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50.帝王切開*
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ストルムさんから帝王切開の承諾が得られたその時、待ちに待った援軍が到着した。ユラさんとベサミさん、そして大きな鞄を携えたマズバル師とミカさんだ。ストルムさんに簡単に紹介してから、準備に入ることとなった。
「ではストルムさん、準備を始めます。誰かお家の方を呼んで再度ご説明しましょうか?」
「いえ、それにはおよびませぬ。この家のただいまの家長は私ですので。しかし、そうですね……もしや、マンドルガ辺境総督様もいらっしゃっておいでですか?」
「はい、別室にてお待ちいただいております」
「それならば、総督様と我が家の家令に話しておきたいことがございますので、お呼びいただけますか?これは、ライナ様を信用していないというわけではありません。家長として、家の采配をしておかなければなりませんので」
命の危険に晒されているというのに、聡明な瞳には一点の曇りもない。なんと傑出した女性だろう。ロワさんと家令を呼んだのは、きっと遺言を遺すためだろう。私はそれが不要になるように、頑張らなくては。
ストルムさんが、ロワさんと家令さんと静かに話しているうちに、私は集まった面々に今までの経緯と今後の方針を説明した。やはり、帝王切開を行うと言うと、全員が動揺した。かのガガドナ大賢師ですら、腹部切開を行った症例は母親が全員死亡(縫合していないため)しているのだ。躊躇うのも無理はない。
「無理だ……このまま死なせてあげよう……腹部を切り裂くなんて、死を早めるだけだ」
「ミカさん落ち着いて、本当に何もしないと、ストルムさん親子の命は確実に危険です。責任は私が取ります。だからどうか力を貸してください」
目が虚ろなミカさんの腕を強く握り、私は力づけるように微笑んだ。ストルムさん親子の命の責任なんて私がとれるはずもない。大見得を切って失敗しても私の命では償えるはずもない。
でも、信じると言ってくれたストルムさんにどうにかして応えたい。
「こんな時です。責任なんて考えずに、命を救うことに専念しましょう。なんのために我々賢師が来たと思っているのですか? ミカよ、成すべきことをいたしなさい」
マズバル師が諭すように話すと、ミカさんは一度項垂れると、両手を握りもう一度顔を上げた。
「失礼しました。あまりの状況に動揺いたしました。私にできることがあれば全力で行います」
そういった彼の瞳には聡明な光が戻っていた。
方針が決まった我々は、手術を行うべく場を整え、滅菌器具を並べた。
役割は、私がストルムさんの右側に立って執刀し、マズバル師が反対の左側で執刀の介助にあたってもらう。そして、ミカさんはマズバル師の左に立ち、我々を補助してもらうことにした。
執刀者に器具を渡す役目はユラさんにお願いした。器具の名称はわからないだろうが、勘のいい彼女ならしっかり補助してくれるだろう。
ベサミさんとコズハさんは外回り(状況によってあらゆることに対処してもらう役割)をお願いした。ガーゼカウント(ガーゼや器具の数をカウントしないと、腹腔内に忘れて縫合してしまう危険がある)とストルムさんの全身状態の観察を念入りに行ってもらうよう説明した。
そしてユズルバさんだが、睡眠薬の影響で児は寝たまま出生する可能性が高いため、彼女には新生児蘇生の役割をお願いした。私が手が離せない場合、彼女が一番蘇生の知識を持っているからだ。
