佐城沙知はまだ恋を知らない

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佐城沙知はまだ恋を知らない

十話 『もう行っちゃうの?』

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 その日の放課後、僕はHRが終わるとすぐに教室を出て帰ろうとするが、ふと、沙知の様子が気になって彼女の席へと視線を向けた。

 沙知は僕の視線には気づいた様子もなく、教室を出て行くのが見えた。

 これから部活でも行くのだろうか。途中で体力が無くなって倒れてしまわないだろうか。そんなことを一瞬考えるが、今の僕と彼女は赤の他人同士だし、何の関係もない。

 彼女の後を追うこともなく、僕はそのまま教室を出ると、一人で下駄箱へと向かう。だが、僕の足は真っ直ぐ下駄箱へは向かわず、校内を無意味に徘徊していた。

 このまま真っ直ぐに家に帰ったところで自分のモヤモヤが晴れることは恐らくない。

 闇雲に歩いたところで何かが変わる訳じゃない。ただ何かしてないとずっと沙知のことが思い浮かんでしまう。
 だからせめて気持ちだけでも落ち着けようと、当てもなくフラフラと校内を歩くことしかできなかった。

 歩き始めてしばらく経った後、気付けば科学室に続く廊下まで来ていた。

「どうしてこんなところまで……」

 そう口にしながら、科学室に向かって歩く。

 我ながらバカらしいことしていると思う。

 沙知との繋がりも既に無いはずなのに、僕は思わず彼女を求めているのだ。そんな自分がとても惨めで滑稽にすら思えてしまう。

 しばらく暗い気持ちのまま歩くと、廊下で倒れている人影が目に入った。

「沙知……?」

 廊下に倒れ込んでいたのは紛れもない沙知本人であった。

 まさか自分の目の錯覚じゃないかと思ったが、何度瞬きをしてもそれは変わらなかった。

「ハア……ハア……」

 苦しそうな声を上げながらうつ伏せの状態で倒れている沙知に僕は思わず慌てて駆け寄って行く。

「沙知!! 大丈夫か!?」

 僕がそう声を掛けた瞬間、沙知の体がビクッと跳ね上がり、ゆっくりと顔を上げる。

「誰か……いるの?」

 僕と目が合うと、彼女は弱々しくそう尋ねてくる。

「ああ……ってそんなことよりも!!」

 僕は慌てて沙知の身体を起こすと、彼女の背中を支えた。

「あ~……うん大丈夫……いつものことだから」

 沙知は苦笑いしながら答えると、その場で自分の力だけで立ち上がるが足取りがかなりフラついていた。そんな彼女を僕は支えると廊下の壁まで運ぶことにした。

「ありがとう……え~と……」

 沙知は僕の顔を見ながら疑問符を浮かべる。彼女にしてみればもう僕は恋人ではなくただの他人だから。

「同じクラスの島田だよ」

 僕はそう答えると、沙知は納得した様子だった。

「あ~そうなんだ……クラスメイトの顔なんて殆ど覚えてないから分かんないや……」

 沙知はそう答えた後、辛そうにしながら呼吸を繰り返していた。僕は心配そうな顔で見ていると沙知は僕の視線に気づいたのか苦笑いしながら口を開いた。

「ああ……ごめんね? こんな姿見たら心配になるよね……」

「まあ……」

 沙知が苦しそうにしているのを見て、心配するなという方が無理な話だ。

「そんなことよりも保健室連れていこうか?」

「あ~……うん……お願い……」

「……ああ、分かった」

 僕は彼女の体を支えながら、彼女を保健室まで連れて行った。沙知の身体を支えながら歩いていると、彼女の苦しそうに息をする音が聞こえてくる。

 僕が前に沙知を助けたときはここまで酷い様子ではなかったと思う。

「失礼します」

 保健室の入り口に着くと、僕は扉を開けて中へと入る。中に入ると、保健の先生はちょうど留守だったのか誰もいなかった。僕は近くにあったベッドに彼女を横に寝かせると、彼女はふうっとため息をついた。

