。時折、ビニール袋の中にその風を押し込んだような、圧縮した音。
 その男は周りを見渡すでもなく、前だけを見て歩いていた。大きな男だ。 

 突然、後ろからパタパタと急ぎ足の足音がしたと思ったら、いつも見かける看護師がその男を呼び止め、二事、三事話しをした。聞き耳を立てるが、まったく聞こえない。しばらくすると、看護師が、その男に白衣を着せたので、新しい医師かと思ったが、それにしても様子がおかしい。
 少年は通り過ぎいくその男の背中を目で追った。男は前々からある病室に向かうことに決めていたようで、後ろを振り返ることなく、ずんずんと歩いていく。
 それは一定の動きで迷いのない、機械的で、ゴールだけを目指すブリキのロボットのようだ。

 男は、個室の三〇二号室の前で一旦、足を止め、深呼吸をした。

 そして、ドアを静かに開け、中に入った。
 やはり医師なのか。男の後に続いて、看護師も入っていく。だが、見てはならないものを見たような、そんな気がした。
 それでも少年は好奇心が勝り、気づかれないよう、その彼らの背中を追ったが、ドアはそこで閉じられた。風の音がピタリと止み、そして、静寂の世界が広がった。

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