腕まくり助産師〜異世界の母子は私が守る!その前に自分の身も守らせて!〜

ミラクリッド零式

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67.暗緑色の羊水*

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「あっ、お水が……」

 ナトイさんの足元には、羊水と思われる水溜りができていた。そして肉眼でもわかるほど、暗緑色に混濁している。

 羊水混濁だ……

 羊水混濁とは、胎児が子宮内で低酸素のようなストレスに陥ると排便し、羊水が濁ることを指す。ただし、過期妊娠では、ストレス下に無くとも排便することもあるため、判断に注意が必要だ。しかしどちらにせよ、第一呼吸の際に胎便を吸引して起こるMAS(胎盤吸引症候群)となる可能性が高い。重症のMASともなれば、人工呼吸器や肺サーファクタント製剤等が治療に必要だ。

 今私にできることは、できるだけ胎児へのストレスを減らして速やかに娩出させることだ。五人の子供の出産歴があり、なおかつ子宮口が五センチ開大しているナトイさんなら、つるりと出産できるだろう。

「ナトイさん、間も無く強い陣痛が来ます。ユズルバさん、急いで出産の準備をしましょう。救護院の手の空いている方に、サノスさんを呼んでいただくのと、湯を沸かすようお願いしてください」

「お、お願いします」

 青い顔のナトイさんをベッドに誘導しようとすると、ベッドに顔を付けるように蹲ってしまった。

 もしかして、今まで座産だったのかな。

「ナトイさん、座ったままの方が産みやすいですか?」

 私の問いに、コクリと彼女は頷いた。

「わかりました。このままの姿勢でいいですよ。お洋服を整えて、周りを準備しますからね」

「ふーっ、ふーっ」

 ナトイさんの硬い表情は、この後くる激烈な陣痛の前兆だ。初産婦さんが十何時間もかけて開いていく産道を、ごく短時間で開かれるのだ。多産婦さんの陣痛は短いが、その痛みは想像を絶する。

 お母さんに着替えさせていただいている間に、もう一度トラウベ聴診器で児心音を確認する。

 トトトト ト ト ト ト ト ト

 と、子宮収縮に伴って児心音が徐脈となる。最も徐脈となった時点で七十回/分ほどで、軽度変動制一過性徐脈だと判断する。過期妊娠に見られる羊水過少にともなう臍帯圧迫による徐脈だろう。現在は自然回復も良好だが、破水していることからも、今後高度の徐脈が発生することが予測される。

 ナトイさんやお母さんは、ただ破水してお産になると考えているだけだろう。しかし、現状はとても厳しいものだ。元の世界ならば小児科医の立会いの元出産すべき事例だ。

 部屋に戻ってきたユズルバさんに、まず児の蘇生に必要な準備から始めてもらう。私はお母さんと一緒にナトイさんの準備を進めた。腹部の触診をしながら着替えをさせていると、子宮収縮は格段に強くなってきて、ナトイさんが呻き出す。内診はしていないが、もう子宮口が八センチほどだと想定する。すかさずトラウベで聴診すると、

 トトトト ト ト ト ト ト
 児心拍が、子宮収縮にともなって減少していく。六十回/分を切る高度変動制一過性徐脈だ。さらに、遷延徐脈も合わさり、これを放置すれば、胎児が危険だ。どうにか自然回復はしているが、早めに出産させなくてはならない。万が一、胎児が低酸素となり、アシドーシスを起こして産道の途中で喘ぎ呼吸をしてしまうと、胎便を吸引してしまう危険がある。

 その時扉が開いて、サノスさんと、救護院のスタッフが入ってきた。すでに手洗いは終えたのか、両手を握りあわせている。

「さて私は何をしましょうか」

 こういった殺伐とした時、穏やかな性格のサノスさんの存在は本当にありがたい。一分一秒も惜しい時だが、冷静さを欠いていては助けられる者も助けられない。

「もう、お産になります。サノスさんは赤ちゃんが生まれた後の処置をお願いします。六人目の出産なので、子宮収縮に注意をしてください。必要ならば双手圧迫法を行なってください。出血が治らない時は私をすぐお呼びください。保冷石は――」

