そして、世界は別たれる

黒箱

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1-①

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『食べることは満たすこと、食欲とは満たされない器が何かに手を伸ばすための憐れで弱々しい衝動であると認めなければならない。』



ねえ、知ってる?
あの迷路みたいに入り組んだ路地裏にね、何でも食べる怪物が住んでるんだって。
ひょろひょろで木の枝みたいに脆そうに見えるのにどんなものでもガブリと噛んで砕いて呑み込んでしまう。
夜に歩いてるとお前は幸せか、それとも不幸かって尋ねられて、どっちを選んでも頭からカプリって食べられちゃう。
助かる手段?今のところないらしいよ。
ああだけど…死にたい人は無視されるんだって、死人じゃお腹は満たせないのかもね。



「おい木戸、頼んでたこと終わったのか。」

かけられた声に顔を向けた男はクマのひどい目でじっと上司を眺める。
その顔がひどく不快なものを見たかのように歪むのを見て終わりましたとただ頷いた。

「ならさっさと上がれ、もうお前だけだぞ。」

上司は埃を払うかのように軽く手を振って去っていく、男は更衣室に向かいエプロンを突っ込んで、安物のパーカーを羽織り裏口から退勤。
空はすでに真っ暗だ。

そのまま安アパートに向かって猫背気味の体を引きずるように歩いた。
その途上、いつものコンビニで値引きシールの張られた弁当とペットボトルのお茶を持ってレジに置く。
店員のまたこいつかという顔から投げやりな温めますかの確認に首を振る、どこまでもいつも通りのやりとり。
だが、その店員に奥から来た女が何かしら呟くと急いで裏に戻っていった。
代わりに現れたその女がレジを打ってありがとうございましたと笑顔でお釣りとレシートを手に握らせる。
いつもの毎日とは少し違う刺激に、しかして特に思うこともなくさっさと帰路に戻り、二階建てのこじんまりした安アパート、自らの自室に帰宅する。

とは言え薄い壁はプライバシーも何もあったものじゃない。
右隣からはビデオか本物か判別の付かない男女の交じり合う声が聞こえた。
どちらにも縁を持たない男にとって本物も偽物も判別はつかない。
左隣からは男の怒鳴り声と女の泣き崩れる声が聞こえる、夫婦の喧嘩でもしているのだろうか。
隣人の事情にも、そもそも存在自体に興味がなかったのでそれもやはり判別がつかなかった。
普通なら落ち着かないようなプライベートスペースの状態も心底どうでもいい。

男はいつものように冷めた弁当をそのまま開いて割りばしで掻き込むように腹に入れていく、
ガリっとした音が聞こえた、いつの間にか割りばしまで砕いていたらしい。
折れた割りばしと空になった弁当容器をそのままゴミ袋に突っ込んで、男はそこらに転がっていた小説を手に取って読み始める。
数ページ読んだら飽きたように投げ出して、次に携帯ゲーム機を手にとって電源をつけた。
そしてまた、数分足らずで電源を切って、先の小説の続きを開いて読み始める。

開いて、閉じて、つけて、消して。

何度何度も繰り返して、特に印象には残らない物語を消費して、いつの間にか遅い時間となっている。
今日は散歩しようか、それともやめようかと考えて、やめることにした。
虚弱な四肢を投げ出して男はそのまま眠りにつく。
最低限の生活費を稼ぎ、後はひたすらに自室に籠って何かを消費する、それがその男の全てだった。
そう、それが全てであればよかったのに。
ほんの些細なきっかけがあったとしても、そこで立ち止まれなかったあたり、やはり男はどこか狂っていたのだ。



1999年9月も半ばを過ぎた頃。

まだまだ残暑は厳しく、しかして夜は少しばかり肌寒い日も増えてきた。
道行く人が厚着すべきか薄着を貫くか迷うような季節。
いつもの時間、いつもの歩く早さで能一馬たくみ かずまはすでにしっかりブレザーを着込んで通学路を歩んでいる。
170センチ台半ばの身長、アスリートほどではないが一般人よりは服の上からでも鍛えられているとわかるバランスのよい肉体。 
染めも固めもせず短めに切りそろえられた黒髪が時折、風でそよぐ。
気だるげに眠そうに歩む者、友達と何かを話しながら楽しそうに笑う者。
そんな中をただ前だけを見て、乱れのない制服で背筋を伸ばして歩くその様は真面目を絵にかいたような在り方だ。  
実際、一真は進学校として新設された高校の二年にして生徒会長に選ばれるほどには品行方正で成績も良い。
大抵の生徒や先生は一真に対して好意的な感情を向ける。