手術の準備と並行して、ストルムさんの準備も行なってもらった。下肢の拘束を解いて排泄を済ませてもらうと、簡単に身を清めてもらった。そして布で出来た産褥帯(産後用ナプキン。オムツの役割も果たす)をつけてもらい、その他は裸で手術台(頑丈な机の上にわた布団を一枚敷き、防水の布を被せたもの)に横になってもらう。そしてベサミさんによって膝下に弾性包帯を巻きつけてもらった。ふくらはぎの血管に血栓ができないようにあらかじめ締め付けておく必要があるのだ。血栓ができてしまえば、児が出生した後、下大静脈の圧迫が解除され、急激な血流によって血栓が肺や脳に飛んでしまう恐れがある。肺塞栓など大変恐ろしい合併症を防ぐために包帯を巻いたのだ。
部屋の温度にも留意した。手術中は低体温になりやすい。煙の出ない火鉢を、いくつか用意してもらって部屋を暖めた。さらに、術野を明るく照らすため、天井から吊り下げられた灯籠に光虫ハミを通常の二倍入れてもらった。太陽のような明るさだが、このくらいがちょうどいい。
そして、ストルムさんが呼び出した家令とロワさんは見届け人として部屋の隅で立っている。清潔野には絶対に触れないように説明すると、二人とも重々しく頷いた。
少し意外だったのだが、今回ロワさんは私に何も言わなかった。
ただ、着替えと手洗い(術前の手指消毒)に行く私の肩を、温かい両手で包むように元気付けてくれたのだった。
準備が整うと、ストルムさんにマズバル師が調合した麻酔薬と化膿止めを飲んでもらう。そして清潔な布で腹部が見えるように体を覆った。
経腹超音波など無いため、胎盤がどこにあるのかもわからない。通常の帝王切開すら実際にしたことなどないのに、前置胎盤の危険性がある方の執刀をしなければならないなんて……万が一癒着胎盤を合併していた場合、子宮全摘出術に移行しなければならないかもしれないが、それは私には無理だ。膀胱に癒着していたらどうしようなど、嫌な想像しか出てこない。
母子を救うという名目で、実力を伴わない処置をしようとしている。これは、本人の同意があったとしても、傷害罪になるのではないだろか。
心の中の闇が全身に広がり、視界までぼやけてくるようだ。
いいや!やると決めたからには、必ず救わなくては!
私の躊躇いなど、不要!
手指消毒を終えた両手を固く握り合わせ、私の中の勇気を奮い立たせた。
「ストルムさん」
「……」
ストルムさんからは返事が無く、イビキ様の呼吸をしはじめた。舌根が下がっているのだろう。コズハさんに合図すると、ストルムさんの顔を少し横に向けてくれた。そうすることで、イビキ様の呼吸は治った。切開予定部を鑷子でつまむが、ストルムさんに反応はない。完全に意識が無いことを確認すると、周りを見渡した。
「はじめます」
ここからは、時間との勝負だ。
まず視野確保(前置胎盤の場合、緊急処置が必要になるため)のため、正中縦切開(臍下を縦に筋層まで切開する)を行う。縦切開にしたもう一つの理由は横切開に比べて手技がやや簡便であり、初心者の私は迷わずこれを選択した。
生まれて初めて他人の体に傷をつける行為に、心の底から震えてくるが、丹田に力を込めて震えを治めた。今更震えている場合ではないからだ。
「コズハさん、ストルムさんの様子はどうですか?」
「穏やかに呼吸されています。苦悶様の表情はみられません」
麻酔薬の効果が心配だったが、これなら縫合まで持ちそうだ。
切り口は十一センチ程として、滅菌ガーゼで素早く血を拭う。
