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十二、
しおりを挟む眼鏡を何度も指で持ち上げ、血走った目で、周辺を必要以上に見渡す仕種から、いつものインテリ風の顔は消えていた。
佐竹宣夫は仕事が終わると、真っ先に事務所を後にした。今日昼食を食べそびれているが、今のところ食欲はない。
そんな時だ。彼の行く手を遮るようにスマートフォンが鳴った。佐竹は舌打ちして立ち止り、それを手にした。
「はい?」
「佐竹さん、ホームページを見ましたか?」
社長の声だ。声が不安で、裏返っていた。
「はい」
「ど、どうしましょう?」
「どうすることもできないですね」
「どうすることもできない、って?」
光子のヒステリックな声。
「あれ、消すことができないのかしら。わ、私、あんなホテルなんかに行ってなどいないわ」
「ええ。あの日我々は確かに二人で会いました。しかし酒を一杯飲んだだけで、帰宅しました。そうですね?」
「はい」
「だがある人物が我々のことを監視していたのです。それで、場所を変え、設定を変え、合成写真を作成したのです」
「ご、合成写真。なんで? 意味がわかりませんわ」
光子の動揺が受話器を通し、伝わってきたが今はそれどころじゃない。
「もう既にホームページの写真は消してきました。ですが、コピーをとっている者がいるかもしれません。
それに、噂はとっくに広がっていると思います。現に違う会社の人間が見ていて、私に伝えてきたのですから。どうすることもできません。
それでは、私は急ぎますので・・・・・・」
先を急いだ。
「私は急ぎます、って、さ、佐竹さん。ちょっと、待って。
わ、私は、どうしたら、いいのですか?」
俺だって、どうしていいのか分からないのだ。ようやく駐車場が見えた。愛車のレクサスが待っている。取り敢えず家に帰るのだ。
そして、刑事に会わなくては・・・・・・。ワイヤレスキーでロックを解き、ドアに手をかけたその時―。
車の陰に隠れていた義信は、素早く佐竹に接近し、スマートフォンを奪ってから、その電源を切った。
「有名人ですね」
「貴様・・・・・・」
義信は有無を言わせず、助手席に乗り込んだ。
そして、佐竹に向かって、手招きをする。
佐竹は顔を歪ませ、周りの目が気になるのか、仕方なく運転席の方に乗り込んだ。
「家に帰るのですよね」
義信は、ジャンパーの胸元のポケットから煙草を取り出し、ふてぶてしく火をつけた。
「早く、車を出して下さい」
佐竹は、義信を見ながら、アクセルを吹かした。時刻は六時半。
「ま、お互い話があると思うので、私も家路まで付き合いますよ」
佐竹は苦虫を噛み潰したような趣で、黙ったまま、車を発車させた。
「あなたには、もう用がありません」
義信は、ゆっくりと言った
「よって、今から死んでもらいます」
無表情で、淡々とした口調だ。
「な、何を言っている。お前は一体、何を企んでいるんだ」
強がっても、佐竹の膝が震え始めているのがわかった。
義信は、その質問には答えず、
「少し、ドライブでもしませんか」
と言った。
「あなたの最近の行動からして、思い悩み、自殺した、としてもおかしくはない。
ところで、例の横領の件ですが、もうそろそろ全てをネット上に暴露させてもらってもいいですか?
もし、このことを私が暴露すれば、余計に自殺の線が浮上することになるでしょう。違いますか?」
佐竹は歯軋りをし、苛立ちを見せた。
「何が言いたい。俺に何をしろというんだ。それとも、もう俺は用なし、ということか?