「持って参りました」

 何も言わなくても保冷石を持参してきたユズルバさん、さすがです……

 一方、出産後の処置を任せたことで、胎児の異変に気がついたのか、サノスさんの顔が曇った。

「ナトイさん、陣痛によく耐えましたね。さぁ、お産になりますよ!自然に力が入ってしまうならそれでいいですよ。無理にいきもうとしないでくださいね」

 私は内心の焦りを面に出さず、にっこり笑いかけると、ナトイさんの左側に陣取り、お尻に被せた布の下で肛門保護をしながらそっと内診した。

 子宮口は、うん、八センチ。でも児頭の下りは順調だ。

 通常怒責いきみを開始するのは子宮口が十センチ開いてから行うが、五人出産経験のあるナトイさんにとってはあまり関係はない。実際、少しいきむだけで、子宮口は簡単に開いてしまった。

「ん゛ーー、はぁはぁ、ん゛ーー」

「ナトイさん、とても上手です。次で生まれますよ。いきみ方は今まで通りで大丈夫です。ただ、私が合図したら一旦いきむのを止めて、ハァハァハァと短く呼吸してください。最後までその調子でいきんでしまうと、赤ちゃんが飛び出してきてしまいますからね」

 座位産では怒責をかけやすく、早く産ませたい私としてはありがたい。ただ、凄いスピードで飛び出してくる児を上手くコントロールする必要があり、経験が浅いと裂傷などを引き起こしてしまうことがある。

「わ、私が、両手で受けても……?」

 荒い息の間で、ナトイさんが私を見た。今までの子も自分で受けてきたのだろう。座位での分娩は、産婦さんが自分で子を取り上げられる利点がある。まぁ、よほど肝の据わった冷静な方でないと難しいが。

「もちろんいいですよ。ただ、赤ちゃんの顔が出たら、赤ちゃんの口の中のお水を吸い取ります。こうしないと、後で苦しくなってしまう恐れがあるのです。私が合図したら、抱え上げてください」

 ナトイさんはコクっと頷くと、診察ベッドのヘリをぎゅっと握りしめた。胎児の娩出に備えて、ナトイさんの股の間に清潔な布を敷く。

 フゥフゥという息遣いを聴きながら、ナトイさんの腰をマッサージする。何人も出産している経産婦さんは、その経験から一番自分に適した呼吸法を知っている。特に問題がなければ、私は呼吸誘導は行わないで見守るだけだ。一段と深くなる呼吸に合わせて、肛門保護から会陰保護に切り替えた。

「ふぅーうぅぅ」

 一度目のいきみで、児頭が排臨(会陰から見え隠れする状態)した。頭頂部の皮膚色は紫色だ。

 もう、待てないか……

「ナトイさん、次の呼吸で産みましょう。一度はいてー、吸ってー、いきんでください!」

「ぐっぅぅ」

 ナトイさんの渾身のいきみでみるみる内に、児頭が恥骨下を滑脱して前額部が見えた。児が飛び出ないよう児頭を支えながら、ナトイさんに声をかける。

「はい、いきむのを止めて!ハァハァハァ」

 私の掛け声で短息呼吸に切り替えてもらっている内に、可及的速やかに蛇腹スポイトで、児の口腔内と鼻腔の吸引を行う。口腔と鼻腔の混濁した羊水を除去することで、胎便を吸い込まないようにするのだ。時間にして数秒だが、第一呼吸前にこの処置をするとしないとでは後に大きな差が出る。