筋膜を用手で剥離しつつ、腸管や膀胱の挙上や癒着がないか確認する。
「マズバルさん、私と同じように剥離をお願いします」
彼は、大きな手を器用に動かして、私より上手に剥離していった。
よし、異常ないため、腹腔内に入る。膀胱子宮窩腹膜切開後、慎重に膀胱を下方に剥離していく。
胎盤による膀胱への癒着はなさそうだ。最悪の場合を回避でき、少しだけホッとした。
時間把握のため火を灯しておいたロウソクを見れば、開始後まだ十分といったところか……
先生達に比べれば遅すぎるけど、遅すぎるということもない。落ち着いてやっていこう。
つつーっと汗が額に流れてくる。髪は纏めてスカーフで覆っているが、流れる汗を止められない。
「ライナ様、汗を」
「ん、お願い」
ユラさんが、不潔にならないように汗を拭いてくれ て本当に助かった。清潔な服を着ているが、首から下は滝のような汗が流れている。
これから直接子宮に刃を入れていくわけだが、通常は子宮頸部を横切開するところを、子宮体部の縦切開(古典的縦切開)を行う。なぜならば、前置胎盤と予測はしたものの、胎盤の正確な位置がわからないからだ。
「マズバルさん、ミカさん、これから子宮を切開していきます。出血も格段に増えますので、視野確保のためしっかり血を拭って下さい。ガーゼはくれぐれも体内に置き去りにせず、決められた場所に置いて下さい。ユラさん使用済みガーゼは十枚ずつまとめておいて下さいね」
わたしが注意事項を話すと、皆真剣な表情で頷いていた。
さぁ、いよいよ子宮内に入って行くわけだが、切開創が胎盤にあたらないよう祈るしかない。
スーッと刃をあてていくと、筋層の奥から白い卵膜が見え始める。血液豊富な子宮筋層を切開しているため、鮮血が流れる。
胎盤は……よし、切開創にはかかっていない。
少し切ったところで、用手で切開創を児が通れるくらいに広げる。本当はクーパーがあれば後で縫いやすいように切開創を広げられるのだが、無いので必死に力を込めた。
「ここを広げるのですか」
そうだマズバルさんがいたんだ。
「そうです。赤ちゃんの頭が通れるくらいに広げてください。マズバルさんのように力のある方はそっとやって下さいね」
マズバルさんは真剣な表情で素早く切開創を拡大させてくれた。卵膜がぷくっと膨隆し、その中で胎児がもぞもぞ動くのを確認できた。
「破膜します。私が手を差し入れたら、マズバルさんは握り拳で子宮の底を鳩尾側から押してください。ミカさんは生まれたお子の臍帯を二箇所固く結んでください。できましたら、マズバルさんが、結んである真ん中を切断してあげてください。ユズルバさん、用意は? 」
「準備は出来ております」
「では清潔な布を持って、私の近くに来ていてください。蘇生は任せましたよ」
「はっ、はい」
周りの準備を確認して、卵膜を破った。途端に透明な羊水が流れ出す。
よかった、血性羊水や混濁が無くて……
私は切開創から子宮内に右手を挿入すると、児頭を探した。胎児は背を母体の左側に向けた第一胎向で、すぐに頭を探しあてることができた。そして、児頭を保持しつつ切開創から導き出す。
「マズバルさん、少しだけ押してください」
マズバル師の絶妙なアシストで児はヌルンと出てきた。臍帯巻絡は無く、肌色もピンクで状態はとても良い。後は啼いてもらえればいいのだが……
私が児を支えている間に、ミカさんとマズバル師で速やかに臍帯切断が行われた。児の顔を拭って背中を刺激すると、驚いたことに大声で啼泣し始めた。麻酔薬の影響はそんなに受けていないのだろうか?
