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小話「聖女になると決めた日」
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その日の夜。いつものように私は、泣き疲れて眠っていた。
アヴラムが離婚に応じないため結婚生活は続き、心も身体も疲れきっていた。実家に助けを求める気力もとうに失せており、当時の私は最早生きる屍も同然であった。
夜に泣きながら彼と身体を重ねるだけで、夫婦の会話もほとんど無くなっていた。
二人の間にあるのは、肉体関係という酷く冷えきった繋がりのみ。それが無くなってしまえば、被害者と加害者である他無かった。許されるのであれば、死んでしまいたいとすら考える日々が続いていたのである。
ふと目を覚ますと、真夜中にも関わらず教会の鐘の音がけたたましく鳴り響いていることに気付いた。
窓から外を覗くと、遠くで火と煙が上がっているのが見えた。どうやら近所で火事が起こり、それを知らせるために鐘が鳴らされているらしい。
眠い目を擦りながらぼんやりとその光景を見つめていると、急に後ろから手を引っ張られたのである。
「きゃ!?」
勢い良く手を引かれ、そのままアヴラムの腕の中へ囚われる。いつものように強引に犯されるのだと思い、私はぎゅっと目を瞑った。
しかし、彼が私に手を出すことは無かった。
「……?」
恐る恐る目を開くと、アヴラムは今までに無い程私を強く抱き締めていた。暗くてその表情はよく分からない。しかし、その身体は怯えたように震えていた。
それは、見たことの無い彼の姿であった。
「……もう聞きたくない」
「え……?」
「鐘の音なんて、もう聞きたくない」
うわ言のように、アヴラムは何度もそう繰り返した。
起きているのか寝言なのか、私に向けて言ってるのか、独り言なのかを確かめる術は無い。けれどもその言葉には明確に拒絶の意思が滲んでおり、ある種悲鳴にも聞こえた。
そこで私はようやく理解した。私は彼に壊されたが、彼もまた壊され傷付けられた存在なのだと。
「鐘の音を、聞きたくないのですね」
「……ああ、そうだ」
受け止めるように応えを返すと、意外にも彼は返答してきたのだった。
「それは……どうしてですか?」
言葉を引き出すように、私はアヴラムに問いかけた。すると彼は、ぽつりぽつりと思いを口にし始めた。
戦時中、戦争で命を落とした人々を弔うための鐘が毎日のようにどの街でも鳴っていたこと。
その鐘の音を聞きながら、棺に入れられた父親を見送らねばならなかったこと。
自分が寝てる間に友人が帰らぬ人となったこと。
それから眠るのが怖くなったこと。
そして二人以外にも、近しい人を何人も失ったこと。
それらは、私が能天気に生活している間にこの国で起きていた悲劇であった。私が結婚に夢見ていた時、彼は暗い淀みの中に居たのである。
結婚して舞い上がって、私は彼のこれまでのことを何一つ知ろうとしていなかった。私はようやく、今までの自分の愚かさに気付いたのである。
「……アヴラム様」
彼に壊された日ぶりに、私は夫の名を呼んだ。自然と口から出てきたという方が正しいかもしれない。
「今も、怖いですよね」
''怖かった''と過去形にせず、私は静かに言った。何故なら終戦しても、彼の苦しみは今も続いているのだから。それを理解しているという、私なりの意思表示であった。
「ああ、怖い。ずっとずっとだ」
「じゃあ、今夜はくっついて寝ましょうか」
闇から救い出すなどと大それたことは出来ない。けれども寄り添うことは出来るはずだと考え、私はそう言った。突っぱねられるかと思いきや、アヴラムは何も言わなかった。
壊されたからといって、誰かを壊して良い理由にはならない。けれどもその晩の出来事を境に、彼に対して恐怖意外の感情が芽生え始めていたのだった。