「おっはようございます、生徒会長!」 
「おはよう田辺、今日も元気だね」

正義感が強く、困っている人は見過ごさない。頻繁に挨拶を交わす相手なら、名前だけでなく性格まで把握していたりする。 
その誠実さ故に、通学路で彼を見つけた後輩も先輩も、関係なく挨拶する者は多い。
一真はその度に笑顔を向けて気持ちよく返すのだ。  
しかし、そんな一真の内心は近年、かつてないほどに乱されている。

『ねー、一真。学校なんかさぼってどっかいかない? 私、クレープとかほしいなー』

能天気な声が頭上から響く。  
視線を向けなくとも、そこに「かい」と名乗る少女がいることは知っている。 
白髪、銀眼。
儚げなアネモネのような雰囲気と手折れそうな繊細な容姿ゆえに外見年齢はいまいち判然としない。
まだ幼い子供のようにも見えれば、発育の緩やかな10代後半のアンバランスな成熟を醸し出しているようにも見える。
目を離せばどこかに消えてしまいそうな妖精のようなあり方とは裏腹に、
その声は底抜けに明るく自己主張はどこまでも激しい。

一真は眉一つ動かさずに歩き続ける。  
昔から一真には、他人には見えない友人がいた。
かつてはもっと抽象的な、自身を間違った道へ誘おうとする悪魔のような存在だったはず、一真はそれを悪魔さんと呼んで反面教師にしてきた。
しかし二年前の事件を境にこの少女へと変貌したのだ。  
自分の想像の産物のくせに触れもしないクレープをねだるなど、最近の元悪魔――回は、あまりに自由すぎる。

『もー、無視しないでよ』

ふくれっ面で視界に逆さまの顔が割り込んでくる。  
透き通る髪が前を遮るが、一真は慣れた足取りで歩みを止めない。
歩きなれた道だ、目隠しされていようと自分のクラスの席まで歩み続けることはできる。  
しかしここまでくると、もはや質の悪い幻覚だ。
本気でどうにかしなければと切に思うことすでに数百回。  
こうしていつものように生徒会長として、イマジナリーフレンドをあしらいながら一真の一日は始まる。



回は授業中は大人しい。
と言っても現れた頃はどんな時でもお構いなしに話しかけてくるわ視界を遮るわでやりたい放題だった。
回に邪魔された授業は家で復習しなければ挽回できず余分な時間を使うはめになり、そうなると余計に相手してもらえなくなることを理解したのだろう。
邪魔すべき時とそうでない時は心得るようになったのだ。

一真はそんなことを考えてふと馬鹿らしいと力なく笑う。
これは自分のイマジナリーフレンドなのだ、なのにまるで一個の生命体のように人格があると考えるなどなんともでたらめな話だ。
もし邪魔をするのであればそれは自分がそこに集中したくないと思っているからに他ならないのだろう。
だからこんな無意味なことを考えている暇があるならしっかり授業に集中しなければならないと気を引き締め、黒板と先生の言葉に意識を向けた。

滞りなく授業は進み午前中が終了して昼休み、いつもなら友達と共に昼食でも取るところ。
だが来月には文化祭も始まるこの時期、生徒会室は大体、忙しく一真と数人の役員、
文化祭実行委員などが集まってパンをかじりながら話し合いや雑務をこなすのが最近の日課だった。

「つーか、来月の文化祭、大丈夫なのかな」

ふとそんな声が聞こえてきて一真は耳をそばだてる。

「あー、路地裏事件だっけ?あの迷路みたいなところだろ。どうなんだろうな、今のところニュースとかにはなってないけど。血だまりの中に人の指が落ちてて、しかも歯形があったらしいとか」
「そうそう、怪物だとか食人鬼だとか儀式だとかすげえ噂になってる、もし事件になったら文化祭なんてやってる暇もないだろ」
「と言うか、興味はあるよな。帰りに寄ってみるか?」

馬鹿言うなと笑いながら生徒会室から出ていく男子生徒たち。
一真はそんな噂があるのかと眉を顰める。
三年の先輩には最後の文化祭だし変なことは起きてほしくないが、とは言え人生とはそんなものかもしれないという思いもある。
思いもよらないことで当たり前の日常が奪われることは確かにあるのだ、自分が経験した二年前の事件のように。
それは人が集まる場においては当然のことなのだ、自分一人で生きていけないのだから、自分以外の誰かに生き方を邪魔されるのは仕方がない。
それでも、できる限り自分のできることをするしかないのだ、目下それは文化祭を最高のものとすることある。

