心に傷を負った男

中野拳太郎

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五、

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 まるで俺の心の中に蠍がいるようだった。

 そいつがグルグルと、縦横無尽に動き廻っている。その蠍の鋏で内臓を切り刻まれていくように、胃の中がキリキリと痛み出してきた。

「瑠唯、」
 義信は弱々しい声を発した。

「え?」
 瑠唯は聞き返したが、義信は目を瞑っているだけだった。

「雪は、音を吸い込むんだな。だから静かなんだ。俺は、雪が好きだ。このシーンと静まり返った世界。雑音もなく、自分の世界に浸れる。世の中はうるさいが、ここは静かでいいよな」

 瑠唯は、義信のいきなりのセリフで、何を言っていいのかわからず、ただ唖然と、彼の横顔に視線をやっていた。そんな義信は、両手を万歳のように上げて、伸びをした。

「そのお腹の子を産まないでくれ」
 そして、呟くように言った。
「その子を生んでしまったら、後悔する。君も、それからその子も・・・・・・」
 
 それは決めかねている声音ではなく、まさに決断した時の声音そのものであった。

「そんな・・・・・・今になって、どうしてそんなことを言うの。信じられない。私が今、どんな心境でいるか、知ってるの?」

「聞いてくれ。通常のところ、兄妹は法的には婚因できない。だから非嫡出子のまま俺が認知することで成り立つ。
 だがそんなことは心配しなくていい。なぜなら俺とお前は、戸籍上は他人同士だ。
 なにせ中西守は春江との子、俺の事を認知していないのだから。
 それがいいことに俺の戸籍の父親の欄は空欄だ。だが、その子が事実を知ろうと、例えばDNA鑑定などで調べていけば、いずれ自分の親が兄妹だということがわかる時が来るかもしれない。
 それに血が濃いため、障害のある子が産まれてくる可能性だってあるし、何より自分の親が殺人者だ、ということがその子のことを不幸にする一番の理由だ。無責任なことは重々承知している。でも・・・・・・」

 波打つ背中。苦しくて、咳が止まらなかった。
 それでも自分の意思を伝えなければならない、そう思った。

「俺は、自分のしてきたことに、疑問を抱くようになった。こんなことをしてもいいのか、と。
 自分の母親がされたことを、君に同じことをした。復讐として。だけど、何も得られなかった・・・・・・。
 気が晴れるどころか、自分のことを、こんなに汚い自分だった、ということを思い知らされただけだ。 
 もう、どうしようもないよな、今さら。さっきも言ったように、俺には、戻るところなんか、ないんだ。こんなことをしてきたんだからー」

「そんなの、今更、なによ・・・・・・自分勝手よ」

 狭くて、暗い道だった。光がまったく差し込まない、その圧迫感に押し潰されそうな道。
 息遣いが激しく、空気をいくら吸えども、肺の中には入らない。
 この廊下は海底にでもいるかのように、空気がない。どうにも苦しい。俺は狭いところが嫌いだ。小さな時から・・・・・・。閉所恐怖症なのかもしれない。それに暗いというのは気分まで落ち込ませる。 

 義信は這って壁までいき、そこにもたれた。ひんやりとした壁が背中に冷たく、心地よかったが、この苦しみを追いやることはできなかったし、背中が咳のし過ぎで熱くて、痛い。
 呼吸を激しく繰り返したせいだ。背後から大きな壁が、俺の居るスペースを狭め、圧迫するように差し迫る。

