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三、
しおりを挟む日は沈みかけていた。西の空が薄く、赤くなっており、そろそろ暗くなる頃だ。街が灰色に染まっていくのを見ると、疲労を覚える。だがそんなことを考える暇はない。
豊田署の板垣と愛知県警の北川は、中区丸の内にある東海新聞本社に向かっていた。
「板垣さん、スマホが着信してますよ」
さっきからスマートフォンがブルブルと暴れているのに、まったく気付かなかった。
「ああ」
板垣は、慌てて受信した。
「はい?」
「鑑識課が指紋の採取をしており、その結果が出ましたので、ご報告にと思いまして」
「有難うございます。それで、どうでしたか?」
スマートフォンを持ち替えた。
足田町下林山レクサス転落事件のことだ。鑑識が入ったので、その結果報告だ。
「ハンドルやギア、窓の指紋を採取したのですが、車内は黒焦げで、佐竹さんの指紋が僅かに残っている程度でした」
「そうですか」
「それに、トランクはグシャグシャに潰れており、座席シートやグローブボックスからも、指紋や頭髪といった手懸りになるものはありません」
「手懸りなしか・・・・・・。車内は黒焦げだったわけで、指紋がそれほど残っていないことには頷ける。そもそも、自殺で車があそこまで焼けるものだろうかー」
「まだ調べてみないとわかりませんが、車が落下した時に、電気系統のどれかが岩などに衝突し、引火した可能性もなくはないのですが・・・・・・」
「そうですか。有難うございます。それでは引き続き、何かわかったら、教えて下さい」
東海新聞社に入り、受付で運動部に連絡を取りつけてもらった。
「今日名東大にいって来ました。それで、中西守さんについて訊きたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
「名東大ですか。構いませんよ」
ワイシャツの上に黒いセーターを着た男は、書いていた書類を閉じ、立ち上がった。
「お久しぶりですね」
背が高く、シュッとした男で、運動部デスクの勝田だ。
「それでは、こちらの方で」
勝田はそう言って、応接室の方へと案内した。
板垣と北川はその部屋に通され、椅子に腰掛けた。そこは奥に位置する別室となっている部屋で、さほど広くもなく、会議用の椅子と机があるだけのいたって質素な部屋だった。
「いや、びっくりしました」
座るなり板垣が言った。
「中西守さんのことを調べたいと思い、名東大の方に行ったのですが、あなたと中西さんが同級生だったとは・・・・・・」
勝田は、しばらく板垣の顔を眺めていた。
「まだあの事件のことを追っていたのですか」
彼は呟くようにいった。
「もうとっくに事件は終わったと思っていましたが」
「いえ、私の中では、まだ終わってはいません。ですからこのように捜査を続けているわけでして」
「ほう」
彼は興味深そうな顔で、足を組んだ。
「そうですか。で、私に何が訊きたいのですか?」
「時間の方は、大丈夫ですか?」
板垣も足を組んだが、足の長さが勝田とは違い、こっけいに映る。やめた。また元に戻した。
「ええ、少しなら。でも、もうすぐしたら外出しなければなりません」
彼は言った。
「世界タイトルマッチが決まった中西英二選手が、今日アメリカから帰国するので、取材に行かなくてはならないのでね」
そんなことを話していると応接室のドアが開き、お盆に茶を載せた姿勢のいい女が入ってきた。
「こんにちは」
皆川綾乃が会釈した。
「あ、彼女も一緒に行くことになっています」勝田は茶をとり、言った。
「私も同席して構いませんか?」
綾乃は全員に茶を出してから、椅子に腰掛けた。
「また君か」
板垣はしかめっ面を作った。
「え、知り合いですか?」
勝田が訊いた。
「ええ。最近、私の周りをうろうろしているのでね」
勝田は、綾乃を一瞥した。
綾乃は目を反らす。
「ま、構いませんよ」
板垣は言った。
「それでは急がなくてはなりませんね。では率直に訊きます。あなたと中西さんとの仲はどのような・・・・・・ま、簡単に言えば親しかったでしょうか?」
「はい。親しかったといえば、そうなるし。でも親しくなかったといえば、そうだな」
勝田は、曖昧な趣で答えた。
「勝田さん、中西英二選手の父親と親しかったのですか。もっと早く教えて下さいよ。そうゆうことは」
綾乃は口を尖らせ、話に割り込んできた。
「まあな。同級生だったんだ」
「来た甲斐があります」
話はしばらく他愛のないことがなされた。板垣は敢えてそうした。初めは遠くから攻めることで、曖昧な答え方の口を滑らかにするためにだ。
何を専攻していたのだとか、彼の思想や性格。やがては彼自身の話題から少し離れ、当時の流行った歌だとか、服装。
それら笑みを浮かべ、和やかに話をしながらある程度の時間を掛けた後、中西の話に戻る。何か、あの事件に対し、ヒントになるものがないか。恨んでいた者、快く思っていない者がいなかったのかを探るために。
「―で、彼はね、女たらしだったんですよ」
「それは、夫人の光子さんからも訊いております」
もう少し話を掘り下げられないか、少しつっいてみることにした。
「そうですか。それでね、学生の時、私は、彼と女のことをよく話していたものですよ。こんなこと、言っていいのか。ですが、未だに引っ掛かっていることがあるもので・・・・・・」
ん? 風向きが変わってきたぞ。板垣は、勝田の顔を真剣な目つきで見た。
「実はね、当時、彼からこんなことを聞かされたんですよ・・・・・・」
彼は身を乗り出しながら言った。
「どんなことですか?」