+
「お仕事、お疲れ様でした」
「ああ」
寝る準備をしてベッドで待っていると、仕事を終えたアヴラムがやって来た。そして私を抱き締め、倒れ込むようにシーツの上に組み敷いたのである。
こうして抱き合うのは昨夜ぶりではなく、午後の昼寝ぶりである。
アヴラムが昼寝をする際に添い寝するためだけに、私は彼の職場を訪れるのが日課となっていた。それにより、他の女の香りを嗅ぐことは一切無くなった。何故なら、彼が腕の中に抱き入れるのは、もう私だけなのだから。
「ん……」
口付けを交わし、舌が絡められる。ほんの少しだけ、先程飲んだハーブティーの味が残っているのを感じた。しかしそれは、私も同じ。お互い様だろう。
「……カトリーナ」
「はい、アヴラム様」
心の底から求めるように、彼は私の名前を呼ぶ。そして、私は笑顔で名を呼び返す。すると何を言うでもなく、アヴラムは私の胸元に顔を埋めたのだった。
私達夫婦の関係が異常であると察したのか、両親と兄上から離婚を勧められたこともある。しかし、それは自分の意思ではっきり断っている。
目の前の男を、放ってはおけなかったのだ。
これは慈愛などという温かく柔らかな感情ではないのかもしれない。むしろ、独占欲や依存心と言った良からぬ感情であるかもしれない。
しかし、結果的に私が尽くすことでアヴラムの救いになっていることも事実だ。彼からすれば私の行動は''慈愛に満ちた''ものであるに違いない。
離婚して自らの幸せを手に入れるのではなく、自分を傷付けた男の幸せのため寄り添うことを選んだことに、我ながら不思議に思うこともある。
けれども彼が自分だけを求め、自分だけに縋る度に私の心は満たされていくのだった。
我ながら、底意地の悪い女だ。
とはいえ、これまでのように性格や外見など表面的な意味ではなく、真の意味で《聖女》となれたのではないか。そんな気もしていた。
「カトリーナ、今日は疲れた。このまま眠らせてくれ」
「ふふ、勿論です。おやすみなさいませ、アヴラム様」
彼の髪を撫でながら、私は微笑んだ。
アヴラムが離婚に応じないため結婚生活は続き、心も身体も疲れきっていた。実家に助けを求める気力もとうに失せており、当時の私は最早生きる屍も同然であった。
夜に泣きながら彼と身体を重ねるだけで、夫婦の会話もほとんど無くなっていた。
二人の間にあるのは、肉体関係という酷く冷えきった繋がりのみ。それが無くなってしまえば、被害者と加害者である他無かった。許されるのであれば、死んでしまいたいとすら考える日々が続いていたのである。
ふと目を覚ますと、真夜中にも関わらず教会の鐘の音がけたたましく鳴り響いていることに気付いた。
窓から外を覗くと、遠くで火と煙が上がっているのが見えた。どうやら近所で火事が起こり、それを知らせるために鐘が鳴らされているらしい。
眠い目を擦りながらぼんやりとその光景を見つめていると、急に後ろから手を引っ張られたのである。
「きゃ!?」
勢い良く手を引かれ、そのままアヴラムの腕の中へ囚われる。いつものように強引に犯されるのだと思い、私はぎゅっと目を瞑った。
しかし、彼が私に手を出すことは無かった。
「……?」
恐る恐る目を開くと、アヴラムは今までに無い程私を強く抱き締めていた。暗くてその表情はよく分からない。しかし、その身体は怯えたように震えていた。
それは、見たことの無い彼の姿であった。
「……もう聞きたくない」
「え……?」
「鐘の音なんて、もう聞きたくない」
うわ言のように、アヴラムは何度もそう繰り返した。
起きているのか寝言なのか、私に向けて言ってるのか、独り言なのかを確かめる術は無い。けれどもその言葉には明確に拒絶の意思が滲んでおり、ある種悲鳴にも聞こえた。
そこで私はようやく理解した。私は彼に壊されたが、彼もまた壊され傷付けられた存在なのだと。
「鐘の音を、聞きたくないのですね」
