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互いの距離
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しおりを挟む広い庭園を一通り見て周り、車を停めた駐車場へと戻る。
屋外の平面駐車場は、梅雨の晴れ間の日差しで温度を上げていた。そうなることを見越して、隅の木陰になる場所に停めたとはいえ、やはり車内は暑かった。
エンジンを掛けた日向が、エアコンの設定温度を下げる。すぐに車を出さないのは、車内が冷えるのを待つつもりなのだろう。
「今日の椿さん、いつもと違いますね」
ふいに言われて、ドキッとした。新に芽生えた感情を、悟られたのではないかと思ったから。
「もしかして、悩み解決しました?」
悩み? 言われた意味がわからないでいると、少し気まずそうな顔を見せ。
「ほら、この前。悩んでるふうだったから」
もしかして、キスのときの話だろうか。
あの日は、日向の話を聞いただけで終わっていた。涼しい冷気が頬を撫でる。
悩みなんて、大袈裟なものはなにもない。だけど、あのキスの言い訳をするチャンスは今しかない気がした。
「あ、いや、言えってことじゃないですよ。今日は、思い詰めた感じがないなって。思い詰めてるって言い方も変ですけど……もしかして、胸に溜まってることがあるのかなって」
今日はそれがないということだろうか。確かに、ここ最近の咲久は、気持ちの変化により前のように不満ばかりを感じているわけじゃない。それがいいのかは別だけど。
「悩みってほどのことじゃないんです」
大丈夫だ。日向は何を聞いても、表面上は優しい言葉を掛けてくれる。
「僕、本当に自分に自信がなくて……だから、いつも何をしてても、上手く出来ない自分が情けなくなるんです。きっと、優人もそんな僕が嫌なんだろうなって思うんですけど、じゃあどうしたらいいかもわからないし」
明確な言葉にならない、取りとめのない悩みは伝えるのが難しい。
「優人や、日向さんのような人と一緒にいると、そういう自分が、より感じられるっていうか」
「鬼塚さんや俺?」
「小鳥遊さんも……なんて言うのか、ちゃんと自分を持ってる人達です。でもそうなれない僕は、嫉妬するくらいしか出来なくて」
日向がハンドルに腕を置き、咲久の方を見る。
「よくわからないな。鬼塚さんのような、出来過ぎた人に愛されてるのに自信がないんですか? だいたい、誰だってそんなものじゃないですか。俺も自信ありませんよ? さっき言ったじゃないですか」
確かに聞いたけど、それは仕事の話であって、咲久のように人生すべての話ではない。
「愛されてる、って感じたことがなくて……」
「鬼塚さんに?」
咲久の言っていることが、いまいちわからないという顔の日向が前を向く。
「うーん、考えすぎじゃないですか?」
「でも、特にここ最近は……そうなんじゃないかって」
そうかなぁと呟く日向から、顔を逸らすように窓の外を見た。
「そうなんです。だって、もう何か月も……僕に触れて来ないから」
身体の接触がなくなると、心の距離が見えてくる。
接触がある間は、きっと心の距離が見えていなかったのだ。当然、心も繋がっていると思い込んでいただけで、実際はそうではなかったことに気付かされた。
「きっと欲求不満だったんです。だから、日向さんにキスなんか……日向さんたちは上手く行ってると思うと、羨ましくて嫉妬したんです」
今では反省もしているし、もうしないとは思っているけれど、あのときは確かにそう思っていたのだ。
「わかってます。最低だってこと。日向さんの優しさに甘えようとしたことも。でも、そうでもしないと、自分があまりにも意味のない存在に思えて……」
こんな話をされても、返す言葉がないのだろう。日向は黙ったまま。
沈黙になってしまった車内で、まだ言い訳を続けるべきなのか、もうやめておくべきなのかを考えていると、日向がふいに声を出した。
「喉、乾きません?」
「え……ああ、はい」
「そこ、自販機ありましたよね。お茶でいいですか?」
重くなった空気を変えようとしているのだろう、咲久の返事を待つことなく車を降りる。ポケットに入ってるらしい小銭を確認しながら、自販機へと歩いて行く。