「これは内緒にしてもらいたい事柄です。特にマスコミなどには、ね」
板垣は肯いたが、事と場合によってはそうもいかない、そう思った。
「中西守は大学一年の時に、女性をはらませたことがあったのですよ」
彼は小声でそう切り出した。
ここにいる全員が目を瞬かせた。
「え?」
綾乃は思わず前のめりになり、バランスを崩し、椅子から落ちそうになった。
「それは確かですか?」
板垣はお茶をひっくり返しそうになった。
いきなり爆弾を落されたような衝撃のある言葉だ。
「ええ。それがきっかけだったのか、私は、彼と仲が良くなったのですから」
彼はそう言い、唇を舐めた。
「仲良くなった?」
綾乃は慌てて姿勢を正した。
「あ、まあ、その経緯からよく喋るようになり、相談にも乗ってやったというわけです。でもどうしてあいつが、俺なんかにあんな話をするようになったのか、わかりませんが・・・・・・」
彼は昔を探るように遠い目をしていたが、最後は首を捻っていた。
「きっと同じ女たらしだったんですよ。勝田さんと中西さんは」
「そんなことはないぞ」
彼は素早く、反論した。
「そうですよ、きっと。だから中西さんも、勝田さんには話し掛けやすかった。だって勝田さん、この前はあの女と、なんて話ばかりしている女たらしじゃないですか。それに、先日なんか、三好君、何で君は、僕が結婚している、とあの子にいったんだ、なんて言ってるの、耳にしましたよ」
「それは、何かの間違いだろ。俺は、記憶にないが・・・・・・」
「ところで」
板垣は、その二人の冗談を遮断するように言った。
「その女性の名を覚えていますか?」
彼はやや左上を見ながら、考え込んだ。左上を見て話をする人は今までのことを振り返り、真実を話そうとするもの。信じてもいい。
「確か、後藤・・・・・・春江とか言っていたような。そうだ。思い出した。当時彼女は中学を卒業して、就職をしていたそうですが、ああ、年は十六歳でした。
ええ、確かにそう言っていたような気がする。俺はまた変わった子を、なんて思っていたんだよ。で、詳しく事情を聞いてみると、あるきっかけで中西が豊田市に用事があり、訪れたそうですが、その時に知り合ったようなんです。
中西の会社は豊田市にありますが、彼自身は元々豊田市には数回程度しか訪れておらず、方向感覚もなかった。それで随分と彼女に世話になったそうで、食事をご馳走したそうです。
彼女は喜んでくれ、笑顔が素敵だったと言っていました。そして、二回、三回と豊田市にいき、デートのようなものを重ね、やがて、肉体関係を結んだ。
中西はその一度の行為で、はらませてしまったようなんです。それが親にわかると、彼女と会うことを禁止され、慰謝料を払い、いくら支払ったのかは存じませんが、とにかく強引に別れさせられた、ということを訊かされました。
ま、若い頃ですから、社会というのか、分別、そういったものがわからなかったのでしょう」
彼がふっーと息を吐き出し、話し終えると、他の者はその顔を、息を止め、見つめた。
「そんなことがあったのですか・・・・・・。で、その女性は今でも豊田市に住んでおられるのですか?」
板垣は訊いた。
「いや、これが、ね」
彼は首を振った。
「亡くなったそうです」
「亡くなった?」
綾乃は不思議そうに小首を捻った。
「どうやら中西は、後になっても彼女のことが気になっていて、身辺調査を入れたとのことです。ま、もっとも中西は彼女の子を認知していなかったものですから、彼女は一人でその子を育てたそうで、女一人では並大抵の辛さではありません。昼夜構わず働き続け、持病も重なり、ついには過労死だったということを訊きました」
「持病と言うのは?」
「心臓が悪かったとのことで、死因は心不全だったらしいですよ」
「そのことを中西さんから訊いたのですか?」
「ええ。大学を出てから、彼とはしばらく疎遠だったのですが、あれは、今から三年前ですかね、突然、私を訪ねてきたのです。あの時、息子の英二君は大学生でした。
それで全日本選手権で優勝したのもあり、そのことを私に伝えに来たわけですが、そのついでに後藤春江のことも話していきました。そして、再度、自分の過去を黙っていてほしいと念押し、してね」
「そうですか」
板垣の目がまた鋭くなった。
「そんなことがあったのですか・・・・・・」
「勝田さんはそのことを今、初めて喋ったわけですよね?」
「まあ」
勝田はここで罰の悪そうな顔をした。
「中西は、英二君のことをえらく気にしていましたし、私も思います。彼はいいボクサーです。こんなことで彼を潰したくない。だから騒ぎ立ててもらいたくありません。刑事さん、絶対にこのことを他に漏らさないで下さい」
板垣と北川は肯いた。
「でもなぜその話を私らにしてくれたのですか?」
「わかりませんね」
彼は溜息をついて、天井を見上げた。
「やはり私自身、二年前のことが気になっていたのかもしれない」
「二年前の事件。増井病院で、中西守さんが亡くなったことですよね」
皆川綾乃が訊いた。
勝田は肯き、板垣の顔を見た。
「私はあの事件の真相を知りたい」
「はい。真相に近づけるよう、努力しますので、ご協力下さい」
板垣は言った。
勝田がゆっくりと煙草を取り出し、口に持っていこうとした時。
「勝田さん、」
横から綾乃が急かすように言った。
「もうすぐ中西さんが帰国しますよ」
「ああ、もうこんな時間か」
彼は立ち上がった。
「よかったら、一緒にどうですか? まだ話し足りないような気がするのですが」
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