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《白薔薇》の初恋
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「どうしても私、あの方が忘れられませんの」
庭園のガゼボで開いた昼下がりのお茶会で、私は兄上に切り出した。晴れ渡った庭には心地よい風が吹き、時折満開を迎えた薔薇の香りを運んでくるのだった。
意中の彼の姿を思い浮かべ、胸元で手をぎゅっと握りしめる。胸の奥では、恋の鼓動がしていた。思い出すだけで、顔が熱くなる程に想いは高まっていた。
兄上は交友関係も広く、社交界きっての情報通でもあった。彼のことを少しでも詳しく知りたくて、父上に切り出す前に事前に相談したのだ。
「ルイスお兄様、どうかお力になって下さらない?」
「とは言ってもな、イリーナ」
紅茶を一口飲み、ティーカップをソーサーに置いてから兄上は口を開いた。
「一応調べてはみるが、おそらく彼の家は代々軍人の家系だろう。質実剛健を良しとする、厳格な家に違いない。……私の言いたいことは分かるな?」
「……はい、お兄様」
我が国ヴェルイダでは長い歴史の中で、議会に所属する政治家と、王立軍に所属する軍人達は対立を繰り返してきた。過去には政治に不満を持った将校達がクーデターを起こしかけたこともある程に、両者の仲は険悪であった。その対立を収めるのが、今や王室の役目の一つともなっている。
国の民のために政治を行っているのだという政治家達の気持ちと、身を呈して国を守っているのだという軍人達の気持ちは、正に水と油である。
そして奇しくも、私達の家は代々政治家の家系なのであった。
軍人と政治家は異なるコミュニティを形成しており、好まれるものも全く違う。
例えば政治家は外見の華やかで話上手な女性を妻とするのを良しとするが、軍人は堅実で聡明な女性を妻とするのが良しとされる。
軍人は政治家の娘と結婚するのは稀で、軍人の娘、もしくは学者や医者の娘と結婚するのが通例なのだった。
「マナーや教養には自信がありますわ。もし足りなければ、もっと勉強するつもりですわ」
「ああ。頑張り屋なお前のことだ、そこは問題無いと思う。だがな、私はお前が華やかな生活から離れてしまうのが勿体無いと思わずにはいられないんだ」
兄上は、少しだけ悲しそうに笑った。
「社交界の《白薔薇》とすら呼ばれている、自慢の妹がな」
「それは……」
私は昔から、着飾るのが大好きだった。コーディネートも得意で、夜会で装いを褒められることもよくあることであった。それが嬉しくて、人が集まる機会があれば喜んで参加した。そして知らぬ間に、《黒薔薇》の令嬢と並ぶように《白薔薇》と呼ばれていたのである。
「イリーナ。今のお前は世のご令嬢が皆羨む程に、男から引く手数多だ。恋文だって花束だって沢山貰っただろう? お洒落と話が大好きなお前の性格を考えると、政治家の令息とかの方がお似合いなんじゃないか?」
華やかに着飾って、毎夜のように夜会に参加する。その生活は確かに楽しい。軍人の方々は、夜会や派手な服装をあまり好まないとも聞いた。彼の元へ嫁いだならば、今のままではいられないだろう。
けれども、この生活を捨てる覚悟はとっくに出来ていた。
「これからの苦労も何も、覚悟のうちですわ。彼を初めて見たあの日、これまで貰ったどんな恋文や花束よりも、胸がときめきましたの」
彼を初めて見たのは、遡ること三日前。我が国の独立記念日の式典に参加した時だった。
式典は途中まで問題なく進んだものの、女王陛下の広場でのスピーチが始まった際に事件は起こった。刃物を持った男が護衛を掻い潜り、女王に向かって襲いかかったのだ。
突然のことで、皆悲鳴をあげるばかりであった。しかし、一人だけ物怖じせず暴漢に立ち向かう人間がいた。
