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流人頭ズンドルジの失敗

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まるで無数の人々が立ち枯れて白骨となったような、白茶けた葉のない樹木が果てなく続く「いましめの森」を抜けると、急に視野が開ける。赤茶けた丘がそびえ立っている。丘の向こうに、切り取られたような空が小さく見えた。

「あの丘を越えたら、もう村の入り口ですだ」

丘を指さして、ズンドルジは言った。
 傍らを見やる。バロンバーに跨った若者がいた。
 金色の髪がやわらかな風になびく。透けるように白い頬にはわずかに赤みが差し、鼻梁は細く通っている。しっかりとした眼差しで、若者は丘を見つめていた。
 その瞳はたとえば誰も知らぬ神秘の湖沼のように、深い青いろをしている。だがその奥底に大きな悲しみを沈めているようにも見えた。
 この瞳を見た時から、ズンドルジは思っていた。

(このお方のお役の立ちたいものじゃ…… )

 なぜなら、その瞳は、ズンドルジがこの世界で最も尊敬する、あの方の瞳と同じだったからだ。
 バロンバーが低く嘶いた。ズンドルジはバロンバーの手綱をたぐった。バロンバーの顔に頬を寄せる。バロンバーの巨きな眼が潤んで、ひとしずくの涙がこぼれそうになる。その寸前、ズンドルジはぺろりと舌を出して、涙を舐めとった。

「旨いのか、ズンドルジよ」

 若者が興味深げに尋ねた。
 ズンドルジはバロンバーの長い首を撫でる。

「はい、ルクルム様。とても甘もうて、おいしゅうございます。われら流人村では、水は貴重ですゆえ、バロンバーの涙とて無駄にはできませぬ」

「そうか」

 ルクルムと呼ばれた若者は、正面を見る。手綱を持ったズンドルジが前をゆく。大きな岩やかけらばかりの荒地であった。
 バロンバーは王都にあっては背が低く、短脚でのろまな生き物であったが、ここでは違った。

その太く逞しい脚は、着実に岩場を捉え、進んでいく。
 ズンドルジは年に一度、流人村を下って王都へゆく。村人が集めた水晶などの貴石を売り、塩や布などの必需品に換え村へ戻る。それが流人頭としての務めであった。
 王都で野宿をしているとき、平民の少年たちに襲われ大切な塩を奪われそうになった。それを救ったのが、ルクルムであった。ルクルムは肩に差した長剣も抜かず、片手をひらりと動かしただけで、五人ばかりの少年たちを四、五十ピコファルトほどもすっと飛ばしてしまった。

 ズンドルジにはすぐ判った。ルクルムは剣士の法を使ったのだと。

 ルクルムは今年、聖剣士の叙任を受けたばかりだという。ズンドルジは仰天した。聖剣士といえば王の一族に近しく仕え、貴族階級の上位に属する。
本当なら流人のズンドルジなど、口をきくことはおろか、近づくこともできない。貴族は当然ながら高貴な名を持ち、その名のもつ「法力」によって、流人などは命すら奪われることもあるのだ。
 そのルクルムは実に意外なことを尋ねたのだ。

「――父を知らぬか? 」

 貴族であったルクルムの父は、彼がまだ名すら持たぬ幼児の時分に屋敷を出たきり戻らないのだという。父が出て行った理由は判らないが、不仲であった王宮のまじない師に呪をかけられそうになったのではないか、と。
 また、辺境の流人村で父を見た、との噂を聞いたのだ。
 ルクルムはそう語った。
 ズンドルジは若者の瞳を見た時、すべてを悟った。

(――ルクルム様は、あのお方のご子息に違いない)

 ある男がズンドルジの暮らす流人村にやってきたのは、十年ばかり前のことであった。 ファーリという名だった。ファーリは剣を教え、名の持つ法力について説いた。
 村の流人たちは法力を学び、それを生活に活かした。
 作物はよく実り、牝バロンバーは良く仔を産み乳を出した。流人村の生活はほんのわずかであったが、良くなった。
 ファーリは以来流人たちに慕われて、今も村に暮らしている。
 ズンドルジは、ファーリがなぜこの村に来たのかを尋ねたことがあった。

