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その3
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それから夏が過ぎ、秋も深まり木枯らしが吹くようになったころ、信長は清洲城の奥御殿に籠もっていた。
もう三月ばかりもそうしている。
清洲の織田上総介重篤の報は喇叭どもによって国内に撒き散らされた。その虚をついて、清洲に攻めかかるような敵対勢力はいまのところ尾張国内には存在しない。
七月には岩倉城の西、尾張浮野(愛知県一宮市)において犬山城主織田信清の援軍を得て信長勢三千は織田信賢の軍勢同じく三千を迎え撃った。
結果は信長勢の圧勝であった。清洲での首実検では、その数千二百五十級に上ったという。岩倉勢はたった一日の戦さでその半数近い者どもが討ち取られたことになる。
信賢は岩倉城に逃げのびたが、信長は深追いせずに兵を引いた。
信長は勝ちに驕った無理な追撃はしない。大きな打撃を加えた後、熟柿が落ちるように敵が内部崩壊するのを待つのである。これは信長がその生涯を通じて一貫した戦略で、たとえば設楽が原(愛知県新城市)の戦さにおいて武田勢を完膚なきまでに打ち破ったにもかかわらず、余勢を駆って一気に甲斐へ侵入しようとする重臣どもの進言を聞かずに兵を引いている。
その後、武田家という熟柿が落ちるまで、信長は七年を過ごしている。
岩倉の信賢には当面軍勢を起こすだけの力は残ってはいない。だが、そうのんびり構えてもいられない事情が信長にはあった。
駿河・遠江・三河を分国とする今川治部大輔義元の動きであった。義元は尾張東部にも力を扶植しつつあり、また隣国の武田、北条とも同盟し、その視野が西を向いていることは明らかであった。
岩倉は早急に押し潰し、尾張一国を平定する必要があった。
だがその前に、なさねばならぬことが残っていたのである。
「――承知つかまつりました」
滝川久助が一礼をし、主人の御前を辞そうとする、その背中に信長は言った。
「久助、そう言えばそなた儂にねだりごとをすると言うておったのう」
清洲城奥御殿にある城主の寝所である。延べた夜具の上で信長は白絹の夜着を纏い、あぐらを組んで座っている。三月のあいだ、信長はこの寝所をほとんど出ていない。仮病であることを知るのは近習のみである。城内の者どもも信長重篤を信じている。いつもながら、やることが徹底しているのだ。
久助は俯いたまま、ゆっくり信長を返り見る。
「忘れまいた……。お屋形さまにはこの先さらにご身代を大きゅうしていただいて、いずれ国のひとつも頂戴しまする」
「国とな、それは大きゅう出たの」
信長は笑う。彼は景気のよいほら話が好きであった。
滝川一益は後に勝家、光秀、秀吉と並び織田家臣団の最高位である方面軍司令官とも言うべき地位を手にすることになる。その領国は北伊勢、上野、信濃の二郡に及んだ。
信長はゆっくりと頷く。目顔で、行くがよいと言った。
久助の姿は信長の視界から静かに消えてゆく。城外へ出る。暗い夜である。
夜空の一隅には眠り猫の目のように細い月がかかっていた。
清洲から末盛まで、常人であれば半日はかかる距離であるが、鍛練を積んだ忍者であれば一時半(三時間)もあれば十分であった。
真夜中である。
久助は末盛城の空堀を乗り越え、土塁をいもりのようにへばり付いて登る。土塀と土塁の境目の犬走りをはしった。警備の手薄なあたりをみはからって土塀を乗り越え曲輪の中へと侵入した。
久助は呼吸を浅くしている。からだの代謝を不活発にすることにより汗や体臭を防ぐのだ。夜間、曲輪には犬が放し飼いにされている。
闇の中を闇と一体になり、久助は進む。視野の端に神経を集中させる。闇でも視野の端はわずかな光りを捕らえることができるのだ。
二の丸の土塁に取り付く。一気に土塀を飛び越えて久助は二の丸の曲輪に侵入した。
勝家の寝所は二の丸にある。大まかな間取りは予め調べてあった。
