37 / 52
35 二人きりの旅行2
しおりを挟む
翌日は普段よりずっと遅い時刻に起きた。もう朝食の時間が終わる頃だ。着ていた備え付けの浴衣を脱いで身支度を整えると、綾太さんは少し寂しそうな顔をしている。
「なに? どうしたの」
「いや……。真梨花は本当に和装が似合うからさ。でも夜にまた浴衣姿が見れるんだからいいか」
「着てもすぐ脱がすくせに……」
低い声でぼそっと苦情を言うと、彼はまったく反省してない顔で笑っている。昨夜はお風呂上りに浴衣を着たものの、久しぶりの着物を堪能する暇はほとんどなかった。平織りの木綿地に百合の花の模様が入った可愛い浴衣だったが、すぐ脱ぐことに――というより脱がされることになったので。
でも恋人と二人きりの旅行でこんな事態になるのは当然予想していたことだから、綾太さんを怒る気持ちなんか全然ない。ただ恥ずかしいだけだ。
勇気を振り絞って彼の部屋のドアをノックしたあの夜から、私はかなりハイペースで経験を積んでいる。生き急いでいるような感覚があるが私の寿命は大丈夫だろうか。
部屋を出た私と綾太さんは朝食の会場で好きなものを好きなだけ食べ、部屋に戻ってお茶を飲んでから出掛けることにした。あまり遠出する予定はない。温泉街をぶらつくだけである。
温泉地とあって観光客は多かったが、東京から遠く離れた場所なので知り合いに出会う事もなかった。蒸し饅頭の有名な店で会社の人向けにお土産を買い、自分のためにキーホルダーを選んだりする。
ご当地キーホルダーが意外と可愛かったから、ふたつ買って千穂先輩にひとつあげよう。
昼食も外で取って部屋に戻ってきたのだが、夕方頃になって事件は起きた。いや、最初は事件という感覚はなかった。ただ私のスマホに電話がかかってきただけで、それが大事件に発展するとは全く予想もしていなかった。
「あ、電話だ」
「お母さん?」
「うん。ちょっと話してくるね」
母は京都に移って叔母一家とのんびり暮らしているが、やはり東京に残してきた一人娘がかなり気になるらしい。月に二度のペースで電話があり、その度に大丈夫だと報告している。今回も同じことを訊かれるだろう。
リビングになった部屋から離れ、洗面スペースのある場所でロックを解除する。
「もしもし?」
『真梨花、私よ。どう? 元気でやってる?』
「やってるよ。少し寒くなってきたけどお母さんの体調はどう? 京都のほうが寒いでしょ」
『寒いわよぉ。京都は底冷えするからね。でも涼子と雄二さんのお陰で体調はいいわ。ところで真梨花、すごいマンションに住んでるわね』
「えっ……」
母の言葉にしばし絶句する。住所を知らせてから一ヶ月たっても何も言わないから、あの高級マンションについては気にしていないんだろうと思っていた。なのになぜ、今それを言うのか。
『涼子がタブレットっていう機械を使って写真を見せてくれたのよ。今は地図から写真も見れるのね。私はスマホとか使うのが苦手で、今まで知らなかったわ』
「そ、そうだったんだ。もう知ってるかと思ってた」
『しかも真梨花の住所だと、最上階に近いとこに住んでるんじゃないの?』
「……いや、そんなことは」
近いどころか最上階なんだけど。
『賃貸だとしても、かなりのお金が掛かってるでしょう。彼氏さんとお金は折半してるの? それとも分譲かしら。どっち?』
「さ、さあ……そう言えば訊いたことなかったかも」
『付き合ってるのに知らないの? 本当にそこに住んでるんでしょうね。私を安心させるために、住所だけ借りました――なんて事ないわよね?』
「ないよ。本当にそこに住んでるって」
『彼氏さんの写真だって送ってこないし……。今そこに真梨花の彼氏さんいるの? いるんだったらせめて声ぐらい聞かせてくれないかしら』
あああ……。もうどう答えるのがベストなのかよく分からない。いないと答えたら嘘かと疑われるだろうし、ここで綾太さんに出てもらったら母は結婚を約束する流れに持って行く気じゃないだろうか。でも綾太さんなら、母の圧力からうまく逃れられる――かも?
