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29 煩悶

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「心配しすぎじゃないか? 今度から気をつければいいだろ」

 雨の日にどこかの女性に見られていた話をすると、イグニスはあっけらかんと言い放った。一瞬、この人に相談したのは間違いだったかなと思ってしまう。男色家という噂が立ったら困るだろうと考えて報告したのに。

 しかし本人が気にしないと言い切った以上しつこく言うわけにもいかず、ルルシェもそれ以降は女性の話をしなかった。

 数日たち、翌週になっても何の変化もなく、噂も流れていない。ひと月が過ぎる頃にはルルシェも雨の日の出来事を忘れていた。
 そして完全に忘れた頃、それ・・はやって来た。


 雨期が終わり、夏が訪れた。

 ルルシェは自分の部屋で、侍従が届けてくれた自分宛の荷物を開けている。届けてもらったのは朝だったが、忙しくて開ける暇がなく夜になって思い出すように手に取った。今は月のものが来ているので、イグニスの相手はお休み中である。

 まだ伯爵家から荷物が届く時期ではない。不思議に思って差出人をみると侯爵家のカサンドラだった。イグニスの恋人になってほしい令嬢の一人だ。

 荷の中身は手紙と一冊の本で、ますます不思議に思う。本の表紙は桃色だし、細かな装飾は明らかに女性向け。男のルルシェに送るには違和感を感じる本だ。どういう意図で送ってきたのだろう?

 ルルシェはまず、手紙から読むことにした。ほのかに香水が香る便箋には丁寧な女性らしい文字が並んでいる。

 ――ルルシェお兄様、お元気ですか? 少し前から令嬢たちの間で一冊の本が話題になっているのですが、登場人物が気になったのでお兄様にも読んで頂きたいです。あとで感想を聞かせてくださいね。 カサンドラより――

 今度は本を手に取る。令嬢たちが読んでいるということは、内容は女性向けなのだろう。まあ多分、恋愛小説だろうな……。

 ルルシェは軽い気持ちでソファに座り、のんびりと読書を始めた。が、数十分たつ頃には彼女の顔は青ざめていた。

 主人公は貴人に仕える少年。彼は剣術が得意で、聡明さを活かしていつもあるじを助けている。彼の主人は見目麗しい青年なのだが、青年は少年に対して密かな恋をしていた。この本はつまり、男同士の恋を描いた恋愛小説なのだ。

 ブロンテ国内で貴人の青年に仕える少年なんてたくさんいる。でも、登場人物の描写が気になった。少年は月の光を閉じ込めたような美しい銀髪をしていて、主人である青年は黒髪で凛々しい顔をしていて――どこかの誰かと言うより、ルルシェとイグニスではないのか。分かる人には分かってしまうだろう。現にカサンドラは、「登場人物が気になった」と手紙に書いている。

(それに、何よりも……)

 ルルシェは震える手でページをめくった。二人は遠出した際、雨に降られて木の下で雨宿りをするのだが、そこで初めてキスをする。数ヶ月前のルルシェとイグニスのように。

「やっぱり見られてたんだ……」

 この本を書いたのは雨の日に見た女性で間違いないだろう。でも顔もよく見えなかったし、どこに住む誰かも分からない。本がどれだけ出回ったのかは不明だが、今さら本を出すのをやめてくれと言うのは無理がある。

 ルルシェとイグニスが出来ているのではないかと噂されるほうがマシだった。噂はいずれ消えるものだが、本という形を持ち、しかも令嬢たちに知れ渡ったとなると……。

 同性愛は罪に問われるわけではない。しかし国教の教えではつつしむべきだとされており、嫌悪感を持つ人もいるから、本のせいでイグニスは男色家だから女嫌いなのかと勘違いされるのはまずい。王族が国教の教えを無視するなど、貴族たちはまず許さないだろう。

 ルルシェはテーブルに本を置き、両手で顔を覆った。

(どうしたらいいんだろ……)

 どれだけの人がこの本を読んだのか。今は令嬢たちだけだとしても、いずれは国中に広まるのではないか。誰かに本に出てくる二人はルルシェとイグニスなのではないかと訊かれたらどうしよう?

 だからイグニス王子は結婚しないのかと、勝手に納得されたらたまったものではない。

(殿下はいずれ、国王になる方なのに)

 現国王アイオンには子供がいない。体の弱い彼は、数年以内にイグニスに譲位すると宣言している。男色家の国王を国民が認めるだろうか? 世継ぎを残さなければならないのに。

 この本のせいでイグニスが王になれなかったら、死んでお詫びしたいぐらいだ。いっそ今すぐに、彼の前から消えたらどうだろう。

「側近を辞めたら、なんとかなるのかな……」

 考えかけ、すぐに駄目だと思い直す。いま自分がイグニスの側近を辞めたら、それこそ本の内容は真実だと認めるようなものだ。ますます怪しまれてしまう。

(どうしよう。どうしたらいいの?)

 数十分、数時間たってもルルシェはソファに座ったまま悩んでいた。イグニスの側近としてどう動くべきか、延々と考え続けていた。
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