久助は警護の間隙を突いて武者溜まりのあがり口から中へ入る。
気配を消し、影のようにすっと忍び入った。
すぐに梁へ昇る。梁を伝って奥へと進み、権六の寝所の襖の前に音もなく降り立つ。
襖を引く。身体を素早く入れ、後ろ手に襖を閉めた。
権六は寝首を掻かれるのを恐れるように、夜具を壁に沿って延べ横たわっている。だがその用心も無駄に思えるほど熟睡していた。しかも大酒を食らったのか、鼾もかいている。 閉ざされた蔀戸の透き間から、ほんのわずかな月光が差し込んでいる。
久助は滑るように権六に近づいていく。権六の顔を覗き込む位置まで来て、しゃがみこんだ。
権六は気づかない。
久助が揺り起こそうと夜着の襟に手をかけようしたその時、権六が大きな目をぎょろりと剥いた。
ほんの短い刹那、ふたりの男は目を見合わせた。
権六が夜具の下に忍ばせてあった打刀を鞘ごとぶん回す、と同時に久助が飛びのいた。
ほんのわずか久助が早かったため、彼は頭を割られずにすんだ。
権六の打刀の鞘には鉄鐶が嵌めてあり、頭に当たれば頭蓋が割れる。
「――ま、待て」
久助は手のひらを向けて制止する。大声は出せない。
権六は鞘を払い、抜き身をほぼ正眼に構えている。
「儂じゃ、滝川久助じゃよ」
権六は大目玉を剥き、久助を睨む。
と……次の瞬間権六は「はっ」という気合もろともに打刀を久助の脳天めがけて繰り出した。
間一髪、久助は逆に相手の間合いに飛び込んで権六の刀を躱した。ぶん、という刃風が久助の耳もとで聞こえた。
久助は権六の腕に取り付く。刀の切っ先が床板に食い込んで、抜けない。
「――信長さまの使いじゃ」
権六は歯を食いしばり、刀を抜こうとしている。それを押し戻そうとする久助、抜ければ、今度は斬られてしまう。
「嘘こけ、勘十郎さまの討っ手であろう」
「違うて。わからん奴やな、滝川や。何度か会うとるやろ」
「おのれ、儂の首に手をかけ絞め殺そうとしておったろうが」
「阿呆ぬかせ。おのれの素っ首掻っ斬るんやったらここへ入った途端にやっとるわ。儂ァ甲賀の忍びゆえ」
権六の手力が弱まる。
「……滝川久助か?」
「――そう言うとるやないか」
権六は顔を近づける。「よう見えんわ」と言った。
「――痛っ」
久助の頬に激痛が走る。権六がしたたかに抓ったのだ。
「はは、その面皮の厚さはまさしく滝川久助」
「何をするんや、おのれは」
権六は急に脱力したように、夜具の上にすとんと腰をおろした。
「そっちこそ何だ、こんな夜中に。驚いたわ」
「忍び仕事が昼間にできるかい」
権六は、はあと大きく息を吐いた。
「……ご舎弟さま逆心をお知らせしてからはや半年。そのままに合い変わらず出仕するようにとの申し付けの後、これまで何のご沙汰もなく、聞けば信長さまご重篤とのとこ……。儂はいつご舎弟さまに仕物に掛けられるかと、夜も寝られず」
おのれは大いびきで寝とったやろが、と言いかけて久助は思いとどまった。これ以上権六と揉めるとお役目に差し支えると思った。
このふたり、互いに嫌っている訳でもないが、どうも呼吸が合わない。
ふたりの偉大なる主人が本能寺に横死した後、権六と久助は連衡して羽柴秀吉と対峙するのだがやはり今ひとつ呼吸が合わず、結局それぞれ個別に料理されることになる。
「そのことよ。信長さまのお指図を伝える」
おお、と権六は大きな目玉をさらに大きくひん剥いた。
「信長さまのお指図とな……」
権六は信長と聞いて急に威儀を糺す。まるで坊主を拝む一向門徒のような意気込みである。
久助はもっともらしく頷いてみせる。
「明日、清洲より使者が参る。使者の口上はこうじゃ。――信長さまにあっては病篤く平癒の見込みも失せたゆえ、ついてはご家督をご舎弟勘十郎さまにお譲りする」
権六は髭だらけの口をあんぐりと開け、両の目玉が零れんばかり開かれる。
「――信長さまがご家督を……」
「話を最後まで聞きなされ。――お譲りするゆえ清洲までおいで願いたいと、これが使者の口上じゃ。だが疑い深い津々木やお袋さまがご舎弟を引き留めるであろう。これはご舎弟さまをおびき寄せる謀であろう、などと申してな」