昨夜だって、俺に外出させ、社長を連れ出させたのは、晒し者にするのが目的だったんだろ」
「勝手に想像して下さい。ところで、今日伺ったのには、わけがあります」
「何だ?」
「あなたを、刑事と会わす訳にはいかない」
佐竹は目を見開いた。
「な、な、なぜ、それを知っている?」
義信は両唇の端を僅かに上げ、微小を浮かべた。
そして、バタフライナイフを取り出し、それをちらつかすと、佐竹は喉元を密かに動かせ、恐怖で生唾を飲み込んだ。その喉元をナイフでチクリと刺した。
「ひっ・・・・・・」
佐竹の顔が引き攣った。
「傷を残せば、他殺だと、疑われるぞ」
「心配いりません」
義信はナイフを器用に扱う。
「私には考えがありますから」
佐竹はダッシュボードを開け、青いタオルを取り出し、喉元の傷をそれで塞いだ後、確認した。その青いタオルに赤い染みが広がっていく。
「そこの交差点でUターンして下さい」
義信は、二四八号線を東に向かわせた。
「お子様は、今のところ無事ですので安心して下さい」
「お子様は?」
佐竹は、義信を睨んだ。
「馬鹿なことを言うな」
義信が途中でそれを遮り、
「浩太は家にいる、とでも言いたいのですね。よろしい。それでは確かめましょうか」
義信はそう言い、スマートフォンを手にした。何回かの呼び出し音が鳴り、相手が出るまでしつこく電話を鳴らし続けた。
しかし、留守番電話に繋がり、何の応答もない。
「あなたの家にかけてみたのですが、どうやら無人のようですね。おかしいな。こんな時間帯に誰もいないとは」
義信は言った。
「もう一度かけてみますか」
「貴様! 何処にやったんだ、息子を何処に―」
「車を停めろ」
義信が厳しい声を出した。
「なぜだ?」
「いいから停めろ」
佐竹は車を路肩に寄せてから、停車させた。
ゴン! するといきなり義信は、佐竹の頬を殴りつけた。
「さ、早く走らせるんだ」
淡々とした口調で義信は言った。何事もなかったかのように。
佐竹は切れた唇を、タオルで拭った。震える体を止めることができないようだが、何とかハンドルは握っていた
やがて川が見えた。河川敷が広く、そこは広場となっており、日中であれば、サッカーや野球をやっている人で溢れているが、暗くなった今では誰もいない。
さらに東の方へと向かう。道は段々と狭まり、田舎に向かうにつれ、暗くなってきた。たまに出てくる街灯も暗い。
もうとっくに刑事との約束は過ぎている。さあ、どうする? 佐竹さんよ。最大のチャンスだっただろ、俺を警察に突き出す。
義信は助手席で、前を見ていた。
窓の外には、とした樹林の向こうにピラミッド型の黒くて、雄大な山並みが見えた。
まさに暗黒の世界が広がっている。苦しいだろう。この恐怖と緊張が体力を奪うはず。
もうハンドルを握る握力さえないはずだ。なぜこんなことを、なぜ俺は車を運転するんだ、そして、どうすればこの拷問から解放されるのだろう、とな。
苦しめ。そうだ、もっと悩め。そして、自分の考えを無くし、俺の言いなりになるんだ。
人間、疲れれば、疲れるほどに考えることを放棄し、相手の言いなりになる。それにこの暗黒の世界がより不安をことは間違いない。
今まで山の中をひた走らせてきたが、暗くて、周りに走っている車をまったく見なくなった。
洗脳させるには、丁度いい。途中、コンビニで、食料を買い込んだが、勿論義信がそれを口にするだけで、佐竹には何一つ与えなかった。
車の中に充満する甘い匂いに佐竹は、何を思うー。
一定の速度、そして、同じような景色が並ぶだけで、ついには欠伸が出た。
それで眠気を催す。どれくらい車を走らせただろう。
今まで直線であった道がカーブになっていることに、義信は気づかなかった。
レクサスはペースを落とすことなく、目の前のガードレールがあるのにも関わらず、吸い寄せられるようにして近づいていった。
それは静かに、黒色の山が手ぐすねを引き、すっぽりと車を包み込むように。
光に照らされた目の前には、白色の壁、いや違う、ガードレールだ。
その先には幻想的な美しさを醸し出す紅葉の木が迫ってきている。ヤバい! と思った時には遅かった。
ガシャーン!
