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2-③
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放課後。
一真は回を伴って暗くなった帰路を歩いているのだが。
「…ねえ、回」
『なあに?』
「これ、確実に近づいてるよね」
『そうだね』
世界が裏返り一真の認識にこれまでにない気配や存在感が挟み込まれることになってから。
それがゆっくりと、一真に向けて近づいている感覚がある。
まるで、自分がそういう存在を捉えていることを正確に把握されているかのように。
『実際、把握されてるからね。世界の裏側を知って一真の認識の位相がずれた。
それで、そこにいる存在を捉えられるようになると相手もまた捉えられたことを敏感に察するの。
ほら、深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているって言うじゃない?
特に、裏側の住人は何かしら欠けていることが多いし、だけど表側に見つからないように闇の中に潜むしかないから。
それを埋めるために明るい世界の人間を求めてるの。
身を守る術を持たない人がいきなり裏側の認識を開いたらその末路は大抵一つだね。
裏側が表側に認識されづらい理由の一つでもあるよ、表から開かれた者は大抵、生きてはいられない』
尋ねてみればそんなことをふわふわ言い募る回。
「つまりあれですか、もう死ねってことですか」
切羽詰まって丁寧語で話しかけてしまう。
「まさか!私が回に死んでほしいわけないじゃない。だけど、私はどうにもできないし、だから頑張って!」
そんな一真の様子など歯牙にもかけずニコニコしながら「ファイト!」などと呟き、小さく拳を握り現実を突きつけてくる回。
もしこいつに触れられるなら、存在それ自体が軽そうだから今すぐにでも放り投げて囮にでもしてやるのに。
しかし、もう無理そうだ。
ゆっくり振り向くと、月明かりの届かない闇の隙間から異形の影が這いよってくる。
形は不定形、黒い靄の塊のようなそれは、何かを求めるかのように手のような部分を伸ばして迫る。
人通りがないから堂々と姿を現したのか、あるいはもう我慢が効かなくなったのか。
「…こいつら、追ってくるかな」
『くるだろうね』
「もし、こいつらを連れて逃げてる時に誰かに出会ったら、巻き込んじゃうかな?」
『うーんどうだろう、前にも言ったけど表側の住人に裏側の住人は認識しづらいし干渉しづらいの。
だから手順を踏んだり、精神的にまず弱らせて裏側に近づけたり、逆に表側から呼ばれるのを待ったりする。
あいつらは完全に裏側で生まれた存在、形を持たない低級の霊体だから普通の人には姿も見られないと思うけれど。
さすがに目の前に現れたら憑いたりしちゃうかもね、そうしたら体が重くなったり体調を崩すかも』
それを聞いて、一真はあまり迷うことなく、即座に闇の中へ飛び込んだ。
幸い、この辺りは路地裏や人通りの少ない場所には事欠かない。
何とか家まで逃げきれればと、しかし現実はそう甘くはなく。
打ち捨てられさびれた公園で黒い靄のようなものに囲まれる。
さらに、もっとしっかりした形を持った犬みたいな何かが這い出てくる。
靄の中で赤く光る双眸、曖昧でなお鋭い口腔、根源的な嫌悪や恐怖を抱かせる息遣い。
『あれは妖精の類だね、人の死の直前の感情を餌に大きくなるの。だから死の予兆とか呼ばれてイギリスなんかだとブラッグドッグとか呼ばれてるよ。』
つまりは、自分を殺す気満々ということか。
しかしただ殺されるのを待つつもりはない。
武器になるかもわからないが、一真はそこらに落ちていた太めの木の枝を拾い上げ、正眼に構えた。
ただの木の枝が通じる相手でもないのだろうが。
それでも、死ぬその瞬間までは自分にできることをやり切る。
覚悟を決めた、その時だった。
「――あなた、本当はお馬鹿さんだったのね」