児は、小さな手を握りしめて、必死に何かを求めるように啼いた。太陽のような明るさのため眩しくて目が開かないようだが、瞼を震わせて外の世界を知ろうとしている。
私の両手の中には、弾けんばかりの命が存在を主張していた。
「ストルムさん、立派な男の子ですよ。意識はなくともこの元気な産声、聞こえていますよね。なんておりこうさんなんでしょう。いい子」
ストルムさんは麻酔で眠っているが、声をかける。意識があろうがなかろうが、子の誕生を母親に一番に伝えたかった。
ユズルバさんに引き渡しながら背中を刺激し続けた。これほど強く啼泣していれば、後はユズルバさんにお任せしても大丈夫だろう。
「ユズルバさん、お願いしますね」
「はい」
「コズハさん、ストルムさんのご様子は?」
「呼吸は穏やかですが、脈はやや早いです。脈圧はしっかりしています」
急激な体液の流出により、頻脈になっているのだろう。血圧は今のところ保たれているが、下がってくるのも時間の問題だ。静脈からの持続点滴で循環血液量を増やせたらがいいのだが……
私にできるのは、速やかに手術を終了させることだけだ。
「さぁ、胎盤を出して縫いますよ!」
あんなに恐れていた癒着胎盤だったが、あっけなくするりと剥離できて心底ホッとした。ただ問題は、子宮収縮だ。陣痛も始まっていない中での帝王切開だったので、子宮は収縮するどころか弛緩してしまっている。元の世界ではここで子宮収縮剤を投与するのだが、それは無い。
胎盤が剥離した面から強出血が始まる。
みるみるうちに腹腔内に鮮血が溜まっていく。
やはりこの薬を使うしかないか。
マズバル師に子宮を前後で圧迫して止血してもらっている間に、手早く子宮筋層を縫い上げていく。手製の持針器でこれまた手製の湾曲した針を使用する。糸は絹糸を滅菌したものだ。今回は糸の異物性を低くするため筋層縫合を一層とし、連続縫合を行った。そして、最後の一針を閉じる前に、ミカさんによって例の止血剤が子宮腔に入れられた。
これで止血するといいのだが。
子宮筋層を縫い上げた私は、淡々と閉腹作業を続ける。マズバルさんとミカさんにはガーゼを使って腹腔内の血液除去をお願いした。不要な血液の貯留は感染源となるからだ。昔は手術で命が助かっても、術後の感染症で亡くなる方が多かった。本来なら生理食塩水を用いて腹腔内洗浄を行うが、生理食塩水の滅菌に不安があったためやめた。
正中縦切開の最後の結節縫合を止めると、鋏で糸を切る。綺麗に閉じた腹壁越しに、子宮収縮を確認する。
よし、子宮もちゃんと収縮して出血も止まった。
ようやくやりきった……
そう思った途端、視界が霞んで見えなくなった。あっ、と思った次の瞬間足台を踏み外し、後頭部から床に落ちていったように感じる。
まだ、意識を失うわけにはいかないのに!
赤ちゃんの元気な啼き声とロワさんの声が聞こえた気がした。
「ではストルムさん、準備を始めます。誰かお家の方を呼んで再度ご説明しましょうか?」
「いえ、それにはおよびませぬ。この家のただいまの家長は私ですので。しかし、そうですね……もしや、マンドルガ辺境総督様もいらっしゃっておいでですか?」
「はい、別室にてお待ちいただいております」
「それならば、総督様と我が家の家令に話しておきたいことがございますので、お呼びいただけますか?これは、ライナ様を信用していないというわけではありません。家長として、家の采配をしておかなければなりませんので」
命の危険に晒されているというのに、聡明な瞳には一点の曇りもない。なんと傑出した女性だろう。ロワさんと家令を呼んだのは、きっと遺言を遺すためだろう。私はそれが不要になるように、頑張らなくては。
ストルムさんが、ロワさんと家令さんと静かに話しているうちに、私は集まった面々に今までの経緯と今後の方針を説明した。やはり、帝王切開を行うと言うと、全員が動揺した。かのガガドナ大賢師ですら、腹部切開を行った症例は母親が全員死亡(縫合していないため)しているのだ。躊躇うのも無理はない。
「無理だ……このまま死なせてあげよう……腹部を切り裂くなんて、死を早めるだけだ」