権六は頷く。頷いてから、はっとしたように「謀なのか?では信長さまは?」と尋いた。
久助も頷く。
「ああ、お健やかにあらせられる」
権六は安堵の嘆息を漏らした。張っていた肩の力を抜くように「よかった……」と言った。
「さて、ここで権六どのの出番じゃ」
権六は「えっ?」というように久助を見やる。
「ご舎弟さまを清洲へ出向くよう説得申せ、というのが信長さまのご下命じゃ」
権六は小さく「あっ」と言った。久助を見やる。
「無理じゃ無理じゃ。勘十郎さまは儂の申すことなど聞く耳持たぬわ。説得できる道理がない」
久助の口元に笑みが浮かぶ。
「信長さまはそこまで見通しておられるわ。勘十郎さまが無理ならばお袋さまを清洲へ参られるよう説得申し上げよ、と申されておる。それならばできるであろう」
権六は土田御前の臈たけた白い面差しを頭に描いた。何度か首を縦に振る。
が、はっとして「まさかお袋さまを仕物に……」と言った。
「な、何ちゅうことを言うんじゃ。お袋さまを仕物にかけてどうする。まずお袋さまが信長さまを見舞われ、その後勘十郎さまをお袋さまがお呼びになればよい」
権六は頷いた。
「……しかし、信長さまはお健やかなのであろう、どうしてお袋さまの目を欺くのだ?」
「そこまでは知らぬ。信長さまにお考えがあるであろう。その後の指図は清洲で受ければよい」
「清洲で?儂も行くのか」
「権六どのが命に代えて守ると言えばお袋さまも安堵して参るであろう、と信長さまが申されていた」
足音がする。宿直の小姓が物音を聞き付けたのだろうか。
「――では確かに申し伝えましたぞ。これにて御免」
久助はすうっと闇の中へ溶けていった。
権六は夜具の上で胡座を組んで座っている。
足音が近づき、襖の前で止まった。権六付きの小姓のひとりであることは、足の運びで知れた。
「何じゃ!」
権六は襖越しに怒鳴った。
「――何やら人の声がしたようで」
「儂の寝言じゃ、下がれ」
小姓の足音が遠ざかっていく。
権六はしばし熟考して、ようやく事の重大さが飲み込めてきた。
これは主命なのだ……。
勘十郎かお袋さまを清洲へ連れていかねば、申し訳に死なねばならぬ。また、もし謀が勘十郎に露見するようなことがあれば、生きてこの城は出られまい。
もう三月ばかりもそうしている。
清洲の織田上総介重篤の報は喇叭どもによって国内に撒き散らされた。その虚をついて、清洲に攻めかかるような敵対勢力はいまのところ尾張国内には存在しない。
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結果は信長勢の圧勝であった。清洲での首実検では、その数千二百五十級に上ったという。岩倉勢はたった一日の戦さでその半数近い者どもが討ち取られたことになる。
信賢は岩倉城に逃げのびたが、信長は深追いせずに兵を引いた。
信長は勝ちに驕った無理な追撃はしない。大きな打撃を加えた後、熟柿が落ちるように敵が内部崩壊するのを待つのである。これは信長がその生涯を通じて一貫した戦略で、たとえば設楽が原(愛知県新城市)の戦さにおいて武田勢を完膚なきまでに打ち破ったにもかかわらず、余勢を駆って一気に甲斐へ侵入しようとする重臣どもの進言を聞かずに兵を引いている。
その後、武田家という熟柿が落ちるまで、信長は七年を過ごしている。
岩倉の信賢には当面軍勢を起こすだけの力は残ってはいない。だが、そうのんびり構えてもいられない事情が信長にはあった。
駿河・遠江・三河を分国とする今川治部大輔義元の動きであった。義元は尾張東部にも力を扶植しつつあり、また隣国の武田、北条とも同盟し、その視野が西を向いていることは明らかであった。
岩倉は早急に押し潰し、尾張一国を平定する必要があった。
だがその前に、なさねばならぬことが残っていたのである。
「――承知つかまつりました」
滝川久助が一礼をし、主人の御前を辞そうとする、その背中に信長は言った。
「久助、そう言えばそなた儂にねだりごとをすると言うておったのう」
