【完結】男装令嬢、深い事情により夜だけ王弟殿下の恋人を演じさせられる

千堂みくま

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13 背中を流せとご命令

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 執務室に入って違和感を覚えた。いつもより人が少ない。というより、イグニスの傍にいるはずのあの人がいない。

「侍従長はどうしたんですか? 他の侍従もいないし、メイドの姿も少ないような……」

「少し事情があってな。離宮の掃除に行っている」

(――離宮? ずっと使ってなかったのに、どうして今さら?)

 公爵領の南端には離宮がある。山に囲まれた秘境と呼ぶにふさわしい場所にひっそりと建つ、神殿のような外観の宮殿だ。先代の王は年に一度訪れていたらしいが、今では文官が数人だけ残って管理していると聞く。

 ルルシェは夜会で見た国王アイオンを思い出していた。顔色が悪かったから離宮で静養するのかもしれない。イグニスは兄王を心配していたし、たまには休ませてやりたいのだろう。

 侍従が少ない分、ルルシェの仕事は多かった。イグニスのために書類を仕分け、インクを補充して資料を運び、頃合をみて温かいお茶をいれる。またこぼされたら嫌なので距離を置いていたが、仕事中のイグニスは至ってまじめであった。

 執務室にはしょっちゅう誰かが出入りしているし、来客が多すぎてふざける余裕などないのだ。特に午後は要職についている人物が訪れるので気を抜けない。

 ルルシェはへとへとになり、夕食の給仕はメイドにすべて任せた。いつもは夕食を終えたら挨拶して自室に下がっているが、今夜はなんと、イグニスの湯浴みまで手伝わねばならない。

(僕なんて、一人で何もかもやっているのに!)

 歯を食いしばって浴室にお湯を運んだ。お湯を沸かすかまどが近くにあるからまだ楽だけど、何回も往復しているとさすがに疲れる。膝までまくったズボンも少し濡れてしまった。

「はい、準備できましたよ。では失礼しま――」

「背中を流してくれ」

「へ?」

 浴室の奥にある部屋から低い声が聞こえた。まさかと思いそっと覗くと、イグニスはすでにシャツを脱いでいる。彼が腕を動かすたびに、背中の筋肉が盛り上がる様子がよく見え――いや、筋肉を観察してる場合ではない。

(やだやだ! 上半身はともかく、下は絶対見たくない。もういっそ目隠しでもしようかな。でも男同士という前提で目隠ししたらおかしいし。どうしよう?)

 壁の向こうからカチャカチャという音や、バサッという布が落ちる音が聞こえてくる。

(うわぁ、服を脱いでる……どうしよ……!)

 ルルシェは天に祈るような気持ちでイグニスが出てくるのを待った。やがて、ひたひたと足音がしてドアの向こうから青年が現れる。

(よ、よかったぁ……)

 イグニスは腰に布を巻いていた。今ほど神に感謝した瞬間はない。今度、神殿に寄付でもしよう。ついでだからこの機に筋肉をしっかり拝んでおこう。

「背中だけ洗ってくれ。あとは自分でやるから」

 小さな木製の椅子に座ったイグニスから石鹸を手渡される。柑橘系の爽やかな香りがした。浴槽から桶でお湯を汲み、石鹸に少しかけて泡立てる。出てきた泡を無心で広い背中にこすり付けた。

(余計なことは考えない。心を無にして、目の前にある壁みたいな背中をきれいにすればいい。ああ、見事な筋肉だわ)

 壁は人の形をしているが、そんな些末なことは気にしないのだ。銅像だとでも思っておく。とにかく壁の全面に泡をつけたら完成。

「よし。真っ白な壁になった!」

「……かべ?」

「何でもありません。背中は洗い終わったので、失礼します」

「おい、腕まで泡だらけだぞ。お湯で流して行けよ」

「は……うぷっ!」

 桶にお湯を汲んだイグニスは、勢いよくルルシェにぶっかけてきた。顔にまでお湯が飛び、反射的に目を閉じたが口には少し入ってしまった。気持ちが悪い。

(このバカ王子、何してくれてんの!?)

「あ、悪い」

 ぎろりと睨みつけたら謝罪してくれたが、全く悪びれない口調にカチンとくる。これは文句を言ってもいいはずだ。ルルシェは前髪からぽたぽたと垂れてくる水滴をぬぐいながらイグニスを睨みつけた。

 しかし王子はルルシェの顔ではなく、やや下のほうに視線を向けている。食い入るような熱心な眼差しで。

(何を見てるんだろ?)

 ルルシェは不思議に思い、自分の体を見下ろした。首から膝までぐっしょり濡れてはいるが、リネンのシャツは透けていない。何の問題もない―――と言いたいところだが、濡れて張り付いたシャツがコルセットの輪郭を浮かび上がらせている。ルルシェは慌ててシャツを引っぱり、密着する肌から剥がした。

「シャツの下に何か着ているのか?」

「まあ、ちょっと。僕は寒がりなので……。じゃあ失礼しますね」

「ちょっと待て、そのまま行くのか。体が冷えるだろう。おまえも風呂に入れ」

(冗談じゃない!)

 ルルシェは伸びてきた腕をかわし、「失礼しますっ」と叫んで浴室を飛び出した。濡れたせいでめちゃくちゃ寒い。そして寒いと感じるたびに、イグニスに対する怒りがふつふつとわいてくる。

(なんで僕がこんな目に会わなきゃならないの。理不尽すぎる。バカ王子!)

 侍従長はいつまで不在なのだろう。自室に戻ったルルシェは体を拭き、不安を感じながら毛布にくるまった。どうか明日には、侍従たちが戻ってきますように。

 しかし翌日も、その次の日も侍従たちはいなかった。何日かたって侍従たちは戻ってきたが、ルルシェはすっかり疲れはてていた。
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