「ミカさん落ち着いて、本当に何もしないと、ストルムさん親子の命は確実に危険です。責任は私が取ります。だからどうか力を貸してください」
目が虚ろなミカさんの腕を強く握り、私は力づけるように微笑んだ。ストルムさん親子の命の責任なんて私がとれるはずもない。大見得を切って失敗しても私の命では償えるはずもない。
でも、信じると言ってくれたストルムさんにどうにかして応えたい。
「こんな時です。責任なんて考えずに、命を救うことに専念しましょう。なんのために我々賢師が来たと思っているのですか? ミカよ、成すべきことをいたしなさい」
マズバル師が諭すように話すと、ミカさんは一度項垂れると、両手を握りもう一度顔を上げた。
「失礼しました。あまりの状況に動揺いたしました。私にできることがあれば全力で行います」
そういった彼の瞳には聡明な光が戻っていた。
方針が決まった我々は、手術を行うべく場を整え、滅菌器具を並べた。
役割は、私がストルムさんの右側に立って執刀し、マズバル師が反対の左側で執刀の介助にあたってもらう。そして、ミカさんはマズバル師の左に立ち、我々を補助してもらうことにした。
執刀者に器具を渡す役目はユラさんにお願いした。器具の名称はわからないだろうが、勘のいい彼女ならしっかり補助してくれるだろう。
ベサミさんとコズハさんは外回り(状況によってあらゆることに対処してもらう役割)をお願いした。ガーゼカウント(ガーゼや器具の数をカウントしないと、腹腔内に忘れて縫合してしまう危険がある)とストルムさんの全身状態の観察を念入りに行ってもらうよう説明した。
そしてユズルバさんだが、睡眠薬の影響で児は寝たまま出生する可能性が高いため、彼女には新生児蘇生の役割をお願いした。私が手が離せない場合、彼女が一番蘇生の知識を持っているからだ。
手術の準備と並行して、ストルムさんの準備も行なってもらった。下肢の拘束を解いて排泄を済ませてもらうと、簡単に身を清めてもらった。そして布で出来た産褥帯(産後用ナプキン。オムツの役割も果たす)をつけてもらい、その他は裸で手術台(頑丈な机の上にわた布団を一枚敷き、防水の布を被せたもの)に横になってもらう。そしてベサミさんによって膝下に弾性包帯を巻きつけてもらった。ふくらはぎの血管に血栓ができないようにあらかじめ締め付けておく必要があるのだ。血栓ができてしまえば、児が出生した後、下大静脈の圧迫が解除され、急激な血流によって血栓が肺や脳に飛んでしまう恐れがある。肺塞栓など大変恐ろしい合併症を防ぐために包帯を巻いたのだ。
部屋の温度にも留意した。手術中は低体温になりやすい。煙の出ない火鉢を、いくつか用意してもらって部屋を暖めた。さらに、術野を明るく照らすため、天井から吊り下げられた灯籠に光虫ハミを通常の二倍入れてもらった。太陽のような明るさだが、このくらいがちょうどいい。
そして、ストルムさんが呼び出した家令とロワさんは見届け人として部屋の隅で立っている。清潔野には絶対に触れないように説明すると、二人とも重々しく頷いた。
少し意外だったのだが、今回ロワさんは私に何も言わなかった。
ただ、着替えと手洗い(術前の手指消毒)に行く私の肩を、温かい両手で包むように元気付けてくれたのだった。
準備が整うと、ストルムさんにマズバル師が調合した麻酔薬と化膿止めを飲んでもらう。そして清潔な布で腹部が見えるように体を覆った。
経腹超音波など無いため、胎盤がどこにあるのかもわからない。通常の帝王切開すら実際にしたことなどないのに、前置胎盤の危険性がある方の執刀をしなければならないなんて……万が一癒着胎盤を合併していた場合、子宮全摘出術に移行しなければならないかもしれないが、それは私には無理だ。膀胱に癒着していたらどうしようなど、嫌な想像しか出てこない。
母子を救うという名目で、実力を伴わない処置をしようとしている。これは、本人の同意があったとしても、傷害罪になるのではないだろか。
心の中の闇が全身に広がり、視界までぼやけてくるようだ。
いいや!やると決めたからには、必ず救わなくては!
私の躊躇いなど、不要!