それが意中の彼、王立陸軍大尉のディートハルト様であった。
「女王陛下に危害を与えるなど断じて許さんぞ、愚か者めが」
男を取り押さえた後、彼はそう言い放ったのだった。
腹に響くような怒り声は、周りが水を打ったように静かになる程の迫力があった。遠目ながらに分かる恐ろしさに、私は呆気に取られて目を見開いた程だ。
けれども同時に、勇敢に立ち向かうその姿に惹き付けられていた。
着飾っている訳でもなく軍服を着ているだけなのに、私の目は彼に釘付けとなっていた。
背が高く鍛えられた身体付きは、頼もしいという言葉がぴったりであった。そして目深に被った軍帽の下には青みがかった黒髪が見えており、麗獣の毛並みを彷彿とさせた。
なんて素敵な人なのだろう。
そう思った後に私は気付いたのだ。これが所謂初恋であり、一目惚れなのだと。
「初恋は叶わないとは言いますけれども、どうしても私、諦められませんの」
顔が熱くなるのを感じて、私は両頬を手で挟み込んだ。きっと今の私は、赤面しているに違い無い。
「よし、そこまで言うなら分かった。初恋を応援しようじゃないか。なるべく彼の情報を集めてみよう。それから紹介できるように、ツテを探してみるよ。父上に言う前に、準備は万全にしないとね」
「ありがとう、大好きよお兄様……!!」
「何、可愛い妹のためさ」
こうして私は、心強い味方を手に入れたのである。
その後兄上の力添えもあり、縁談はすんなりと進んでいった。
彼と初顔合わせの前夜、私は気に入りのドレスとジュエリー、靴を身にまとい、最後に夜会へと参加した。皆に挨拶したら寂しがられたけれども、気持ちの区切りはできていた。
そして私は、晴れてディートハルト様……ディート様と夫婦として結ばれたのである。
ドレスもジュエリーも靴も全て義姉上に譲った。そして質素な嫁入り道具と無地のドレス数枚だけ持って、私は彼に嫁いだのである。
華やかな世界よ、さようなら。もうきっと、一生戻ることはないわ。
……と思っていた。しかし、その予想は外れることとなる。
庭園のガゼボで開いた昼下がりのお茶会で、私は兄上に切り出した。晴れ渡った庭には心地よい風が吹き、時折満開を迎えた薔薇の香りを運んでくるのだった。
意中の彼の姿を思い浮かべ、胸元で手をぎゅっと握りしめる。胸の奥では、恋の鼓動がしていた。思い出すだけで、顔が熱くなる程に想いは高まっていた。
兄上は交友関係も広く、社交界きっての情報通でもあった。彼のことを少しでも詳しく知りたくて、父上に切り出す前に事前に相談したのだ。
「ルイスお兄様、どうかお力になって下さらない?」
「とは言ってもな、イリーナ」
紅茶を一口飲み、ティーカップをソーサーに置いてから兄上は口を開いた。
「一応調べてはみるが、おそらく彼の家は代々軍人の家系だろう。質実剛健を良しとする、厳格な家に違いない。……私の言いたいことは分かるな?」
「……はい、お兄様」
我が国ヴェルイダでは長い歴史の中で、議会に所属する政治家と、王立軍に所属する軍人達は対立を繰り返してきた。過去には政治に不満を持った将校達がクーデターを起こしかけたこともある程に、両者の仲は険悪であった。その対立を収めるのが、今や王室の役目の一つともなっている。
国の民のために政治を行っているのだという政治家達の気持ちと、身を呈して国を守っているのだという軍人達の気持ちは、正に水と油である。
そして奇しくも、私達の家は代々政治家の家系なのであった。
軍人と政治家は異なるコミュニティを形成しており、好まれるものも全く違う。
例えば政治家は外見の華やかで話上手な女性を妻とするのを良しとするが、軍人は堅実で聡明な女性を妻とするのが良しとされる。
軍人は政治家の娘と結婚するのは稀で、軍人の娘、もしくは学者や医者の娘と結婚するのが通例なのだった。