清洲城奥御殿にある城主の寝所である。延べた夜具の上で信長は白絹の夜着を纏い、あぐらを組んで座っている。三月のあいだ、信長はこの寝所をほとんど出ていない。仮病であることを知るのは近習のみである。城内の者どもも信長重篤を信じている。いつもながら、やることが徹底しているのだ。
久助は俯いたまま、ゆっくり信長を返り見る。
「忘れまいた……。お屋形さまにはこの先さらにご身代を大きゅうしていただいて、いずれ国のひとつも頂戴しまする」
「国とな、それは大きゅう出たの」
信長は笑う。彼は景気のよいほら話が好きであった。
滝川一益は後に勝家、光秀、秀吉と並び織田家臣団の最高位である方面軍司令官とも言うべき地位を手にすることになる。その領国は北伊勢、上野、信濃の二郡に及んだ。
信長はゆっくりと頷く。目顔で、行くがよいと言った。
久助の姿は信長の視界から静かに消えてゆく。城外へ出る。暗い夜である。
夜空の一隅には眠り猫の目のように細い月がかかっていた。
清洲から末盛まで、常人であれば半日はかかる距離であるが、鍛練を積んだ忍者であれば一時半(三時間)もあれば十分であった。
真夜中である。
久助は末盛城の空堀を乗り越え、土塁をいもりのようにへばり付いて登る。土塀と土塁の境目の犬走りをはしった。警備の手薄なあたりをみはからって土塀を乗り越え曲輪の中へと侵入した。
久助は呼吸を浅くしている。からだの代謝を不活発にすることにより汗や体臭を防ぐのだ。夜間、曲輪には犬が放し飼いにされている。
闇の中を闇と一体になり、久助は進む。視野の端に神経を集中させる。闇でも視野の端はわずかな光りを捕らえることができるのだ。
二の丸の土塁に取り付く。一気に土塀を飛び越えて久助は二の丸の曲輪に侵入した。
勝家の寝所は二の丸にある。大まかな間取りは予め調べてあった。
久助は警護の間隙を突いて武者溜まりのあがり口から中へ入る。
気配を消し、影のようにすっと忍び入った。
すぐに梁へ昇る。梁を伝って奥へと進み、権六の寝所の襖の前に音もなく降り立つ。
襖を引く。身体を素早く入れ、後ろ手に襖を閉めた。
権六は寝首を掻かれるのを恐れるように、夜具を壁に沿って延べ横たわっている。だがその用心も無駄に思えるほど熟睡していた。しかも大酒を食らったのか、鼾もかいている。 閉ざされた蔀戸の透き間から、ほんのわずかな月光が差し込んでいる。
久助は滑るように権六に近づいていく。権六の顔を覗き込む位置まで来て、しゃがみこんだ。
権六は気づかない。
久助が揺り起こそうと夜着の襟に手をかけようしたその時、権六が大きな目をぎょろりと剥いた。
ほんの短い刹那、ふたりの男は目を見合わせた。
権六が夜具の下に忍ばせてあった打刀を鞘ごとぶん回す、と同時に久助が飛びのいた。
ほんのわずか久助が早かったため、彼は頭を割られずにすんだ。
権六の打刀の鞘には鉄鐶が嵌めてあり、頭に当たれば頭蓋が割れる。
「――ま、待て」
久助は手のひらを向けて制止する。大声は出せない。
権六は鞘を払い、抜き身をほぼ正眼に構えている。
「儂じゃ、滝川久助じゃよ」
権六は大目玉を剥き、久助を睨む。
と……次の瞬間権六は「はっ」という気合もろともに打刀を久助の脳天めがけて繰り出した。
間一髪、久助は逆に相手の間合いに飛び込んで権六の刀を躱した。ぶん、という刃風が久助の耳もとで聞こえた。
久助は権六の腕に取り付く。刀の切っ先が床板に食い込んで、抜けない。
「――信長さまの使いじゃ」
権六は歯を食いしばり、刀を抜こうとしている。それを押し戻そうとする久助、抜ければ、今度は斬られてしまう。
「嘘こけ、勘十郎さまの討っ手であろう」
「違うて。わからん奴やな、滝川や。何度か会うとるやろ」
「おのれ、儂の首に手をかけ絞め殺そうとしておったろうが」
「阿呆ぬかせ。おのれの素っ首掻っ斬るんやったらここへ入った途端にやっとるわ。儂ァ甲賀の忍びゆえ」
権六の手力が弱まる。
「……滝川久助か?」
「――そう言うとるやないか」
権六は顔を近づける。「よう見えんわ」と言った。
「――痛っ」