手指消毒を終えた両手を固く握り合わせ、私の中の勇気を奮い立たせた。
「ストルムさん」
「……」
ストルムさんからは返事が無く、イビキ様の呼吸をしはじめた。舌根が下がっているのだろう。コズハさんに合図すると、ストルムさんの顔を少し横に向けてくれた。そうすることで、イビキ様の呼吸は治った。切開予定部を鑷子でつまむが、ストルムさんに反応はない。完全に意識が無いことを確認すると、周りを見渡した。
「はじめます」
ここからは、時間との勝負だ。
まず視野確保(前置胎盤の場合、緊急処置が必要になるため)のため、正中縦切開(臍下を縦に筋層まで切開する)を行う。縦切開にしたもう一つの理由は横切開に比べて手技がやや簡便であり、初心者の私は迷わずこれを選択した。
生まれて初めて他人の体に傷をつける行為に、心の底から震えてくるが、丹田に力を込めて震えを治めた。今更震えている場合ではないからだ。
「コズハさん、ストルムさんの様子はどうですか?」
「穏やかに呼吸されています。苦悶様の表情はみられません」
麻酔薬の効果が心配だったが、これなら縫合まで持ちそうだ。
切り口は十一センチ程として、滅菌ガーゼで素早く血を拭う。
筋膜を用手で剥離しつつ、腸管や膀胱の挙上や癒着がないか確認する。
「マズバルさん、私と同じように剥離をお願いします」
彼は、大きな手を器用に動かして、私より上手に剥離していった。
よし、異常ないため、腹腔内に入る。膀胱子宮窩腹膜切開後、慎重に膀胱を下方に剥離していく。
胎盤による膀胱への癒着はなさそうだ。最悪の場合を回避でき、少しだけホッとした。
時間把握のため火を灯しておいたロウソクを見れば、開始後まだ十分といったところか……
先生達に比べれば遅すぎるけど、遅すぎるということもない。落ち着いてやっていこう。
つつーっと汗が額に流れてくる。髪は纏めてスカーフで覆っているが、流れる汗を止められない。
「ライナ様、汗を」
「ん、お願い」
ユラさんが、不潔にならないように汗を拭いてくれ て本当に助かった。清潔な服を着ているが、首から下は滝のような汗が流れている。
これから直接子宮に刃を入れていくわけだが、通常は子宮頸部を横切開するところを、子宮体部の縦切開(古典的縦切開)を行う。なぜならば、前置胎盤と予測はしたものの、胎盤の正確な位置がわからないからだ。
「マズバルさん、ミカさん、これから子宮を切開していきます。出血も格段に増えますので、視野確保のためしっかり血を拭って下さい。ガーゼはくれぐれも体内に置き去りにせず、決められた場所に置いて下さい。ユラさん使用済みガーゼは十枚ずつまとめておいて下さいね」
わたしが注意事項を話すと、皆真剣な表情で頷いていた。
さぁ、いよいよ子宮内に入って行くわけだが、切開創が胎盤にあたらないよう祈るしかない。
スーッと刃をあてていくと、筋層の奥から白い卵膜が見え始める。血液豊富な子宮筋層を切開しているため、鮮血が流れる。
胎盤は……よし、切開創にはかかっていない。
少し切ったところで、用手で切開創を児が通れるくらいに広げる。本当はクーパーがあれば後で縫いやすいように切開創を広げられるのだが、無いので必死に力を込めた。
「ここを広げるのですか」
そうだマズバルさんがいたんだ。
「そうです。赤ちゃんの頭が通れるくらいに広げてください。マズバルさんのように力のある方はそっとやって下さいね」
マズバルさんは真剣な表情で素早く切開創を拡大させてくれた。卵膜がぷくっと膨隆し、その中で胎児がもぞもぞ動くのを確認できた。
「破膜します。私が手を差し入れたら、マズバルさんは握り拳で子宮の底を鳩尾側から押してください。ミカさんは生まれたお子の臍帯を二箇所固く結んでください。できましたら、マズバルさんが、結んである真ん中を切断してあげてください。ユズルバさん、用意は? 」
「準備は出来ております」
「では清潔な布を持って、私の近くに来ていてください。蘇生は任せましたよ」
「はっ、はい」
周りの準備を確認して、卵膜を破った。途端に透明な羊水が流れ出す。
よかった、血性羊水や混濁が無くて……
私は切開創から子宮内に右手を挿入すると、児頭を探した。胎児は背を母体の左側に向けた第一胎向で、すぐに頭を探しあてることができた。そして、児頭を保持しつつ切開創から導き出す。
「マズバルさん、少しだけ押してください」
マズバル師の絶妙なアシストで児はヌルンと出てきた。臍帯巻絡は無く、肌色もピンクで状態はとても良い。後は啼いてもらえればいいのだが……
私が児を支えている間に、ミカさんとマズバル師で速やかに臍帯切断が行われた。児の顔を拭って背中を刺激すると、驚いたことに大声で啼泣し始めた。麻酔薬の影響はそんなに受けていないのだろうか?