 逃げるところなんてどこにもなかった。もう駄目だー。そう思った。苦しくて、苦しくてどうしょうもない。

 義信はおもむろにナイフを取り出した。

 それを上に振りかざす。ナイフが光を浴び、存在感を増した。キラリと輝いた。

 心の中で、これで俺の心の中の蠍を刺殺してやろう― そう思った。頭が熱くなると、もう自制が利かなくなっていた。

 勢い良くそのナイフで自分の膝を突き刺した。

「ぐわあっっっっっっ」

「何してるの!」

 耳の奥で瑠唯の声が反響した。

 今までにない痛みを感じた。じわじわと赤い液体がズボンを濡らす。しかし、この鋭い痛みの方がどれだけましか、とさえ思った。もうどうだってよかった。

「お兄ちゃん!」
 浩太が慌てて走ってきた。
「何でそんなことしたの」

「義信!」
 瑠唯もやってきた。
「もうやめて、自分を痛めつけるのは」

「いてぇよ。いてぇよ。いてえぇんだよ!」

 だが、徐々にその痛みにも慣れ、再び咳の苦しみが勝るようになってきた。

 どうにもならなかった。逆に、さっきより苦しみが倍増したような気がする。

 身体が動かず、苦しくて、気が狂いそうだった。また、蠍が顔を出した。そして、動き出すー。

「浩太、お前の持っている、吸入器を、貸して、くれないか」

 左手で持っていた拳銃はそのままで、右手のナイフを持った手でそれを受け取る。
 それは自分でもわかるくらいに弱々しい手つきだった。情けない。

 これじゃ前にも後ろにも行くことができない。目は虚ろで、力がないし、視線も定まらない。もう、ダメかもしれない―。こんなものに、頼るくらいでは・・・・・・。 

 そんな時だった。

「もういい」
 背後からしわがれた声がした。
「やめてくれないか。そんなことをするのは。自分の身体を虐め、一体何になるというんだ」

 義信は振り返った。

 その視線の先には、一人の年老いた男の姿があった。彼がゆっくりと歩いてくる。

「もう、お前のそんな姿を見るのは忍びない」

「じいさんには関係ない。今まで俺が考え、やってきたことだ。いかせてくれ」

「その体で一体どうするつもりなんだ? かなり弱っているじゃないか」

「あ、あいつを・・・・・・」
 義信は、浩太に借りた吸入器を吸った。
「俺には、やらなくてはならないことがある」

「何をしょうとしている?」
 老人は訊いた。

「中西英二を―」
 目の焦点が戻ってきた。いつもどおりだ。
「フゥッ。ハァっ」
 息を吸い込む。

「中西英二をどうしたいんだ?」

「決まっているじゃないか」

「どう、決まっているというんだ?」
 老人は床に這いつくばる義信を抱き起こし、背中を擦ってやった。

「こんな体で一体、何ができるというんだ。いや、きっと健康体でもできないだろう」

「何故?」

「お前には中西を殺す動機が浅い」
 老人は静かに口を開いた。
「お前は、俺の単なるコピーに過ぎない。そう、小さな時から、俺は中西家のことを言って聞かせてきたよな。
 そのため、中西家を必然的に恨むようになった。だが、それだけだ。考えてもみろ、お前自身何も被害を被っていないじゃないか。
 だから中西を殺す理由などないし、できないんだ。この老いぼれが要らんことばかり喋ってきたんだ。
 ―恨みは、人間を駄目にするだけだよ、こんな風に・・・・・・」

 老人の目に、涙が薄っすらと浮かんでいた。

「俺の人生、何も残っていないし、ほんと無駄にしてしまった」

 老人はそう言って、項垂れた。

「そんな想いを、お前にはしてほしくない。いいか、人を信じられない、というのは本当に辛いことだ。
 俺みたいな人生をしていると、自分を破滅に導くだけだぞ。
 憎しみからは何も生まれないし、逆に自分を醜くするだけ。
 それで己を嫌悪するようになる。そんな風になったらお終いだ。
 きっと、お前の母、春江が望んでいたことは、こんなことではないはずだ」

 老人は、ここで額をこの冷たい床に擦りつけ、土下座をした。

「本当は、今までお前に、わしの部屋を貸してきたのは、下手なことをさせないためだった。
 だからわしが監視するために、お前を地下の部屋に居させた。
 そして、お前をどう説得しよう、どう解らせよう、そんなことばかりを考えてきたが、この老いぼれにはできず、何もしてやれなかった―。
 きつと、心の何処かでお前が、復讐してくれることを望んでいたのかもしれない。
 悪かった。わしが気づくのが遅かったんだ。全てのことに対して・・・・・・」

 義信のワナワナと震える背中。

 必死に耐えながら、その老人の話しに耳を傾けていたが、ひっく、と蒸せると、自分のその感情を抑えることができず、瑠唯や浩太がいるのにも関わらず、最初は小さく、だがそれは段々と大きく、最後は大声で泣くようになっていた。

 溢れ出る涙を掌で拭うと、子供みたいに、無邪気に、わき目も振らずに泣きじゃくった。
 まるで幼少の頃、いつも母親の胸で泣いていたあの日のように。その残像が甦ってくると、更にオイオイと泣いた。 

「どんな動機があろうとも、人を殺めることはあってはならんのだ。許してくれ、こんな方法でしか、生きられなかったわしのことを。もう、俺の背中を見なくていいんだぞ・・・・・・」

 老人も泣き崩れた。背中を震わす義信にしっかと抱きつき。それは、まるですがっているようでもあった。

「結局、わしは、自分の人生を全て、孫に委ねるだけでしか、生きていくことができなかったんだな」

「じいさん、俺の胸の中にいる蠍が這いずり廻っていて、ひっく、そいつが毒を巻き散らして、もう、ひっく、どうにも苦しくて、気が狂いそうなんだ。助けてよ―」

 義信はそう叫んでから、ガクリと体を折った。

 その背中がいつまでも波打っていた。

「もう終わりにしよう。こんなことはなんの役にも立たん。だから、全てを警察に話すんだ。お互い、気づくのが遅かったんだ・・・・・・」

 出来ることなら・・・・・・そうしたい。

 でも、この中も外も警察が沢山いるし、俺を吊し上げようと待ち構えるマスコミだっている。
 
 もう、楽になりたいんだ、楽に。静かな所で、ひっそりとしたい。今の俺は、ただ、そうしたいだけなんだよ・・・・・・。

 項垂れた義信は、左手に一枚の名刺を握っていた。そして、それを翳した。

「何だ、それは?」
 老人は、その名刺を手にした。

「警察には俺の気持ちが伝わるとは、思えない。だから、この人に、間に入ってもらいたいんだ」
 義信は言った。

「わかった」
 老人の目には、光るものがあった。

「結局、ぼくにはできなかったよ、じいさん。ぼ、ぼくは、もう、追われる、ことに、疲れたんだ。
 もう、ほとほと嫌になったよ」
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