「わたしは、息子を捜す旅をしているのだよ。長い長い旅だ」

 深く青い瞳で、ファーリは遠くを見つめこう応えたのだ。
 ズンドルジはファーリのことをルクルムに伝えた。彼の青い瞳が輝きを増した。ただ、ファーリという名は知らぬという。
 だが恐らくは本当の名を使うことで法力が散り、あのまじない師に知られる可能性があるからだろう、と彼は言った。

 翌朝、ふたりは王都を後にした。王都からネネココ山脈の麓にあるズンドルジの村までは距離にして千五百グランファルトもある。
 今日はちょうど十日目であった。
 急な坂道で、バロンバーすら難渋した。低い呻きをあげる。するとルクルムがひらりとマントをひるがえして、バロンバーから降り立った。

「お足もとが危のうございます、ルクルム様。お乗りくだされ」

 ルクルムは優しげにほほ笑んだ。

「よいのだ。このバロンバーも私を乗せて、この坂を登るのはきつかろう。先にゆくぞ」

 そう言うとルクルムは、ひらりひらりとまるで飛ぶように坂を登っていった。どんな法力を使ったのか、ズンドルジには見当もつかない。

(このお方は、本当は千五百グランファルトなどひとっ飛びで走れるぐらいの凄い法力をお持ちなのではないか)

 ズンドルジはそんなことを思いながら、手綱を引きつつ後を追った。
 ようやく登りきると、さすがに息が切れた。この流人村は標高が高いため、空気も薄いのだ。
 ルクルムは、中空をじっと見つめていた。
 ズンドルジが見上げる。垂れこめた雲がそこだけきれいに吹き払われて、ぽっかりと開いた青空に銀色に輝く山の頂があった。まるで、虚空をさ迷う浮島のように見えた。

「あれがネネココ山脈でございます」

「そうか」

「このあたりではいつも雲が多ございまして、ああしてほんのいち部分だけでも見えるのは珍しいことでございます。ルクルム様はやはりお強い法力をお持ちだからでございましょう」

 ズンドルジはバロンバーの口に大切な塩をひとつまみ含ませて、旅の苦労をねぎらった。

「何十年かに一度、ほんの僅かな間ですが、雲が全部晴れて、ネネココ山脈の山裾まですべて見えることがあるそうです。言い伝えでは、それを見た者は、どんな願いでもかなうと」

「願いがかなうと」

「はい。……わたしもずいぶんと長くこの村に暮らしておりますが、まだ見たことはございません」

「おまえの願いは何だ? 」

「流人の願いといえば、知れたことで」

 ルクルムは小さく頷いた。「かなうとよいな」と言った。


その時だった。
 ルクルムがズンドルジを見た。その表情が一瞬して凍りついた。
いや違う。ルクルム様はわたしの後ろを見ていらっしゃるのだ。背後に何か、いるのだ。
 とたんに大風にでも吹き当てられたような衝撃をうけた。ズンドルジはあおりを食って、くるりと身体を廻しその場に崩れ落ちた。
 ひとりの男がいた。
 その男を、ズンドルジはゆっくりと見上げる格好となった。
 金色の髪、深く青い瞳があった。

「――ファーリ様」

 ふたりの男はじっと見つめあったまま、まるで岩にでもなったかのように動かなかった。
 ただならぬ気配がした。
 ファーリの指先がわずかに動いた。
 ズンドルジの身体が浮く。見えない力にひっぱられるように、すっと後ろに動いた。

「――ファーリ様、ルクルム様! これはいったい、どういうことなので」

 ズンドルジが叫んだ。そのとたん、ふたりが動いた。
 ルクルムが長剣を抜く。ファーリに身体ごとぶつかっていく。ファーリが手にしていた杖で受ける。そのままふたりは睨みあう。
 赤茶色の石つぶてがふたりの周囲に舞い上る。無数のそれらはゆっくりと回転する。やがて竜巻となり、ふたりの姿は見えなくなった。