児は、小さな手を握りしめて、必死に何かを求めるように啼いた。太陽のような明るさのため眩しくて目が開かないようだが、瞼を震わせて外の世界を知ろうとしている。
私の両手の中には、弾けんばかりの命が存在を主張していた。
「ストルムさん、立派な男の子ですよ。意識はなくともこの元気な産声、聞こえていますよね。なんておりこうさんなんでしょう。いい子」
ストルムさんは麻酔で眠っているが、声をかける。意識があろうがなかろうが、子の誕生を母親に一番に伝えたかった。
ユズルバさんに引き渡しながら背中を刺激し続けた。これほど強く啼泣していれば、後はユズルバさんにお任せしても大丈夫だろう。
「ユズルバさん、お願いしますね」
「はい」
「コズハさん、ストルムさんのご様子は?」
「呼吸は穏やかですが、脈はやや早いです。脈圧はしっかりしています」
急激な体液の流出により、頻脈になっているのだろう。血圧は今のところ保たれているが、下がってくるのも時間の問題だ。静脈からの持続点滴で循環血液量を増やせたらがいいのだが……
私にできるのは、速やかに手術を終了させることだけだ。
「さぁ、胎盤を出して縫いますよ!」
あんなに恐れていた癒着胎盤だったが、あっけなくするりと剥離できて心底ホッとした。ただ問題は、子宮収縮だ。陣痛も始まっていない中での帝王切開だったので、子宮は収縮するどころか弛緩してしまっている。元の世界ではここで子宮収縮剤を投与するのだが、それは無い。
胎盤が剥離した面から強出血が始まる。
みるみるうちに腹腔内に鮮血が溜まっていく。
やはりこの薬を使うしかないか。
マズバル師に子宮を前後で圧迫して止血してもらっている間に、手早く子宮筋層を縫い上げていく。手製の持針器でこれまた手製の湾曲した針を使用する。糸は絹糸を滅菌したものだ。今回は糸の異物性を低くするため筋層縫合を一層とし、連続縫合を行った。そして、最後の一針を閉じる前に、ミカさんによって例の止血剤が子宮腔に入れられた。
これで止血するといいのだが。
子宮筋層を縫い上げた私は、淡々と閉腹作業を続ける。マズバルさんとミカさんにはガーゼを使って腹腔内の血液除去をお願いした。不要な血液の貯留は感染源となるからだ。昔は手術で命が助かっても、術後の感染症で亡くなる方が多かった。本来なら生理食塩水を用いて腹腔内洗浄を行うが、生理食塩水の滅菌に不安があったためやめた。
正中縦切開の最後の結節縫合を止めると、鋏で糸を切る。綺麗に閉じた腹壁越しに、子宮収縮を確認する。
よし、子宮もちゃんと収縮して出血も止まった。
ようやくやりきった……
そう思った途端、視界が霞んで見えなくなった。あっ、と思った次の瞬間足台を踏み外し、後頭部から床に落ちていったように感じる。
まだ、意識を失うわけにはいかないのに!
赤ちゃんの元気な啼き声とロワさんの声が聞こえた気がした。
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派手な革命も、劇的な勝利もない。
あるのは、小さな揺れを整え続ける日々。
遠雷を読み、火種を消し、疑念に居場所を与え、
声なき拍手を聞き取る。
これは――
嵐を起こさなかった王と、
その隣で国家の均衡を保ち続けた妃の物語。
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