「ごめん……本当に迷惑かけちゃって……」

「いや気にしないでいいよ、それよりも先生呼んでくるよ」

 僕は沙知にそう伝えると、保健室を出て行こうとするが沙知から呼び止められた。

「え……もう行っちゃうの?」

「いや……ここにいてもすること無いし……」

「お願いだから……傍にいてよ」

 沙知は少し悲しそうな声で懇願するように言った。その表情を見て僕はしばらく悩んだ後、ため息をついて保健室の扉を閉めてベッドの横にある椅子へ座る。すると、彼女は少し安心したような表情を浮かべた。

「ありがとう……」

 僕は彼女のお礼の言葉を無言で受け取った後、しばらくの間沈黙が続いた。

 正直、今はあまり沙知とは関わりたくない。ただでさえ沙知のことを整理ができていないんだ。

 こんな状態で彼女と関わったら、未練がましく彼女と関わりを持とうとしてしまう気がする。

 ただこの状態の沙知を置いて帰るのはあまりに後味が悪い。だからこうして彼女の傍にいる。

 結局自分勝手な理由で中途半端に彼女に関わり続ける自分がつくづく嫌になる。

 そんなことを考えながらしばらく沈黙が続いた後、最初に口を開いたのは僕だった。

「そういえば沙々さんは? 一緒じゃないの?」

 沙知と一緒いるはずの沙々さんが居なかったことに疑問を抱いていると、彼女は小さな声で呟いた。

「ホントはお姉ちゃんに科学室まで連れていってもらう予定だったんだけど……あたしが勝手に一人で向かっちゃったんだよね」

 沙知は心底申し訳なさそうに答えていた。だが僕は、それを聞いてどこか違和感のようなものを感じていた。

「それはつまり……自力で科学室まで行こうとしたってこと?」

 僕がそう尋ねると、彼女はゆっくりと頷いた。でもそれはおかしな話だ。

 沙知は自分が体力が無いのは自覚している訳でわざわざ一人で彼女にとっては遠い教室まで歩こうとは思わないはずだ。

 僕は先ほどの違和感が気になり考え込んでいると、沙知はどこか不思議そうな表情を浮かべて口を開く。

「変だよね……けど、何かお姉ちゃんと一緒じゃなくても行けそうな気がしたの……」

「え……?」

 彼女の言葉がいまいち理解できずに困惑した表情浮かべていると、沙知はとても要領を得ない様子で話し始める。

「あ~……なんて言ったらいいんだろう……分からないけど、お姉ちゃんじゃない誰かと一緒に科学室に向かっている感覚になってた気がするの……」

 彼女はそう言い終えると、唸りながら頭を悩ませる。僕はその言葉で全てを理解した。

 恐らく沙知は無意識のうちに、僕と一緒に科学室に行くと思い、身体が動いたのだろう。

 沙知が僕のことを忘れていながらも、身体はそのことを覚えていた。なんて都合の良い解釈が頭に過る。

「そっか……けど、沙々さんと行く予定だったのなら、沙知が教室に居なくて心配してるんじゃないか?」

「そうだね……ちょっと連絡してみる……」

 彼女はそう言うと、カバンからスマホを取り出して沙々さんに連絡を取り始めた。

 彼女の通話を隣で聞いていると、沙々さんがすごい剣幕で怒っているのが電話越しでも感じられた。

「お姉ちゃん……怖い」

 沙知は泣きそうな顔でそう言った後、静かに電話を切ると深いため息をついた。

 そんな沙知の様子を見て、思わず僕は苦笑してしまう。

「怒るのは当たり前だよ……病弱な妹がもしかしたらって思えば普通心配になるよ」

「うん……そうだね……」

 沙知は力なくそう呟くと、少し表情を曇らせた。僕はそんな表情の沙知を見ていると、とても胸が締め付けられた。

 いつもはうるさいくらい元気にはしゃいでいた彼女が本当は思っていた以上に身体が弱い。

 そんな事実を実感してしまい、僕は彼女に対してどうすればいいのか分からなくなっていった。