「はい!ナトイさん、赤ちゃんを抱え上げてください」

 児を支える私の手に沿わせるように、ナトイさんの手を誘導して、一緒に児を引き出す。

 さすがは五人を出産されたお母さんだ。あれだけお腹の中で外に出るものか!と踏ん張っていた赤ちゃんも、つるんと娩出した。ただし、全身がチアノーゼで啼泣が見られない。筋緊張がまずまずなのが唯一の救いだ。体重は二千九百グラムほどだろうか。妊娠週数や種族的な平均からすると、とても小さな男の子だ。小顔だが、大きな目をまん丸見開いてキョロキョロしている。

「男……」

 ナトイさんがポツリともらす。

 本来ならこのまま母の胸に抱かせて一緒に過ごしてもらいたいところだが、児には蘇生が必要だ。

「ナトイさん、おめでとうございます。赤ちゃんが少し苦しいようなので、私が呼吸しやすいように処置しますね」

 話しながらテキパキと臍帯を結紮して切断する。ナトイさんの頷きを確認して児を受け取ると、すぐ近くに用意した蘇生用ベッドで蘇生をはじめる。

「サノスさん、ユズルバさん、ナトイさんをお願いします」

 気道確保した児の口腔内と鼻腔内をもう一度吸引すると、皮膚刺激をはじめる。臍帯の付け根をつまんで脈拍を確認する。脈拍は……百回/分以上ある。

 ほら赤ちゃん、お外に出ましたよ。

 もうお腹の中じゃないのよ、しっかり呼吸して!

 児に呼びかけるよう、背中をガーゼで刺激すると

「ゃー、ゃー」

 小さな小さな鳴き声が聞こえた。自発呼吸が始まって少しほっとするが、この弱い鳴き声では肺胞が十分膨らまない。虚脱した肺胞では十分な換気を行えず呼吸不全となってしまう。いまだ全身チアノーゼの状態もあり、人工呼吸が必要だ。すぐにマウストゥマウスで換気をはじめる。

 フゥー、フゥー、フゥー、

 両方の胸郭の上りも適切で、十分な換気が行われていると判断する。三十秒経って再評価を行う。

「やー、やー、ぎゃー、ぎゃー」

 啼泣は次第に強くなり、心拍数も百三十回/分を超えた。

 ナトイさんそっくりの紺色の瞳が時折見開かれる。啼泣しながら、ママを探すかのようなその仕草に胸が熱くなった。

「よく頑張ったね。今ママのところに連れて行くからね」

 私は児に声をかけながら、全身のチアノーゼが無くなるまで保温と刺激に徹した。

「ナトイさん、赤ちゃんは無事です。本当におめでとうこざいます!」

 私がナトイさんの方に向き直ると、ベッドに移動した彼女は胎盤を出し終えた後の診察中だった。出血は……ちらりとお股を見ると、それほど多くなさそうだ。

「ううっ、うっ、うっ、」

 ナトイさんは何故か号泣していた。その様子にただならぬ何かを感じて、赤ちゃんを布で包んで抱っこすると彼女の元へ近寄った。

「どうされました? 赤ちゃんはご無事ですよ。とても可愛い男の子です」

 私が男の子と言うと、鳴き声がより一層大きくなった。どうしたものかとお母さんを振り返ると、お母さんも涙を流しながら笑っていた。

「す、みません、ライナ様。男の子が生まれたのが嬉しくて。今までずっと女の子だったのです。それが、やっと、やっと……。ああ、なんて可愛らしい子なの!私の坊や……ママよ」

 ナトイさんは赤ちゃんを胸に抱かせると、再び号泣し始めてしまった。私は涙の訳を追求せず、赤ちゃんがずり落ちないようにナトイさんが落ち着くまで支えながら見守った。

「傷はなさそうですな」

 サノスさんの言葉にほっとした時、凄い勢いで扉が開いた。

「ここにうちの嫁が来てるって聞いたのだけど」

 そこには一人の老女が立っていた。

「おっ、お義母様……」


 一瞬にしてナトイさんの表情が強張り、赤ちゃんを抱く腕が小刻みに震え始めた。


 私は、招かざる客が来たのだと本能的に悟ったのだった。
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