わかっている。きっと引かれたのだ。欲求不満なんて、気持ち悪いと思われたのかもしれない。さすがの日向でもフォロー出来ないし、したくもないのだろう。
自販機でペットボトルを2本買った日向が戻ってくる。この場合、何事もなかったように振る舞うのが正解なはずだ。どうせ、許されない想いなのだ。引かれようと気持ち悪がられようと、結果は同じだと思えばいい。
咲久が勝手に恋心を抱いただけで、日向は今もこれからもそんなところにはいないのだ。
運転席のドアが開き、シートに座る。一本をボトルホルダーに置き、ドアをバタンと閉じた。
咲久の分だろうペットボトルが差し出されるので、ありがとうございますと呟きながらボトルを掴むと、何故か手を離さない日向がその手を自分の方へと引いた。
掴んでいたボトルごと引かれた咲久の身体は、嫌でも運転席の方へと傾く。
ちょっとした悪ふざけだろうと思った咲久が、傾いた体勢を戻そうとしたとき、ボトルを持っていない方の腕が咲久の身体を抱き寄せた。抱き寄せた、のかどうかすらその時の咲久にはわからなかった。あまりに唐突な展開に、頭が付いて行かない。
なかったことにするはずの車内の空気が、一瞬で変わる。
ボトルの重みが増したのは、日向が手を離したから。水滴に濡れた冷たい指が咲久の顔を掬いあげると、近い距離で視線が合った。
一瞬、何かを言いかけた日向は、結局何も言わないまま、咲久の唇に唇を重ねた。
キスしている、と認識するのに、少しかかった。
認識したときには、胸がパニックになったようにドクドクと鼓動を打ち、一気に全身の体温が上がる。長いようで短い、触れただけのキスが静かに離れた。
「マズイな……」
そう呟き、何とも言えない微妙な表情をした日向の視線は、咲久の唇を捉えていた。
マズイというのが、何に対して言った言葉なのかわからない。ただ、再び唇が重なったとき、咲久の身体はその先の濃厚なキスを期待していた。
開いた唇が咲久の口を覆う。食むように角度を変える柔らかいキスが続いたかと思うと、ふいに唇を舐められ、ゾワリと背中が湧き立った。温かく濡れた舌が、閉じた唇を割り中へと入ってくる。けして強引なわけではないけれど、明確な意思を持つ日向の舌が咲久の舌を探す。
触れるだけのキスから、絡み合うキスへ。
確かに、これはマズイと思った。日向にとってはどうかわからないけれど、咲久にとっては間違いなくマズイ。
餓えていた身体に、欲望の火が灯るのを自覚する。厚い質感の舌が、咲久の舌を探し出しヌルリと絡み合う。下半身がズクリと疼いた。
絡んでいた舌を、自分の方へと誘導する日向に、音を立ててネットリと吸い上げられると、思わず声が漏れた。
「んぁ……」
鼻に掛かる、喉から湧き上がった甘い声は自分でも驚くほど媚びていた。
もっとして、嬉しい、気持ちいい。日向のニットを縋るように掴む。
このまま離れないで、まだ終わりたくない。乱れ始める呼吸。より深いキスを求め、ベストな角度を探す日向の手が、咲久の顎を手のひら全体で包む。
求められていると感じた瞬間、下半身が僅かに反応した。
駄目だ。これ以上は、本当にマズイ。
疼きだす腰が無意識に揺れ始める前に、日向の身体を何とか押し返した。理性を総動員して、唇を離す。そうした咲久を日向がジッと見つめ。
「そんな顔する恋人に手を出さないなんて、鬼塚さん、どっかおかしいんじゃないですか」
自分かどんな顔をしているのかわからない。だから、答えようがなく。いまだニットを掴んでいる咲久の手を、日向がゆっくりと離し、大きく息を吐き出した。
「すみません、今のは完全に俺が悪い」
手を返され、助手席の正常な位置へと戻った咲久は、ブンブンと首を振った。どっちが悪いもない。
「何やってんだ……俺」
困ったように呟く日向が、ボトルホルダーからペットボトルを取る。一口、二口飲んで、再び大きく息を吐いた。
「すみません」
「謝らないでください……」
わかっている。日向が謝る理由も、我に返り後悔していることも。だから謝らなくていい。
「気にしないでください。僕も気にしませんから」
これくらいの嘘は咲久にだって吐ける。せっかく、咲久と来て正解だったと言ってくれたのだ。ふたりで来たことを、後悔して欲しくなかった。
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