聞き覚えのある、しかしていつもとは違う鋭く力強い声が耳に届いた。
それは上から響いてきたようで、見上げればそこには月を背にして浮かんでいる一つの影。
古ぼけた箒に腰かけ、黒いローブのようなものを羽織り、三角帽子を頭にのせて、二尺ほどの木の杖を膝に載せている。
それはおとぎ話の中から飛び出してきた魔女そのものだった。
夜空に浮かぶその姿は、童話の一幕のように神秘的で――しかして、あまりのシュールさに一真は思わず笑ってしまった。
「…本当にいい度胸してるわねあなた、ぶっ飛ばされたいのかしら?」
引きつかせた口元から、普段の優雅なお嬢様からは想像もできない重く低めの声が漏れる。
その瞳は、柔らかさの欠片もないほどに鋭く一真を見据えていた。
謎の転校生――フェリシアの正体はなんと魔女だったらしい。
「いや…ごめん。だって、ここしばらくおどろおどろしい何かの気配を感じて気を張ってて。そこにいきなり絵本から抜け出したようなこてこての魔女が出てきたら笑えない?」
「どんな理由でもこの状況で笑えるのがどこまでもおかしいわよ。普通、恐怖するか、それとも天の助けと敬うべきじゃなくて?」
黒い靄や犬の妖精はフェリシアの姿を捉えて、おびえるように後ずさっている。
どうやら魔女様にはこの状況をひっくり返すことができる力があるらしい。
「助けてお願い、友達だろう?」
これまで不気味がって距離を置いていたとは思えない早さで手を合わせて拝む一真。
フェリシアはため息一つ、膝上の杖を掲げた。
赤い光が迸り、難解な幾何学模様が夜空に描かれていく、それは魔法陣の形を示し回転を速め。
「――炎よ」
その一言は、命令というより宣告だった。
低く、静かに、しかして圧倒的な威圧を孕んだ声。
瞬間――魔法陣が爆発的に輝きを増した。
闇夜が、真紅に染まる。
放たれた火矢は正確に、まるで意思を持っているかのように、黒い靄の一つ一つを貫いていく。
妖精犬が逃げようと跳躍した。
しかし火矢はその軌道を予測していたかのように追尾し、空中で完璧にその姿を捉える。
真紅の炎が獣の形を飲み込み、その輪郭を溶かし、何も残さず焼き尽くしていった。
それは浄化と呼ぶのが相応しい。
十秒にも満たない時間で、そこにいた全ての怪異が消滅した。
魔法陣がゆっくりと赤い光を失い、粒子となって夜に溶けていく。
それを冷徹に、いや――どこか虚しげに見届けた後、フェリシアは箒を傾けて一直線に降下してくる。
黒いローブが夜風に靡き、三角帽子の縁が月明かりを遮った。
地面すれすれで箒を横に滑らせ、軽やかに着地したその姿は、まさに童話から抜け出した魔女そのものだった。
「さて、それじゃあ命の恩人である私を歓迎してくれるのよね?」
遠回しの家に連れていけという要求に、一真は素直に頷いた。
「うん、本当にありがとうね」
聞きたいことなど山ほどあるが、まずはお礼からだ。
フェリシアは軽く鼻を鳴らし、箒と杖を担ぐと「いいから早く」と一真を急かす。
『あーもう!なんなのこの女!一真もホイホイ家に入れないでよ!』
回はそんな親しげな雰囲気に変わった一真に頬を膨らませながら、ポカポカと彼の頭を殴りつける。
もちろんすり抜けるだけだが、鬱陶しいことに変わりはない。
一真は肝心な時に役立たずっぷりを露呈したエアフレンドを完全に無視して、道を知っているかのごとく前を歩く魔女と自分の家に向かうのだった。
◇
殺風景な能家のリビングに今は不釣り合いなほど美しい華が咲いている、これまでにない状況に我が家であるにもかかわらず現実感がない。
スーパーで買った安物の紅茶と茶菓子を口にしながら「もてなしが悪いわね」などと軽く毒づくその様は棘のある薔薇か、あるいは美しくも危険な毒花という風情。
優雅にカップを傾けるフェリシアを眺めながら、一真はどう話を切り出すべきか思案していた。
間違いなく彼女は世界の裏側とやらに関わっているのだろうが、それは果たして聞いていいことなのか、
命の恩人に対して話しづらいことをずけずけと聞くのも気が引ける、どうしたものかと頭を悩ませていると。