久助の頬に激痛が走る。権六がしたたかに抓ったのだ。
「はは、その面皮の厚さはまさしく滝川久助」
「何をするんや、おのれは」
権六は急に脱力したように、夜具の上にすとんと腰をおろした。
「そっちこそ何だ、こんな夜中に。驚いたわ」
「忍び仕事が昼間にできるかい」
権六は、はあと大きく息を吐いた。
「……ご舎弟さま逆心をお知らせしてからはや半年。そのままに合い変わらず出仕するようにとの申し付けの後、これまで何のご沙汰もなく、聞けば信長さまご重篤とのとこ……。儂はいつご舎弟さまに仕物に掛けられるかと、夜も寝られず」
おのれは大いびきで寝とったやろが、と言いかけて久助は思いとどまった。これ以上権六と揉めるとお役目に差し支えると思った。
このふたり、互いに嫌っている訳でもないが、どうも呼吸が合わない。
ふたりの偉大なる主人が本能寺に横死した後、権六と久助は連衡して羽柴秀吉と対峙するのだがやはり今ひとつ呼吸が合わず、結局それぞれ個別に料理されることになる。
「そのことよ。信長さまのお指図を伝える」
おお、と権六は大きな目玉をさらに大きくひん剥いた。
「信長さまのお指図とな……」
権六は信長と聞いて急に威儀を糺す。まるで坊主を拝む一向門徒のような意気込みである。
久助はもっともらしく頷いてみせる。
「明日、清洲より使者が参る。使者の口上はこうじゃ。――信長さまにあっては病篤く平癒の見込みも失せたゆえ、ついてはご家督をご舎弟勘十郎さまにお譲りする」
権六は髭だらけの口をあんぐりと開け、両の目玉が零れんばかり開かれる。
「――信長さまがご家督を……」
「話を最後まで聞きなされ。――お譲りするゆえ清洲までおいで願いたいと、これが使者の口上じゃ。だが疑い深い津々木やお袋さまがご舎弟を引き留めるであろう。これはご舎弟さまをおびき寄せる謀であろう、などと申してな」
権六は頷く。頷いてから、はっとしたように「謀なのか?では信長さまは?」と尋いた。
久助も頷く。
「ああ、お健やかにあらせられる」
権六は安堵の嘆息を漏らした。張っていた肩の力を抜くように「よかった……」と言った。
「さて、ここで権六どのの出番じゃ」
権六は「えっ?」というように久助を見やる。
「ご舎弟さまを清洲へ出向くよう説得申せ、というのが信長さまのご下命じゃ」
権六は小さく「あっ」と言った。久助を見やる。
「無理じゃ無理じゃ。勘十郎さまは儂の申すことなど聞く耳持たぬわ。説得できる道理がない」
久助の口元に笑みが浮かぶ。
「信長さまはそこまで見通しておられるわ。勘十郎さまが無理ならばお袋さまを清洲へ参られるよう説得申し上げよ、と申されておる。それならばできるであろう」
権六は土田御前の臈たけた白い面差しを頭に描いた。何度か首を縦に振る。
が、はっとして「まさかお袋さまを仕物に……」と言った。
「な、何ちゅうことを言うんじゃ。お袋さまを仕物にかけてどうする。まずお袋さまが信長さまを見舞われ、その後勘十郎さまをお袋さまがお呼びになればよい」
権六は頷いた。
「……しかし、信長さまはお健やかなのであろう、どうしてお袋さまの目を欺くのだ?」
「そこまでは知らぬ。信長さまにお考えがあるであろう。その後の指図は清洲で受ければよい」
「清洲で?儂も行くのか」
「権六どのが命に代えて守ると言えばお袋さまも安堵して参るであろう、と信長さまが申されていた」
足音がする。宿直の小姓が物音を聞き付けたのだろうか。
「――では確かに申し伝えましたぞ。これにて御免」
久助はすうっと闇の中へ溶けていった。
権六は夜具の上で胡座を組んで座っている。
足音が近づき、襖の前で止まった。権六付きの小姓のひとりであることは、足の運びで知れた。
「何じゃ!」
権六は襖越しに怒鳴った。
「――何やら人の声がしたようで」
「儂の寝言じゃ、下がれ」
小姓の足音が遠ざかっていく。
権六はしばし熟考して、ようやく事の重大さが飲み込めてきた。
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