「――ファーリ様、ルクルム様! 」

 剣と杖がぶつかりあう音が、幾たびかする。
 竜巻は、いまや天にも届きそうだ。稲妻が煌めいた。
 腰を抜かしたまま、ズンドルジは見つめている。

(――なぜなのだ、なぜおふたりは闘わなければならないのだ? )

 混乱した頭で考えたが、もちろん判るはずもない。
 地面が震れた。叫び声が聞こえる。それが声だと
 判るまで、少しの間が必要だった。
 大地のはるか奥底から湧きあがるような、叫び声。
 次の瞬間、何かが竜巻の中心から飛び出す。
 ズンドルジははっきりと見た。
 ルクルムだった。ルクルムは、なぜだか一瞬笑顔を見せ、目に見えない強い力に弾かれるように中空を飛ぶ。またたく間に、雲間へ消えていった。

(……どれだけ時間が経ったのか ) 

 ズンドルジは我にかえった。放心していたのだ。あたりは音もなく、静まりかえっていた。竜巻もなく、稲妻も消えた。
 バロンバーが嘶いた。
 男がひとり、蹲っている。

「ファーリ様! 」

 ズンドルジは、這うようにして近づいていく。男はゆっくりと顔を上げた。ズンドルジを見やる。その目は、いつもの慈愛に満ちたファーリのものだった。

「大事ないか、ズンドルジよ」

 それには応えずズンドルジはさらに居ざり寄った。
(いったい何が起きたのか? あのルクルムという若者はだれなのか? どこへ行ってしまったのか? )
 多くの問いが駆けめぐる。口にしようとするが、言葉にならない。

「――あのお方は、ルクルム様はご子息様ではないのですか? 」

 やっとのことで、それだけを言った。ファーリはゆっくりと口を開いた。

「息子だ。たったひとりのわが息子だ」

(ではなぜ? )

 という言葉をズンドルジは飲み込んだ。流人ごときが、おいそれと踏み込んではゆけぬ、そんな高貴な威厳に満ちた気配があった。

 ファーリは語りはじめた。

「わたしは王に仕える聖剣士であった。クゥーダマの法という、剣士の法を会得した、この世界でただひとりの剣士なのだ。
 無数にある剣士の法の中で、クゥーダマの法は最高位にある。どんな剣士もクゥーダマの法を会得した剣士を斃すことはできぬのだ。
 だがクゥーダマの法を会得するには、クゥーダマの法を持つ剣士を斃さねばならぬ」

(――ではどうやって、ファーリ様はどのようにしてクゥーダマの法を得たのございますか? )

 その問いを発しようとしたとたん、ファーリは短く頷いた。まるでズンドルジの心を読んだように、話し続けた。

「わたしが、あのルクルムほどの歳のころ、わが父を斃したのだ。わたしはそうしてクゥーダマの法を手にした。もうすでに千年以上も、クゥーダマの法はそうしてわが血統に受け継がれてきたのだよ」

 ズンドルジは言葉を失った。千年もの永きにわたり、子が父を殺し続ける。そんなことがあるのか? そんな酷いことが……。

「だが息子を得て、ルクルムが産まれてわたしは考えを変えた。クゥーダマの法を憎んだ。あの子に、わたしのような想いをさせたくはなかった。わたしは王宮を去り、身を隠した。クゥーダマの法を、わが生涯とともに永久に封印するつもりだったのだ」

 それを聞いた瞬間、ズンドルジは悟ったのだ。

(――おらは、とんでもねぇ失敗をした!)