「…とりあえず、私は魔女じゃないから、魔法使いと呼んで」
こちらの悩みを見透かしたのかそうでないのかフェリシアから口火を切った、とは言え第一声がそれとは。
魔女も魔法使いも同じようなものだと思うがそこは譲れないらしい。
「それにしても、あなたって本当にわからないわ。私の魔法や暗示を防がれたから警戒して監視していたのだけれど、まさかあんな低級の霊体やら妖精やらに対処できないなんて。
あれだけ準備した大魔法の影響から逃れて、なんであんなのに殺されそうになってるのよ」
「あー、なんでだろうね?」
一真の煮え切らない答えに端正な眉を顰め目元を細める、明らかな不機嫌。
しかし本当に自分でも意味が分からないのだから何も言えない、そもそも大魔法ってなんだ。
「と言うか、やっぱりフェリシアって、真っ当な編入生ってわけじゃないんだね」
話をそらすように気になっていたことを尋ねれば、「ええ」ともはや隠す必要もないと判断したのか頷いた。
「詳しい説明は省くけれど、魔法を使って私が元から学校の一部だったと誤認させたの。
ああ、それと、はじめてあった日の屋上であなたの友達になりたいと言ったのは軽い暗示を直接かけるためだから。今更だけど変な勘違いして縋ったりしないで。
って、私のことはいいわ、それより説明なさい。あなたは何者なのか、どうして裏側の世界を認識するに至ったのか。どうやって私の魔法を防いだのか」
話を逸らすのは失敗した。
一真は二週間ほど前、フェリシアが現れる直前の出来事を話して聞かせる。
偶然、路地裏で異能者とやらに襲われていたサラリーマンを見つけたこと。
その異能者が人を頭から喰い始めて頭に血が上ったこと、襲いかかってきたその異能者を殴ったら見かけ通りの虚弱さであっさり沈んだこと。
それからフェリシアが現れたのだ、つまり裏側のことなど何一つ知らないに等しい。
「ああ、でも、不思議だね。人を喰らえるほどの力があったのに、なんで僕の腕は無事だったんだろう?」
その後のごたごたや回のことなどで頭がいっぱいで、完全に失念していた。
一真のそんな呑気な感想を聞き終わり、フェリシアは信じられないという顔で呆然と彼を見やる。
「…あなた、自分が何を言っているのか、わかっているの?」
いや、だからわかってませんと一真は首を振るしかない。
フェリシアは眉間にしわを寄せ、頭痛を堪えるようにこめかみに指を当てたまま、しばらく考え込む仕草を見せた。
ああ、こういう顔もするのか。完璧なお嬢様だと思っていた人物像が、一真の中でガラガラと崩れていく。
唐突に顔を上げ翔が知ったらどう思うだろうなんて取り留めもないことを考えていた一真を、フェリシアはまっすぐに見つめた。
「いいわ、とりあえずあなたの言っていることが本当だと仮定して話しましょう。
まず、自分が新しい認識を開いたということは理解しているのね?」
一真は何となくならと頷く。
「本来、表側から不慮の事故みたいなもので認識を無理やりこじ開けられた人は高確率で死ぬ、
あなたが襲われたという異能者とか、今日、襲われてた霊体や妖精なんかの手にかかってね。
何かしら対抗できる手段を用意しない限り裏側は表側から見れば地獄よ」
身を守る術もなく突然、表から裏側に引きずり込まれた人の末路は人として真っ当な最期を迎えられない、悲惨なもののはずだった。
「だけど、あなたは何らかの理由で異能者を撃退して今日まで生き延びた、
正体不明な存在に囲まれて自分からその巣窟に飛び込むようなことをしでかす危機感ゼロの馬鹿のくせに」
「…あれは、誰かを巻き込まないために仕方なく…」
「それが馬鹿だと言うのよ、まずは自分の命を優先なさいな。余裕があればその後で他のことを考えなさい」
たしなめるように告げるフェリシアは独り言のように言葉を続けた。
「私の魔法の干渉を跳ねのけて世界の表と裏をありのまま認識もできている。
…それにしても信じられない、異能者を一人で撃退した?