一真は頭の中から噂を追い出して目の前の業務に没頭した。



「よっ、お疲れさん」

生徒会室から教室への廊下をぼんやり歩いている一真の肩を親し気に叩いてくるのは小学時代からの親友、山下 翔(やました かける)。
差し出してくるミカンジュースを一真は嬉しそうに受け取った、さすが長年の友達と言うべきか好みがわかっている。
教室までのわずかな時間を共に歩む二人、ふと一真は路地裏の怪物について尋ねてみた。
翔は流行には敏感だ、噂話なども手広く集めていると思うのだ。
予想は大当たり。翔は待ってましたとばかりに、ありきたりな都市伝説チックな内容を語りだす。

「ああ、あれな。学校からお前んちの方面にあるだろ?ベッドタウンの過密地帯。あの迷路みたいに路地裏が入り組んでる場所」 
「うん」 
「そこに毎晩、顔を隠した人型の何かが現れるらしいぜ。で、出会うと聞いてくるんだと。お前は幸せか、それとも不幸かって」

翔は声を潜めて、おどろおどろしく手を動かす。

「でさ、どっちを答えても頭からガブリ、だそうだ」

くだらねえよな、と翔はケラケラ笑う。

「だけど、指が見つかったんじゃなかったっけ?」 
「ああ。でもあれ、動物の嚙み跡だって聞いたぞ?別の場所であった殺人事件の遺体が、野良犬かなんかに荒らされたとか何とか。実際、噂なんて尾ひれがつくもんだろ」

翔は全く信じていないようだ。  
一真としても、それが正解であってほしい。
荒唐無稽な噂が広がって学校側の不安を煽り、楽しみにしている文化祭が中止なんてことになれば目も当てられない。  
そう、ただの噂話だ。

『あー、だけどね。死人は食べられないらしいよ』

ふと。
回が、今日の天気でも話すような軽さで呟いた。

『どれだけお腹が空いても、死人じゃお腹は膨れないのかもね』

「――え?」

一真の足が止まる。  
翔が「どうした?」と不思議そうに覗き込んできた。よほど変な顔をしてしまったらしい。  
だが、無理もない。  
自分のイマジナリーフレンドがいきなり、聞いたこともないような具体的な設定を口にしたのだ。  
あるいはどこかで聞いたそれを、深層心理が勝手に補完したのだろうか。  
一真は釈然としないものを飲み込み、「なんでもない」と歩き出した。





世界はいつだって、不快なほどに潤っている。  
男、木戸感太《きど かんた》は路地裏の湿ったコンクリートに背を預けながら、頭上の隙間から見える切り取られた空を何の感情も込めれられてない目で眺めていた。
沈みかけの夕焼け色が少しずつ色褪せていく、直に夜がきて路地裏は光もほとんど届かない闇になる。

通りを歩く人たちの笑い声。車の排気音。換気扇から吐き出される油の匂い。  
それら全てが、木戸にとっては鮮やかすぎる色彩を持って迫ってくる。  
誰も彼もが、自分という器の中に「明日」や「希望」や、あるいは「不満」や「絶望」という名の水分をたっぷりと湛えて生きている。  
それが羨ましくて、妬ましくて、そして何より――酷くまずそうに見えた。

「……腹が、減ったな」

自身の腹に手を当てる。そこにはブラックホールのような空洞がある。  
食べても食べても、その瞬間の充足感は砂漠に撒いた水のように一瞬で蒸発し、あとにはより酷い渇きが残るだけ。  
木戸はゆっくりと立ち上がる。  
足元には、数時間前に摂取した「食事」の残骸――かつて野良猫だったものが転がっているが、もう何の興味も湧かない。

もっと、質の良い食べ物が必要だ。  
猫や鼠のような、本能だけで生きる薄い命ではない。  
もっとドロドロとした、自我と欲望と、人生という物語が詰まった濃厚な物でなければ、この喉の渇きは癒せない。

「あー、今日は最悪。部長のやつマジでうぜえ」

路地の入り口付近、酔っ払ったサラリーマンの千鳥足と、愚痴が聞こえてきた。  
木戸の鼻腔がピクリと動く。  
不満。鬱屈。そして微かな家族への愛情と、将来への不安。  
複雑な味がしそうな、熟成された餌の気配。

「……ああ」

木戸の乾いた唇が、三日月形に裂ける。  
だがその瞳はどこまでも窪んで淀んで何も面白そうじゃない。
ただ、給水所を見つけたマラソンランナーのような、切実な安堵だけがあった。

「いただきます」

彼は音もなくアスファルトを蹴る。  
これから始まるのは殺戮ではない、ただの食事だ。  
この絶対的な無の実感の中で、彼が正気を保つための厳粛なる儀式だった。
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