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別れと始り
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しおりを挟む松田がカウンターの方へと歩いて行く。その間、誰も何も言わなかった。沈黙の中、スタッフが注文したカクテルを持って来てテーブルに置く。
細長いグラスを取り一口飲んだ優人が先に口を開いた。
「返すとは?」
本来なら返されて当然だ。鍵は優人の物なのだから。ただ、咲久に渡してくれればいいと言ったのにそうはせず、わざわざ優人に渡してくる意味を聞いているのだろう。
隣の日向が、小さく深呼吸したのがわかった。
「椿さんと、別れてもらえませんか」
さすがに、顔を上げることは出来なかった。重すぎる空気に圧され、耳鳴りまで聞こえる気がした。
「勝手なことを言ってるのはわかってます。何を言われても、反論出来ませんし、すべて受け入れるつもりです。でも、別れて欲しいんです」
ハッキリとした言い方だった。優人の空気に圧されているのは咲久だけで、日向はそうではないらしい。
「椿さんが好きなんです」
コトンと、グラスがコースターの上に置かれるのが、俯いてる咲久の視界にも入ってきた。
「好き……」
呟くようにそう言った優人が、ふっと鼻で笑うのが聞こえた。
「好きだから別れて欲しいと?」
「はい」
「咲久を好きだから?」
「はい」
「ひとつ、確認させてくれ」
こんなときでも、気味が悪いほど冷静な声を出す。咲久は、そんな優人が好きだったし、嫌いだった。優人が感情的になる、なんてのは見たことがない。
「おまえは、小鳥遊と一緒に暮らしてる男だよな」
「昨日、家は出ました」
「別れたのか?」
「いえ、まだです。でも、別れます。純にはもう伝えてあります」
しばらくの沈黙があり、視線を上げると、優人はコースターの上でグラスを傾けそれを見つめていた。鮮やかなイエローカクテルの中の氷が、カラカラと揺れる。
「いつからだ?」
視線をそのままに静かな声を出す優人は、やはり何を考えているのかわからない。
「わかりません」
日向の曖昧な返事に、優人が視線を上げた。
「わからないのか?」
「はい。好きになったのは、最近なのかもしれませんし、最初からだったのかもしれません。ただ、こういう関係になったのは、極最近です」
「ようするに、人の男を寝とったわけだ」
さすがにそう言われては、日向も返す言葉がないのか黙った。
「ずいぶんな話だな。寝とっておいて、別れて欲しい? それも、自分の男とまだ別れてもいないのにだ」
そんな言い方はしないで欲しかった。
「やめて……日向さんが悪いわけじゃ……」
思わず声を出した咲久を優人が見た。思いがけず視線が合ってしまい、それ以上の言葉が出ない。
「いえ、その通りです。俺が悪いんです。純には時間を掛けて、理解してもらうつもりです」
ふーんというように、身体を椅子に預けた優人が足を組む。
優人のこういうところが咲久にはサッパリわからない。そんなふうに、どうでもいいなら、ふたつ返事で別れてもいいのではないだろうか。
「断ったら?」
軽く聞いてくる優人の言葉に、日向が大きく溜め息を吐き。
「それでも、俺は椿さんが好きです。椿さんも同じ気持ちでいてくれてると信じてます」
日向の真面目な言葉を、優人が鼻で笑う。
「出会って、まだそれほど経ってないよな?」
「そうですね」
「咲久とは4年付き合ってる。4年だ。そっちは何年だった?」
「9年です」
けして短い時間じゃない。それはわかっている。
「おまえに、それを捨て切れるのか?」
「はい。俺は、純ではなく、椿さんが好きですから」
キッパリと言った日向が、頭を下げる。
「だから、別れてください」
「残酷だな。よくそんなことが言えるな」
呆れるというような声を出す優人が、再びグラスに手を伸ばし傾ける。
「何年も付き合ってきた相手を、そんなふうにアッサリ捨てられる男ってことだ。そんなやつの何を信じろと?」
優人の言いたいこともわかるけれど、咲久はそれでも日向がいいのだ。何があっても、信じたいし、信じている。
「もし、俺が慰謝料でも請求したらどうするつもりだ。無駄になった家を買い取ってくれって言ったら? さっき、すべて受け入れるって言ったよな。てことは、当然、そういう覚悟もあったんだろうな」
言われても仕方がないと思うのか、それとも想定内だったのかはわからないけれど、驚くわけでもない日向が頷いた。
「それを望まれるのなら、出来る限りのことはします。全額は無理だとしても、生涯掛けて支払います」
「ちょっと待って……」
そんな話なのだろうか。お金で解決なんて、どうかしてる。
「それで咲久を幸せに出来るとでも?」
思わず日向の腕を掴んで、そんな約束はして欲しくないと思っていると、そうした咲久を見ない日向が頷いた。
「出来ます。俺は、椿さんの話を聞いて一緒に笑いたいだけなんです。同じ物を見て、同じ物を食べて、同じ景色を見るだけでいいんです。毎日でも抱きしめて、好きだと伝えたいだけなんです。それは、椿さんも同じだと信じてます」
その通りなのだ。何かが欲しいわけじゃない。上手く言えない感情も、時間を掛けて聞いて欲しいし、傍にいるだけで幸せなのだ。
「あなたには出来ないことかもしれませんが、俺にはそれが出来ますから」