あれは世界そのものにまつわる権利、世界との物理的、精神的な繋がりを極限まで断つ、世界から限りなく遠ざかることで内包できる能力。
魔法より格上の力の一つ。目覚めたばかりの隙をつくとか、相性的に有利とかでもない限り一対一なら魔法使いでも相当に厳しいのに。
それが、それなりに力を使いこなしていた感じの異能者を正面から拳一発で沈めたというの?」
意味不明な事象を何とか分析しようと俯きながらぶつぶつ意味不明なことを呟きはじめる、
完全に自分の世界に入ってしまったフェリシアに一真は恐る恐る尋ねた。
「あの、それでだけど、結局のところ世界の裏側って何?魔法使いって何なの?」
フェリシアは気だるげに顔を上げる。
「世界の裏側についてはわからないことも多い、なぜ世界自体を欺くような裏側が世界の中で成立しているのか、表側にはあり得ない存在が跋扈しているのかも。
魔法使いはそんな裏側の世界、その深淵に潜り、解き明かすための探究者であり研究者。
それと同時に、表と裏のバランスを取るための調停者とでも言えばいいかしら。
裏側は表側がなければ成立しないと考えられている、裏の認識や存在が表に出過ぎるとどうなるかわからないの。
裏と表の世界が完全に同化するのか、表側が裏側の世界を呑み込んで消してしまうのか、それとも裏側が表側を完全に駆逐するのか。
それに、表側にも少なからず裏側を知っている者たちは多い、権力者なんかはその筆頭ね。利用価値のある裏側を残したいと考える人もいるのよ。
だから、今のバランスの取れた状態で表と裏の均衡を保つためにうまく使われている専門家みたいなものと思ってくれてもいいわ」
その言葉に、どこか自嘲のような色が混じった気がするのは気のせいだったろうか、
誇りなんてものを語りだしてもおかしくないフェリシアに限ってそれはないと思うが。
それに疑問の一つも解けた、なんで裏側の世界が露呈しないのか、それを防いでいる者もいたということか。それでも不明なことばかりだが。
ああ、でも、とりあえず一つだけわかったことがある。
「フェリシア、君っていい人だったんだね。これまで避けたり変な態度取ってごめん」
頭を下げる一真にフェリシアはパチクリと、その大きく綺麗な瞳をしばたかせた。
「…いきなり何なの気持ち悪い、これまで散々に杜撰な態度を取ってきたくせに」
「それは君にも責任がある、魔法とか暗示とかわけのわからない方法を使うから」
「それ以外にいきなり学校に潜り込む方法がなかったから仕方がないじゃない」
「それはそうなのだろうけれど、それが通じないらしい自分がいきなり現れた謎の編入性に戸惑ったことも理解してほしい。
まあ、それはもういいよ。
とにかく、君にとっては意味不能な僕をわざわざ助けてくれたし、さっきも身を案じるようなことを思わずでも口走ってたし。改めて、本当にありがとう。」
一真は何度目になるか、深々と頭を下げた。
もし前を向いていたら、珍しいフェリシアの赤面顔が見れたろうに。
魔法使いとしてのフェリシアは正面から真摯な態度を向けられる経験になれていなかった。
それを誤魔化すように咳ばらいを一つしたフェリシアは、意地の悪い笑みを浮かべる。
「そう、まあそんなに感謝してくれるのなら受け取ってあげましょう。であれば当然、見返りも期待していいのよね?」
ゆっくりと顔を上げて「できることなら…」と嫌な予感に微妙な笑みを見せる一真。
「なら、しばらくこの家の一室を貸してもらうわ。ホテルでもいいのだけれどあんまり物を持ち込めないし、用事が結構長引きそうでそろそろ本格的な拠点を構築しようと思っていたのよね。
あなた一人暮らしでしょう?事情をある程度でも把握している協力者ができて嬉しいわ。よろしくね、家主さん。」
命の対価に魔法使いに差し出す物は一真の日常であった。
小さくため息をこぼした一真は、最後にもう一つだけ確認したいことがあり自分の右横に指を向ける。
「ところでフェリシア、ここに何か見えたりしない?」
「…?いいえ、からかってるの?」
「いや、見えないならいいんだ」
そこには空中でじたばたしながら同居なんて認めないと騒ぎ立てる回がいるのだが、
まあ確認するまでもなくこれで気づかないなら魔法使いとやらでもこいつは見えないのだろう。
『いやだいやだいーやーだー!私と一真の二人きりの我が家にこんな女が入ってくるなんていやだー!呪ってやる、絶対に呪って体重五キロ落としてやるー!』
それは女の子にとっては最高の祝福なのではと思いながら騒ぐ回を慣れたように完全スルー。
しかし本当に、何なんだこいつはと一真は虚空を仰ぐ。
イマジナリーだと思っていたがそうではなく、しかしイマジナリーのように自分以外には見えない。
否が応でもこれから裏側の世界に関わり続けなければならない予感はしている。
であれば、いずれその正体にも至ることができるのだろうか。
答えの出ない問いをとりあえず棚上げして、一真は空き部屋の一つを客間にするために席を立つのだった。
一真は回を伴って暗くなった帰路を歩いているのだが。
「…ねえ、回」
『なあに?』
「これ、確実に近づいてるよね」
『そうだね』
世界が裏返り一真の認識にこれまでにない気配や存在感が挟み込まれることになってから。
それがゆっくりと、一真に向けて近づいている感覚がある。
まるで、自分がそういう存在を捉えていることを正確に把握されているかのように。
『実際、把握されてるからね。世界の裏側を知って一真の認識の位相がずれた。
それで、そこにいる存在を捉えられるようになると相手もまた捉えられたことを敏感に察するの。
ほら、深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているって言うじゃない?