暗闇の中、派手な音と共に車が停まり、我に返った。前方に視線をやると、真っ暗だが、ガードレールの下に谷底が広がっていた。かなりそこは深かいー。
やはり歯車は狂っている・・・・・・。
何処かでボタンを掛け間違えたのだろうか。予定通りに、ことが進まなくなってきている。
「何をしているんだ?」
正直、焦った。
ちょっとナイフで傷つけただけなのに、佐竹は意識を無くし、誤ってガードレールに車をぶつけた。
と、その時。突然、ポケットの中のスマートフォンの振動を感じた。
それを取り出すと、瑠唯からだ。
取るか、取らぬか、迷った。横では動物の鳴き声のように、唸る佐竹がいる。
パニックに陥った。
ナイフを翳し、
「静かにしろ」
と脅した。
そして、ゆっくりと深呼吸をし、一度、首を大きく回した。それで気持ちを沈めてから、電話に出る。無視すればいいものを。出てしまった・・・・・・。
「はい?」
少し声がかすれた。
「今何処?」
「ど、どこって、今は、ちょっと、ええっと、岡崎の方、だよ」
「え、どうして?」
「ああ、ツレのところに、いるんだが、」
必死で頭を振って、正気に戻ろうとした。
「どうしょうもなく、急用な用事で・・・・・・来ているんだ、が」
何でこんな時に、電話なんかをかけてくるんだ。おかしくはないか。
自分の言った言葉は不自然ではないか。必死になって正気に戻ろうとした。横を見ると、佐竹が気を取り戻そうとしている。頭を振り、眉間に手をやっていた。
「その用事も終わったよ」
「じゃ、今から会える?」
「え? 今からか? 何言ってんの」
時計を見た。十時を過ぎていた。
「もう遅いじゃないか。今日は会えない」
「普通、彼氏だったら飛んできてくれるのにな。違う?」
「今忙しんだよ。そう虐めないでくれ、よ」
「エ~」
いつまでも耳に残るこの甲高い声。
それが形を変え、ストレスの化け物となり、鼓膜を貫通し、体に侵入してくる。
「冗談、冗談。じゃ、今ちょっと話があるんだけどいい?」
「どんな?」
「兄貴のことで」
「兄貴のことで?」
鸚鵡返しに聞いていた。
後悔した。お兄さんのことで、というべきだったのだ。
冷静でいられない。自分が、自分でないように思い、それで指先が震えてきた。
「兄貴が、今度ぜひ会いたいって言っているの。会ってくれる?」
「俺が、お兄さんに会うのか?」
「うん」
少しの間考えた。
車の横を黒い物体が通り過ぎていった。カラスか何かだろう。暗闇でそれを目にすると、何とも不気味だ。
その時だった。突然佐竹が扉に手をかけたと思ったら、転がるように車から飛び出し、脱出を図った。
「わかった。じゃ、今度喜んで、会わせてもらうよ」
慌ててスマートフォンを切った。
頭に血がのぼった。どうする?
考えろ。逃がすわけにはいかない。こいつを警察に引き渡すわけにはいかない。
そのためにここまで連れてきたのだ。子供だって使い、脅したのに、ここから逃がしてしまったら・・・・・・。
ひょっとしたら、俺の計画は、収拾不能なバラバラの状態に陥ってしまったのかもしれない。
―この男は、子供の身の安全を願っていないのか?
どうなってもいい、というのか? 佐竹を追って、車から出た。
もう十メートル先を走っていたので、ダッシュで追った。逃がす訳にはいかない。
その十メートルあった差は徐々に詰まった。体格、運動神経、それから年齢的にも若く、全てに対し上まっている。頬が緩んだ。佐竹の肩に手をかけようとしたその瞬間。
それはいきなり横へ移動し、ガードレールを飛び越えていった。
佐竹は勢いよく崖を転がり、木の切れ端や石などにぶつかり、身体を回転しながら落ちていく。
予測不能なことが起き、パニックになりかけた。
それでも、その後を追ってガードレールを飛び越え、佐竹を追った。
「止まれ!」
そう叫んだ時。
佐竹は、進行方向の先に大きな石があるとも知らず、勢いを止めることなく、転がり落ち、そのまま物凄いスピードで、頭から突っ込んでいく。
「危ない!」
ゴン! という短くて、鈍い音がした。信じられない。ど、ど、どういうことだ、どうすればいい? 何が起きた?
佐竹は動かなかった。
そして、後頭部からじわじわとどす黒い血が流れていた。
只事ではない。
義信は慌てて降りていった。
砂利を避けながら走るが、草に足を滑らせ、もつれ、転がるように落ちていく。
ようやく倒れている佐竹のところに辿り着き、慌てて彼を仰向けにしてから、脈をとった。
これは現実に起きたことなのか?
死なしてはならない、死なしては。今日、こいつは警察と会うのだぞ。なのにこんな所で死体が発見されれば・・・・・・一体どうなる?
車には、俺の指紋が残っている。
佐竹の頬を軽く叩いた。するとそれが、かーっと目を見開き、鬼の形相で、義信の首に手を廻し、絞めてきた。
義信は、その手を払いのけようとするが、それは爪を立て、鋭く義信の腕を引っ掻いた。
あの時のように。そう、あの二年前に起きた過去。
悪夢のような残像が甦った。
その顔が中西守の顔へと変貌していくと、腰が抜け、動けなかった。
ハァハァハァハァハァ、荒い息遣い。
この静かな山の中で義信は喘いでいた。
気づくと、まるで背中に水を被ったかのようにシャツが濡れ、背中にへばり付いていた。
義信は、額に浮き上がった玉のような汗を腕で拭う。
両腕のミミズ腫れの古傷に目をやると、それが一段と濃くなっていた。本当にミミズが生きているようで、クネクネと動き廻り、怖かった・・・・・・。
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