 もし、もう一度沙知と恋人同士になれたとして、彼女とできることはあまりにも少ない。

 むしろ苦労することのほうが圧倒的に多いだろう。

 このまま沙々さんの言う通り沙知とはもう恋人同士にならないほうが僕のためなのかもしれない。

 とても自分勝手な理由だけど、彼女との関わりをここできっぱりと断ち切った方がいいのかもしれない。

「ねえ……」

 沙知がとても小さな声で急に僕を呼ぶと、弱々しい表情で僕のことを見つめる。

「お姉ちゃんが来るまで……もうちょっとだけ……そばにいてくれない……?」

 沙知は縋るようにそうお願いすると、僕の服の裾を力なく摘まんでいた。僕はそんな沙知の姿を見て、断ることはできなくなっていた。

「……いいよ」

 僕は少し考えた後そう答えた。沙知はそんな僕の返事に安心したように笑う。

「ありがとう……」

 彼女が弱々しく笑うと、僕はさっき以上に胸が締め付けられてしまい、僕は彼女の視線から目をそらす。

 僕が顔を逸らして窓の景色に視線を向けると、空はどんよりとした雲に覆われていて暗くなり始めていた。きっと今日は晴れることはないだろう。

「ごめんね、知らない相手の頼みごとなんて……ちょっとナーバスになっているから……誰と一緒に居たくて……」

 そんな僕に対して沙知は辛そうにしながらも申し訳なさそうに謝ってくる。

「いや……気にしないでいいよ……一応……クラスメイトだし……」

 僕が少し口ごもって答える。本当は君の彼氏だからって言いたかったけど、今は恋人同士でもないただのクラスメイトだ。だから僕は曖昧に答えた。

「そっか……クラスメイトだったっけ……なら今とテンションのギャップがありすぎて、びっくりさせたかもね……」

 沙知は苦笑を浮かべていた。

「体調が悪いんだから仕方ないよ……」

「そうだけど……クラスだとあたし結構……ウザいというかうるさいでしょ……だからクラスメイトは結構嫌がってると思うんだけど……」

 沙知は少し寂しそう呟いた。確かに普段の彼女と比べたらだいぶ大人しくなったなと感じていた。

「別に僕はそんな風に思ってないよ」

 僕が答えると、沙知は意外そうな表情を浮かべた。

「そうなんだ……変わってるね……」

「そうかな?」

 沙知の返答に僕は思わず首を傾げる。そんな僕を見た彼女は軽く笑った後、口を開いた。

「そうだよ……あたしって見た目は男の子好みだけど、この性格だから変な子ってよく思われてるんだ」

「まあ……見た目は置いておいて、確かに元気だなとは思うけど……」

「でしょ……だからクラスでも浮くのは当然だし……だからクラスメイトからは嫌われてる自覚はある……」

 沙知は僕の言葉に同意すると、悲しそうに笑った。

「それに嫌われてなくても……あたし身体弱いから……友だちと遊びに行くことなんてできないし……」

 沙知はそう答えた後、窓の外へ視線を向ける。まるで外の世界へ羨望の眼差しを向けるように。

「もし、身体が弱くなかったら佐城さんは何がしたい?」

 思わず僕は空を見上げている沙知にそう尋ねてしまう。

 そんな質問に対して沙知は何か思い浮かべるようにしばらく思案していた。

「そうだね……動物園に、水族館、遊園地に……行ったことないから行ってみたいかな……」

 沙知は軽く笑いながら答える。それはまるで彼女が自分が行けないであろう場所を列挙している。

「あと、色んな場所の……美味しいものとか食べてみたいし……とにかくたくさんやりたいことはあるかな……本を読むだけじゃあ分からないことまだまだあるし……」

 彼女は目を輝かせながら、そう語る。普段学校じゃ元気な風に振る舞っている彼女だが、本当は身体が弱くていつ倒れるか分からない彼女だ。だから、他の生徒の何倍も楽しいことをしたい願望があるのだろう。