特に、裏側の住人は何かしら欠けていることが多いし、だけど表側に見つからないように闇の中に潜むしかないから。
それを埋めるために明るい世界の人間を求めてるの。
身を守る術を持たない人がいきなり裏側の認識を開いたらその末路は大抵一つだね。
裏側が表側に認識されづらい理由の一つでもあるよ、表から開かれた者は大抵、生きてはいられない』
尋ねてみればそんなことをふわふわ言い募る回。
「つまりあれですか、もう死ねってことですか」
切羽詰まって丁寧語で話しかけてしまう。
「まさか!私が回に死んでほしいわけないじゃない。だけど、私はどうにもできないし、だから頑張って!」
そんな一真の様子など歯牙にもかけずニコニコしながら「ファイト!」などと呟き、小さく拳を握り現実を突きつけてくる回。
もしこいつに触れられるなら、存在それ自体が軽そうだから今すぐにでも放り投げて囮にでもしてやるのに。
しかし、もう無理そうだ。
ゆっくり振り向くと、月明かりの届かない闇の隙間から異形の影が這いよってくる。
形は不定形、黒い靄の塊のようなそれは、何かを求めるかのように手のような部分を伸ばして迫る。
人通りがないから堂々と姿を現したのか、あるいはもう我慢が効かなくなったのか。
「…こいつら、追ってくるかな」
『くるだろうね』
「もし、こいつらを連れて逃げてる時に誰かに出会ったら、巻き込んじゃうかな?」
『うーんどうだろう、前にも言ったけど表側の住人に裏側の住人は認識しづらいし干渉しづらいの。
だから手順を踏んだり、精神的にまず弱らせて裏側に近づけたり、逆に表側から呼ばれるのを待ったりする。
あいつらは完全に裏側で生まれた存在、形を持たない低級の霊体だから普通の人には姿も見られないと思うけれど。
さすがに目の前に現れたら憑いたりしちゃうかもね、そうしたら体が重くなったり体調を崩すかも』
それを聞いて、一真はあまり迷うことなく、即座に闇の中へ飛び込んだ。
幸い、この辺りは路地裏や人通りの少ない場所には事欠かない。
何とか家まで逃げきれればと、しかし現実はそう甘くはなく。
打ち捨てられさびれた公園で黒い靄のようなものに囲まれる。
さらに、もっとしっかりした形を持った犬みたいな何かが這い出てくる。
靄の中で赤く光る双眸、曖昧でなお鋭い口腔、根源的な嫌悪や恐怖を抱かせる息遣い。
『あれは妖精の類だね、人の死の直前の感情を餌に大きくなるの。だから死の予兆とか呼ばれてイギリスなんかだとブラッグドッグとか呼ばれてるよ。』
つまりは、自分を殺す気満々ということか。
しかしただ殺されるのを待つつもりはない。
武器になるかもわからないが、一真はそこらに落ちていた太めの木の枝を拾い上げ、正眼に構えた。
ただの木の枝が通じる相手でもないのだろうが。
それでも、死ぬその瞬間までは自分にできることをやり切る。
覚悟を決めた、その時だった。
「――あなた、本当はお馬鹿さんだったのね」
聞き覚えのある、しかしていつもとは違う鋭く力強い声が耳に届いた。
それは上から響いてきたようで、見上げればそこには月を背にして浮かんでいる一つの影。
古ぼけた箒に腰かけ、黒いローブのようなものを羽織り、三角帽子を頭にのせて、二尺ほどの木の杖を膝に載せている。
それはおとぎ話の中から飛び出してきた魔女そのものだった。
夜空に浮かぶその姿は、童話の一幕のように神秘的で――しかして、あまりのシュールさに一真は思わず笑ってしまった。
「…本当にいい度胸してるわねあなた、ぶっ飛ばされたいのかしら?」
引きつかせた口元から、普段の優雅なお嬢様からは想像もできない重く低めの声が漏れる。