「……ああ、そうだ」
受け止めるように応えを返すと、意外にも彼は返答してきたのだった。
「それは……どうしてですか?」
言葉を引き出すように、私はアヴラムに問いかけた。すると彼は、ぽつりぽつりと思いを口にし始めた。
戦時中、戦争で命を落とした人々を弔うための鐘が毎日のようにどの街でも鳴っていたこと。
その鐘の音を聞きながら、棺に入れられた父親を見送らねばならなかったこと。
自分が寝てる間に友人が帰らぬ人となったこと。
それから眠るのが怖くなったこと。
そして二人以外にも、近しい人を何人も失ったこと。
それらは、私が能天気に生活している間にこの国で起きていた悲劇であった。私が結婚に夢見ていた時、彼は暗い淀みの中に居たのである。
結婚して舞い上がって、私は彼のこれまでのことを何一つ知ろうとしていなかった。私はようやく、今までの自分の愚かさに気付いたのである。
「……アヴラム様」
彼に壊された日ぶりに、私は夫の名を呼んだ。自然と口から出てきたという方が正しいかもしれない。
「今も、怖いですよね」
''怖かった''と過去形にせず、私は静かに言った。何故なら終戦しても、彼の苦しみは今も続いているのだから。それを理解しているという、私なりの意思表示であった。
「ああ、怖い。ずっとずっとだ」
「じゃあ、今夜はくっついて寝ましょうか」
闇から救い出すなどと大それたことは出来ない。けれども寄り添うことは出来るはずだと考え、私はそう言った。突っぱねられるかと思いきや、アヴラムは何も言わなかった。
壊されたからといって、誰かを壊して良い理由にはならない。けれどもその晩の出来事を境に、彼に対して恐怖意外の感情が芽生え始めていたのだった。
+
「お仕事、お疲れ様でした」
「ああ」
寝る準備をしてベッドで待っていると、仕事を終えたアヴラムがやって来た。そして私を抱き締め、倒れ込むようにシーツの上に組み敷いたのである。
こうして抱き合うのは昨夜ぶりではなく、午後の昼寝ぶりである。
アヴラムが昼寝をする際に添い寝するためだけに、私は彼の職場を訪れるのが日課となっていた。それにより、他の女の香りを嗅ぐことは一切無くなった。何故なら、彼が腕の中に抱き入れるのは、もう私だけなのだから。
「ん……」
口付けを交わし、舌が絡められる。ほんの少しだけ、先程飲んだハーブティーの味が残っているのを感じた。しかしそれは、私も同じ。お互い様だろう。
「……カトリーナ」
「はい、アヴラム様」
心の底から求めるように、彼は私の名前を呼ぶ。そして、私は笑顔で名を呼び返す。すると何を言うでもなく、アヴラムは私の胸元に顔を埋めたのだった。
私達夫婦の関係が異常であると察したのか、両親と兄上から離婚を勧められたこともある。しかし、それは自分の意思ではっきり断っている。
目の前の男を、放ってはおけなかったのだ。
これは慈愛などという温かく柔らかな感情ではないのかもしれない。むしろ、独占欲や依存心と言った良からぬ感情であるかもしれない。
しかし、結果的に私が尽くすことでアヴラムの救いになっていることも事実だ。彼からすれば私の行動は''慈愛に満ちた''ものであるに違いない。
離婚して自らの幸せを手に入れるのではなく、自分を傷付けた男の幸せのため寄り添うことを選んだことに、我ながら不思議に思うこともある。
けれども彼が自分だけを求め、自分だけに縋る度に私の心は満たされていくのだった。
我ながら、底意地の悪い女だ。
とはいえ、これまでのように性格や外見など表面的な意味ではなく、真の意味で《聖女》となれたのではないか。そんな気もしていた。
「カトリーナ、今日は疲れた。このまま眠らせてくれ」
「ふふ、勿論です。おやすみなさいませ、アヴラム様」
彼の髪を撫でながら、私は微笑んだ。
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