「そっか……色んなところに行きたいのか……」

「うん……でもね……現実的には難しいんだけど……」

 沙知は諦めたかのような悲しい表情でそう答える。

「なんか……酷いことを聞いちゃったな……ごめん……」

 僕は彼女の辛い現実を目の当たりにして、つい謝ってしまう。だが沙知は首を横に振った。

「ううん……謝らないでいいよ……あたしこそごめんね……せっかくこうやって話しかけてもらったのに変な空気にさせちゃって……」

 彼女は僕に対してどこか申し訳なさそうに謝る。彼女も彼女で必要以上に責任を感じてしまっているのだろう。

「それは……別に気にしなくていいよ」

 僕がそう答えると、沙知はしばらく黙ってから口を開いた。

「ねえ……できれば、今日のことは忘れて……あたしはきっと今日のことは忘れてると思うから……」

 沙知は懇願するような目で僕を見た。彼女自身、自分の記憶力がないことを自覚はしているし、僕が変な気遣いをしてくるのも悪いと思っているのだろう。

「そうだな……僕は今日何も見なかったことにするよ」

 だから、彼女の不安を解消しようと沙知の言葉に同意した。彼女はそんな僕に対してどこか悲しげな表情を浮かべた後、口を開いた。

「ありがとう……」

 沙知が小さな声でお礼を言うと、廊下の方からバタバタと誰かが走ってくる音が聞こえる。

「お姉ちゃん……かな?」

 沙知は足音の方向に目を向けながらそう呟いた。そして、その直後保健室に勢いよく扉を開き沙々さんが飛び込んできた。

「この愚妹が!! 身体が弱いくせに一人で歩き回るな!! 何かあったらどうするつもりだ!?」

 沙々さんは怒鳴りながら保健室に入ってきた後、ベッドで横になっている沙知を見つけると、さらに睨み始めた。そんな姉を見て彼女は慌てながら口を開く。

「ご……ごめん……」

 だがそんな彼女の謝罪を無視して、沙々さんはこちらに近づく。すると、沙々さんは僕に気づいたのか驚いた顔を浮かべる。

「島田……なんでお前がここに……?」

 沙々さんは不思議そうに尋ねる。沙々さんが戸惑うのは無理もない。今日、別れたほうが良いと忠告した相手がなぜかここにいるのだから。

 そんな沙々さんに対して僕は素直に答えた。

「廊下でたまたま倒れている彼女を見つけて……それで保健室に連れてきたんだよ」

「そ、そうか……それは助かった、愚妹の代わりに礼を言う」

 沙々さんはとても申し訳なさそうに感謝の言葉を述べる。そして沙知のことを心配そうに見つめた後、ゆっくり沙知の身体を起こしながら口を開いた。

「ホント、沙知……心配をさせるな……」

「ごめんなさい……お姉ちゃん」

 沙知は申し訳なさそうな顔でそう答えた。すると沙々さんは僕に向かって小声で話しかけてきた。

「悪いな、島田……色々と整理ができてない状況で、沙知に関わらせてしまって」

「いや、大丈夫だよ」

 沙々さんが謝ることではない。本当にたまたま偶然居合わせただけなのだから。

 僕がそう答えると、沙々さんはほっとした様子を見せた。

「なら……すまないが今日はこれで帰ってくれ」

 沙々さんの言葉に僕は黙って頷いた。そして彼女は改めて僕にお礼を告げた後、沙知と一緒に保健室から出て行った。

 僕はそんな二人を見送った後、静かな足取りで学校を出たのだった。
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