その瞳は、柔らかさの欠片もないほどに鋭く一真を見据えていた。
謎の転校生――フェリシアの正体はなんと魔女だったらしい。
「いや…ごめん。だって、ここしばらくおどろおどろしい何かの気配を感じて気を張ってて。そこにいきなり絵本から抜け出したようなこてこての魔女が出てきたら笑えない?」
「どんな理由でもこの状況で笑えるのがどこまでもおかしいわよ。普通、恐怖するか、それとも天の助けと敬うべきじゃなくて?」
黒い靄や犬の妖精はフェリシアの姿を捉えて、おびえるように後ずさっている。
どうやら魔女様にはこの状況をひっくり返すことができる力があるらしい。
「助けてお願い、友達だろう?」
これまで不気味がって距離を置いていたとは思えない早さで手を合わせて拝む一真。
フェリシアはため息一つ、膝上の杖を掲げた。
赤い光が迸り、難解な幾何学模様が夜空に描かれていく、それは魔法陣の形を示し回転を速め。
「――炎よ」
その一言は、命令というより宣告だった。
低く、静かに、しかして圧倒的な威圧を孕んだ声。
瞬間――魔法陣が爆発的に輝きを増した。
闇夜が、真紅に染まる。
放たれた火矢は正確に、まるで意思を持っているかのように、黒い靄の一つ一つを貫いていく。
妖精犬が逃げようと跳躍した。
しかし火矢はその軌道を予測していたかのように追尾し、空中で完璧にその姿を捉える。
真紅の炎が獣の形を飲み込み、その輪郭を溶かし、何も残さず焼き尽くしていった。
それは浄化と呼ぶのが相応しい。
十秒にも満たない時間で、そこにいた全ての怪異が消滅した。
魔法陣がゆっくりと赤い光を失い、粒子となって夜に溶けていく。
それを冷徹に、いや――どこか虚しげに見届けた後、フェリシアは箒を傾けて一直線に降下してくる。
黒いローブが夜風に靡き、三角帽子の縁が月明かりを遮った。
地面すれすれで箒を横に滑らせ、軽やかに着地したその姿は、まさに童話から抜け出した魔女そのものだった。
「さて、それじゃあ命の恩人である私を歓迎してくれるのよね?」
遠回しの家に連れていけという要求に、一真は素直に頷いた。
「うん、本当にありがとうね」
聞きたいことなど山ほどあるが、まずはお礼からだ。
フェリシアは軽く鼻を鳴らし、箒と杖を担ぐと「いいから早く」と一真を急かす。
『あーもう!なんなのこの女!一真もホイホイ家に入れないでよ!』
回はそんな親しげな雰囲気に変わった一真に頬を膨らませながら、ポカポカと彼の頭を殴りつける。
もちろんすり抜けるだけだが、鬱陶しいことに変わりはない。
一真は肝心な時に役立たずっぷりを露呈したエアフレンドを完全に無視して、道を知っているかのごとく前を歩く魔女と自分の家に向かうのだった。
◇
殺風景な能家のリビングに今は不釣り合いなほど美しい華が咲いている、これまでにない状況に我が家であるにもかかわらず現実感がない。
スーパーで買った安物の紅茶と茶菓子を口にしながら「もてなしが悪いわね」などと軽く毒づくその様は棘のある薔薇か、あるいは美しくも危険な毒花という風情。
優雅にカップを傾けるフェリシアを眺めながら、一真はどう話を切り出すべきか思案していた。
間違いなく彼女は世界の裏側とやらに関わっているのだろうが、それは果たして聞いていいことなのか、
命の恩人に対して話しづらいことをずけずけと聞くのも気が引ける、どうしたものかと頭を悩ませていると。
「…とりあえず、私は魔女じゃないから、魔法使いと呼んで」
こちらの悩みを見透かしたのかそうでないのかフェリシアから口火を切った、とは言え第一声がそれとは。
魔女も魔法使いも同じようなものだと思うがそこは譲れないらしい。