 その想いに捕らわれると、もう止らなかった。
 身をひるがえし、ズンドルジはバロンバーへ駆け寄った。懐から護身用の短い剣を抜いた。

「ズンドルジ、やめるんだ! 」

 ファーリの声がする。ズンドルジはバロンバーの喉元に剣をあてがうと、一気に突き刺した。
 バロンバーの緑いろの血しぶきが散る。断末魔の嘶きをあげ、バロンバーはどうとばかりに倒れた。

「――何をするのだ、ズンドルジ」

 ファーリがズンドルジのすぐ後ろに立っている。
 バロンバーの脚が、小刻みに震えていた。
 流人の掟では、最大の謝罪は自らのバロンバーを殺し、相手にその肉を与えることだった。しかしバロンバーがいなくては畑を耕すこともできず、なにより寒い冬にバロンバーの分厚い毛皮と体温で暖まることもできない。

 この荒地でバロンバーを失うことは、死にも等しいことだった。
 ズンドルジはゆっくりと振り返った。そして蹲り、地面に額をこすりつけた。

「――申し訳ないことでございます。ファーリ様。これでどうかお許しくださいませ」

 ファーリはズンドルジの手を取って、立ち上がらせた。青い瞳が覗き込む。

「違うのだ、ズンドルジよ。わたしは怒ってなどいない。いつか言ったであろう。わたしは息子を探す旅の途中なのだと」

 ズンドルジはファーリを見上げる。慈愛に満ちた、穏やかな表情がそこにはあった。

「いつのころか、わたしは待つようになったのだよ。息子が、ルクルムがわたしを捜し出すのを。千年も続くクゥーダマの法を、わたしの勝手で絶やすことはできない。誰かに伝えるとすれば、それは息子しかいないのだ」

 ファーリはズンドルジの手を握った。

「おまえには感謝しているのだ、ズンドルジよ。よくぞ息子を、ルクルムを連れてきてくれた」

 ファーリは懐から金色に輝くまるい物を取り出した。それをズンドルジの手に握らせた。

「これは? 」

 三つの頭を持つ獅子が描かれている。何かの紋章のようだった。

「聖剣士のエンブレムだ。これを持って王都へ行き、かねに換えよ。そして平民の身分と良い名を買うがいい」

この世界では、名は最も尊いのもであった。よい名は大きな法力を持ち、その人の生涯を支配する。名を買うことは、運命を買うも同然だった。ズンドルジは罪に問われ流人となった時にもとの名を奪われ、流人の名を与えられたのだ。

「そのエンブレムにはわが名が刻まれている。その名を伝えれば、高く売れるだろう」

「あなたさまはいったい」

 ファーリは杖を振った。すると杖を見えたものは一瞬にして、見事な造りの長剣となった。

「わたしの名は、わが真実の名は、聖剣士クラインエッダ」

 その名を聞いたとたん、ズンドルジの身体を衝撃が貫いた。名の持つ力の途方もない大きさに、震えた。

(――何ということだ。おらは何という方と一緒にいたのだ)

クラインエッダの名は、王都の事情に疎いズンドルジでも知っていた。十万人はいる聖剣士の筆頭だった。伝説の聖剣士だ。

「さあ、行くがよい」

クラインエッダはいつの間にか、みすぼらしい流人の格好から、美しい聖剣士のいでたちとなっていた。

「急げ、ズンドルジよ。もうじき息子が、ルクルムが戻ってくる。ここにいては危ない」

 クラインエッダはふわりと身体を宙に浮かせると、瞬く間に天高く昇っていった。

「さらばだ、ズンドルジよ」

 その姿は、やがて雲間に消えていった。
 ズンドルジはしばし呆けたようにその場に立ちつくしていた。そこにはファーリもルクルムもいない。夢を見ていたのだろうか?

だが、手には金色のエンブレムがあった。

 夢ではないのだ、と思った瞬間に涙があふれた。
 ふと、かえりみてズンドルジは息を飲んだ。

 立ち込めていた雲がきれいに晴れて、ネネココ山脈がその山裾までが見えていた。

「かなうとよいな」と言ったルクルムの優しげな表情が浮かんだ。すると、これから殺し合いをしなければならない父子の悲しい定めを思った。

 ズンドルジは声をあげて、泣いた。

               (了)
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