「マナーや教養には自信がありますわ。もし足りなければ、もっと勉強するつもりですわ」
「ああ。頑張り屋なお前のことだ、そこは問題無いと思う。だがな、私はお前が華やかな生活から離れてしまうのが勿体無いと思わずにはいられないんだ」
兄上は、少しだけ悲しそうに笑った。
「社交界の《白薔薇》とすら呼ばれている、自慢の妹がな」
「それは……」
私は昔から、着飾るのが大好きだった。コーディネートも得意で、夜会で装いを褒められることもよくあることであった。それが嬉しくて、人が集まる機会があれば喜んで参加した。そして知らぬ間に、《黒薔薇》の令嬢と並ぶように《白薔薇》と呼ばれていたのである。
「イリーナ。今のお前は世のご令嬢が皆羨む程に、男から引く手数多だ。恋文だって花束だって沢山貰っただろう? お洒落と話が大好きなお前の性格を考えると、政治家の令息とかの方がお似合いなんじゃないか?」
華やかに着飾って、毎夜のように夜会に参加する。その生活は確かに楽しい。軍人の方々は、夜会や派手な服装をあまり好まないとも聞いた。彼の元へ嫁いだならば、今のままではいられないだろう。
けれども、この生活を捨てる覚悟はとっくに出来ていた。
「これからの苦労も何も、覚悟のうちですわ。彼を初めて見たあの日、これまで貰ったどんな恋文や花束よりも、胸がときめきましたの」
彼を初めて見たのは、遡ること三日前。我が国の独立記念日の式典に参加した時だった。
式典は途中まで問題なく進んだものの、女王陛下の広場でのスピーチが始まった際に事件は起こった。刃物を持った男が護衛を掻い潜り、女王に向かって襲いかかったのだ。
突然のことで、皆悲鳴をあげるばかりであった。しかし、一人だけ物怖じせず暴漢に立ち向かう人間がいた。
それが意中の彼、王立陸軍大尉のディートハルト様であった。
「女王陛下に危害を与えるなど断じて許さんぞ、愚か者めが」
男を取り押さえた後、彼はそう言い放ったのだった。
腹に響くような怒り声は、周りが水を打ったように静かになる程の迫力があった。遠目ながらに分かる恐ろしさに、私は呆気に取られて目を見開いた程だ。
けれども同時に、勇敢に立ち向かうその姿に惹き付けられていた。
着飾っている訳でもなく軍服を着ているだけなのに、私の目は彼に釘付けとなっていた。
背が高く鍛えられた身体付きは、頼もしいという言葉がぴったりであった。そして目深に被った軍帽の下には青みがかった黒髪が見えており、麗獣の毛並みを彷彿とさせた。
なんて素敵な人なのだろう。
そう思った後に私は気付いたのだ。これが所謂初恋であり、一目惚れなのだと。
「初恋は叶わないとは言いますけれども、どうしても私、諦められませんの」
顔が熱くなるのを感じて、私は両頬を手で挟み込んだ。きっと今の私は、赤面しているに違い無い。
「よし、そこまで言うなら分かった。初恋を応援しようじゃないか。なるべく彼の情報を集めてみよう。それから紹介できるように、ツテを探してみるよ。父上に言う前に、準備は万全にしないとね」
「ありがとう、大好きよお兄様……!!」
「何、可愛い妹のためさ」
こうして私は、心強い味方を手に入れたのである。
その後兄上の力添えもあり、縁談はすんなりと進んでいった。
彼と初顔合わせの前夜、私は気に入りのドレスとジュエリー、靴を身にまとい、最後に夜会へと参加した。皆に挨拶したら寂しがられたけれども、気持ちの区切りはできていた。
そして私は、晴れてディートハルト様……ディート様と夫婦として結ばれたのである。
ドレスもジュエリーも靴も全て義姉上に譲った。そして質素な嫁入り道具と無地のドレス数枚だけ持って、私は彼に嫁いだのである。
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