そうだと思った。だから咲久は日向を好きになったのだ。優人がくれなかった優しさを、日向は咲久にくれた。
カクテルを一気に半分ほど飲んだ優人が、グラスをコースターに戻した。
「咲久とふたりで話したい」
突然そんなことを言われて、どうすればわからないでいると、咲久が掴んでいた手を離す日向が、どうする、というような目を向けて来た。さすがに自分のことなのに、他人任せでは終われない。
躊躇いながらも咲久が頷くと、日向が優しい声を出した。
「外で待ってます」
大丈夫だ、必ず日向は待っていてくれる。そう思うと、少しは安心出来た。
立ち上がった日向が軽く頭を下げて、店を出て行く。その間、優人が日向を見ることはなかった。急にふたりにされて、自分でも驚くほど落ち着かない気分が湧きあがってくる。ほんの何週間か前までは、ふたりでいることなど当たり前だったはずなのに。
「本気で好きなのか?」
優人の言葉に頷く。逃げても始まらない。
「……うん」
しばらくの沈黙の後、優人が声を出した。
「それなら、別れていい」
あまりにアッサリと言われて、さっきまでの話は何だったのかと思う。
「悪かったな」
どうして優人が謝るのかわからない。謝るのは咲久の方だと思っていたから。
「俺は、おまえを大事にしてこなかった」
だから、愛されている自信がなかった。
「放っておいたのは俺だ」
もっと構って欲しかった。
「こうなるのも当然だな」
自覚があったのか、そんなことを言い出す優人を見つめる。
「大事にしてやれなくて、悪かったな」
本当にそうだったのだろうか。ずっとそう感じてきたけれど、いざ優人の口から聞くと、そうでもなかったのではないだろうかと思えてくる。
「僕の方こそ……ごめんなさい」
裏切ったのは咲久なのだ。
「おまえは悪くない。慰謝料も、家も買い取らなくていい。あれは、冗談だ」
優人がこんなときに冗談を言うとは思えない。
そうだろうか。どれほど優人を知っていたのか、今になるとわからなくなってくる。もしかすると、日向の本気を試しただけなのかもしれないし、違うのかもしれない。
さっきまでの重い空気ではない優人が、少し笑う。
「4年も付き合ってきて、別れるとなっても、たいして変わらないってのもどうなんだ」
そう言われてみれば、そうだ。優人と咲久には、共有する物はないに等しい。
ふと、思い出してポケットからキーケースを取り出し、優人の部屋の鍵を外した。
「これ、返す……」
「ああ」
「優人の家にある僕の物は……もういらない」
どうせ少しの着替えがあるだけだ。
「仕事は、やめた方がいいなら……」
「いや、好きにしていい」
好きにしていいということは、続けてもいいということだ。
「嫌じゃないなら、続けてくれ。あの店は咲久がいてこそだって、本社の方の担当が言ってたからな」
そんなことを言われてるとは知らなかった。
「おまえの上げて来る売上報告は、丁寧でわかりやすいから助かるみたいだ」
驚いた咲久が優人を見ていると、その視線に気づき、そして別の何かにも気付いたような顔を見せた。
「もしかして、そういうことを話すべきだったのか?」
「そうだね……言ってくれてたら、嬉しかったかも」
そんなふうに言われてると知っていたなら、もっと前から店に愛着が湧いていただろう。半分残るカクテルを見つめて、少し困ったように笑う。そんな優人の顔はあまり見たことがなく。
「こう見えて、嫌だったわけじゃない」
わかっている。どれほど冷たいと感じていても、嫌がられていると思ったことはない。
「ただ、どうすればいいのかわからなかった。何をすれば喜んで、何をしてやればいいのかも」
そう言われてわかるのは、咲久も悪かったということだ。言えばすむことを言わなかったのだから。ただでさえ忙しいのに、恋人の気持ちまで察しなければいけないとなると、面倒になって当然だ。
咲久が優人がわからないと感じていたのと同じで、優人も咲久がわからなかったのだ。
優人が寛げる環境、というのを咲久は作ってこなかった。自分の気持ちは察して欲しいと思っていたのに、優人の気持ちを察したことがあっただろうか。
けして優人を責められないと思った。
「俺の中にそういう距離が出来て、抱かなくなった。一度そうなったら、今度はタイミングも何もかもがわからなくなったんだ」
こうして聞いてみると、何でもない話しだったのだ。抱いて欲しい。もっと触れて欲しい。そう思っていたのなら、言えばよかっただけのこと。
「でも、あのマンションはおまえのために買った。他の誰でもよかったわけでも、ひとりでも意味がない。咲久とふたりで住むために買った物だ」
愛されてないなんて、どうしてそう思っていたのか今では不思議で仕方ない。愛されていると感じられることが人それぞれ違うように、愛し方だって違うのだ。優人は優人なりに、愛そうとしてくれていたのに、それを咲久が受け入れていなかっただけなのかもしれない。
「ごめんなさい」
「もういい。幸せになれ。日向なら信じられるんだろ?」
そうなのだ。日向ならすれ違いそうになっても、素直に自分の想いをぶつけられる。
最悪なこともあるけれど、誰よりも愛しい相手なのだから。
「大事にしてもらえ」
そう言った優人は、初めて見る優しい顔で笑ってくれた。
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