「それにしても、あなたって本当にわからないわ。私の魔法や暗示を防がれたから警戒して監視していたのだけれど、まさかあんな低級の霊体やら妖精やらに対処できないなんて。
あれだけ準備した大魔法の影響から逃れて、なんであんなのに殺されそうになってるのよ」
「あー、なんでだろうね?」
一真の煮え切らない答えに端正な眉を顰め目元を細める、明らかな不機嫌。
しかし本当に自分でも意味が分からないのだから何も言えない、そもそも大魔法ってなんだ。
「と言うか、やっぱりフェリシアって、真っ当な編入生ってわけじゃないんだね」
話をそらすように気になっていたことを尋ねれば、「ええ」ともはや隠す必要もないと判断したのか頷いた。
「詳しい説明は省くけれど、魔法を使って私が元から学校の一部だったと誤認させたの。
ああ、それと、はじめてあった日の屋上であなたの友達になりたいと言ったのは軽い暗示を直接かけるためだから。今更だけど変な勘違いして縋ったりしないで。
って、私のことはいいわ、それより説明なさい。あなたは何者なのか、どうして裏側の世界を認識するに至ったのか。どうやって私の魔法を防いだのか」
話を逸らすのは失敗した。
一真は二週間ほど前、フェリシアが現れる直前の出来事を話して聞かせる。
偶然、路地裏で異能者とやらに襲われていたサラリーマンを見つけたこと。
その異能者が人を頭から喰い始めて頭に血が上ったこと、襲いかかってきたその異能者を殴ったら見かけ通りの虚弱さであっさり沈んだこと。
それからフェリシアが現れたのだ、つまり裏側のことなど何一つ知らないに等しい。
「ああ、でも、不思議だね。人を喰らえるほどの力があったのに、なんで僕の腕は無事だったんだろう?」
その後のごたごたや回のことなどで頭がいっぱいで、完全に失念していた。
一真のそんな呑気な感想を聞き終わり、フェリシアは信じられないという顔で呆然と彼を見やる。
「…あなた、自分が何を言っているのか、わかっているの?」
いや、だからわかってませんと一真は首を振るしかない。
フェリシアは眉間にしわを寄せ、頭痛を堪えるようにこめかみに指を当てたまま、しばらく考え込む仕草を見せた。
ああ、こういう顔もするのか。完璧なお嬢様だと思っていた人物像が、一真の中でガラガラと崩れていく。
唐突に顔を上げ翔が知ったらどう思うだろうなんて取り留めもないことを考えていた一真を、フェリシアはまっすぐに見つめた。
「いいわ、とりあえずあなたの言っていることが本当だと仮定して話しましょう。
まず、自分が新しい認識を開いたということは理解しているのね?」
一真は何となくならと頷く。
「本来、表側から不慮の事故みたいなもので認識を無理やりこじ開けられた人は高確率で死ぬ、
あなたが襲われたという異能者とか、今日、襲われてた霊体や妖精なんかの手にかかってね。
何かしら対抗できる手段を用意しない限り裏側は表側から見れば地獄よ」
身を守る術もなく突然、表から裏側に引きずり込まれた人の末路は人として真っ当な最期を迎えられない、悲惨なもののはずだった。
「だけど、あなたは何らかの理由で異能者を撃退して今日まで生き延びた、
正体不明な存在に囲まれて自分からその巣窟に飛び込むようなことをしでかす危機感ゼロの馬鹿のくせに」
「…あれは、誰かを巻き込まないために仕方なく…」
「それが馬鹿だと言うのよ、まずは自分の命を優先なさいな。余裕があればその後で他のことを考えなさい」
たしなめるように告げるフェリシアは独り言のように言葉を続けた。
「私の魔法の干渉を跳ねのけて世界の表と裏をありのまま認識もできている。
…それにしても信じられない、異能者を一人で撃退した?
あれは世界そのものにまつわる権利、世界との物理的、精神的な繋がりを極限まで断つ、世界から限りなく遠ざかることで内包できる能力。
魔法より格上の力の一つ。目覚めたばかりの隙をつくとか、相性的に有利とかでもない限り一対一なら魔法使いでも相当に厳しいのに。
それが、それなりに力を使いこなしていた感じの異能者を正面から拳一発で沈めたというの?」
意味不明な事象を何とか分析しようと俯きながらぶつぶつ意味不明なことを呟きはじめる、
完全に自分の世界に入ってしまったフェリシアに一真は恐る恐る尋ねた。
「あの、それでだけど、結局のところ世界の裏側って何?魔法使いって何なの?」
フェリシアは気だるげに顔を上げる。
「世界の裏側についてはわからないことも多い、なぜ世界自体を欺くような裏側が世界の中で成立しているのか、表側にはあり得ない存在が跋扈しているのかも。
魔法使いはそんな裏側の世界、その深淵に潜り、解き明かすための探究者であり研究者。
それと同時に、表と裏のバランスを取るための調停者とでも言えばいいかしら。
裏側は表側がなければ成立しないと考えられている、裏の認識や存在が表に出過ぎるとどうなるかわからないの。
裏と表の世界が完全に同化するのか、表側が裏側の世界を呑み込んで消してしまうのか、それとも裏側が表側を完全に駆逐するのか。
それに、表側にも少なからず裏側を知っている者たちは多い、権力者なんかはその筆頭ね。利用価値のある裏側を残したいと考える人もいるのよ。
だから、今のバランスの取れた状態で表と裏の均衡を保つためにうまく使われている専門家みたいなものと思ってくれてもいいわ」
その言葉に、どこか自嘲のような色が混じった気がするのは気のせいだったろうか、
誇りなんてものを語りだしてもおかしくないフェリシアに限ってそれはないと思うが。
それに疑問の一つも解けた、なんで裏側の世界が露呈しないのか、それを防いでいる者もいたということか。それでも不明なことばかりだが。
ああ、でも、とりあえず一つだけわかったことがある。
「フェリシア、君っていい人だったんだね。これまで避けたり変な態度取ってごめん」
頭を下げる一真にフェリシアはパチクリと、その大きく綺麗な瞳をしばたかせた。
「…いきなり何なの気持ち悪い、これまで散々に杜撰な態度を取ってきたくせに」
「それは君にも責任がある、魔法とか暗示とかわけのわからない方法を使うから」
「それ以外にいきなり学校に潜り込む方法がなかったから仕方がないじゃない」
「それはそうなのだろうけれど、それが通じないらしい自分がいきなり現れた謎の編入性に戸惑ったことも理解してほしい。
まあ、それはもういいよ。
とにかく、君にとっては意味不能な僕をわざわざ助けてくれたし、さっきも身を案じるようなことを思わずでも口走ってたし。改めて、本当にありがとう。」
一真は何度目になるか、深々と頭を下げた。
もし前を向いていたら、珍しいフェリシアの赤面顔が見れたろうに。
魔法使いとしてのフェリシアは正面から真摯な態度を向けられる経験になれていなかった。
それを誤魔化すように咳ばらいを一つしたフェリシアは、意地の悪い笑みを浮かべる。
「そう、まあそんなに感謝してくれるのなら受け取ってあげましょう。であれば当然、見返りも期待していいのよね?」
ゆっくりと顔を上げて「できることなら…」と嫌な予感に微妙な笑みを見せる一真。
「なら、しばらくこの家の一室を貸してもらうわ。ホテルでもいいのだけれどあんまり物を持ち込めないし、用事が結構長引きそうでそろそろ本格的な拠点を構築しようと思っていたのよね。
あなた一人暮らしでしょう?事情をある程度でも把握している協力者ができて嬉しいわ。よろしくね、家主さん。」
命の対価に魔法使いに差し出す物は一真の日常であった。
小さくため息をこぼした一真は、最後にもう一つだけ確認したいことがあり自分の右横に指を向ける。
「ところでフェリシア、ここに何か見えたりしない?」
「…?いいえ、からかってるの?」
「いや、見えないならいいんだ」
そこには空中でじたばたしながら同居なんて認めないと騒ぎ立てる回がいるのだが、
まあ確認するまでもなくこれで気づかないなら魔法使いとやらでもこいつは見えないのだろう。
『いやだいやだいーやーだー!私と一真の二人きりの我が家にこんな女が入ってくるなんていやだー!呪ってやる、絶対に呪って体重五キロ落としてやるー!』
それは女の子にとっては最高の祝福なのではと思いながら騒ぐ回を慣れたように完全スルー。
しかし本当に、何なんだこいつはと一真は虚空を仰ぐ。
イマジナリーだと思っていたがそうではなく、しかしイマジナリーのように自分以外には見えない。
否が応でもこれから裏側の世界に関わり続けなければならない予感はしている。
であれば、いずれその正体にも至ることができるのだろうか。
答えの出ない問いをとりあえず棚上げして、一真は空き部屋の一つを客間にするために席を立つのだった。
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