『ちょっと真梨花。聞いてる?』
「き、きいてるけど……私の彼氏はすごく多忙なひとで、今はマンションにいないの。また今度、電話に出てもらうから」
『そうやってまた今度、また今度と延ばしてきたじゃないの。何時だったらお家にいる方なの? 時間をずらして掛けるわ』
もう無理かも。
絶望的な気持ちになった瞬間、私の手からスマホが抜き取られた。
「――あれ?」
「もしもし。突然電話を代わってすみません。僕は真梨花さんとお付き合いをさせて頂いている者で、北条綾太と申します」
「なっ……!? 綾太さん!」
「なに? どうしたの」
「いや……。真梨花は本当に和装が似合うからさ。でも夜にまた浴衣姿が見れるんだからいいか」
「着てもすぐ脱がすくせに……」
低い声でぼそっと苦情を言うと、彼はまったく反省してない顔で笑っている。昨夜はお風呂上りに浴衣を着たものの、久しぶりの着物を堪能する暇はほとんどなかった。平織りの木綿地に百合の花の模様が入った可愛い浴衣だったが、すぐ脱ぐことに――というより脱がされることになったので。
でも恋人と二人きりの旅行でこんな事態になるのは当然予想していたことだから、綾太さんを怒る気持ちなんか全然ない。ただ恥ずかしいだけだ。
勇気を振り絞って彼の部屋のドアをノックしたあの夜から、私はかなりハイペースで経験を積んでいる。生き急いでいるような感覚があるが私の寿命は大丈夫だろうか。
部屋を出た私と綾太さんは朝食の会場で好きなものを好きなだけ食べ、部屋に戻ってお茶を飲んでから出掛けることにした。あまり遠出する予定はない。温泉街をぶらつくだけである。
温泉地とあって観光客は多かったが、東京から遠く離れた場所なので知り合いに出会う事もなかった。蒸し饅頭の有名な店で会社の人向けにお土産を買い、自分のためにキーホルダーを選んだりする。
ご当地キーホルダーが意外と可愛かったから、ふたつ買って千穂先輩にひとつあげよう。
昼食も外で取って部屋に戻ってきたのだが、夕方頃になって事件は起きた。いや、最初は事件という感覚はなかった。ただ私のスマホに電話がかかってきただけで、それが大事件に発展するとは全く予想もしていなかった。
「あ、電話だ」
「お母さん?」
「うん。ちょっと話してくるね」
母は京都に移って叔母一家とのんびり暮らしているが、やはり東京に残してきた一人娘がかなり気になるらしい。月に二度のペースで電話があり、その度に大丈夫だと報告している。今回も同じことを訊かれるだろう。
リビングになった部屋から離れ、洗面スペースのある場所でロックを解除する。
「もしもし?」
『真梨花、私よ。どう? 元気でやってる?』
「やってるよ。少し寒くなってきたけどお母さんの体調はどう? 京都のほうが寒いでしょ」
『寒いわよぉ。京都は底冷えするからね。でも涼子と雄二さんのお陰で体調はいいわ。ところで真梨花、すごいマンションに住んでるわね』
「えっ……」
母の言葉にしばし絶句する。住所を知らせてから一ヶ月たっても何も言わないから、あの高級マンションについては気にしていないんだろうと思っていた。なのになぜ、今それを言うのか。
『涼子がタブレットっていう機械を使って写真を見せてくれたのよ。今は地図から写真も見れるのね。私はスマホとか使うのが苦手で、今まで知らなかったわ』
「そ、そうだったんだ。もう知ってるかと思ってた」
『しかも真梨花の住所だと、最上階に近いとこに住んでるんじゃないの?』
「……いや、そんなことは」
近いどころか最上階なんだけど。
『賃貸だとしても、かなりのお金が掛かってるでしょう。彼氏さんとお金は折半してるの? それとも分譲かしら。どっち?』
「さ、さあ……そう言えば訊いたことなかったかも」
『付き合ってるのに知らないの? 本当にそこに住んでるんでしょうね。私を安心させるために、住所だけ借りました――なんて事ないわよね?』
「ないよ。本当にそこに住んでるって」
『彼氏さんの写真だって送ってこないし……。今そこに真梨花の彼氏さんいるの? いるんだったらせめて声ぐらい聞かせてくれないかしら』
あああ……。もうどう答えるのがベストなのかよく分からない。いないと答えたら嘘かと疑われるだろうし、ここで綾太さんに出てもらったら母は結婚を約束する流れに持って行く気じゃないだろうか。でも綾太さんなら、母の圧力からうまく逃れられる――かも?
『ちょっと真梨花。聞いてる?』
「き、きいてるけど……私の彼氏はすごく多忙なひとで、今はマンションにいないの。また今度、電話に出てもらうから」
『そうやってまた今度、また今度と延ばしてきたじゃないの。何時だったらお家にいる方なの? 時間をずらして掛けるわ』
もう無理かも。
絶望的な気持ちになった瞬間、私の手からスマホが抜き取られた。
「――あれ?」
「もしもし。突然電話を代わってすみません。僕は真梨花さんとお付き合いをさせて頂いている者で、北条綾太と申します」
「なっ……!? 綾太さん!」
5
あなたにおすすめの小説
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
恋は襟を正してから-鬼上司の不器用な愛-
プリオネ
恋愛
せっかくホワイト企業に転職したのに、配属先は「漆黒」と噂される第一営業所だった芦尾梨子。待ち受けていたのは、大勢の前で怒鳴りつけてくるような鬼上司、獄谷衿。だが梨子には、前職で培ったパワハラ耐性と、ある"処世術"があった。2つの武器を手に、梨子は彼の厳しい指導にもたくましく食らいついていった。
ある日、梨子は獄谷に叱責された直後に彼自身のミスに気付く。助け舟を出すも、まさかのダブルミスで恥の上塗りをさせてしまう。責任を感じる梨子だったが、獄谷は意外な反応を見せた。そしてそれを境に、彼の態度が柔らかくなり始める。その不器用すぎるアプローチに、梨子も次第に惹かれていくのであった──。
恋心を隠してるけど全部滲み出ちゃってる系鬼上司と、全部気付いてるけど部下として接する新入社員が織りなす、じれじれオフィスラブ。
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~
猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」
突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。
冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。
仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。
「お前を、誰にも渡すつもりはない」
冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。
これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?
割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。
不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。
これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。
あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。
まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。
あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……
夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。
イケメン警視、アルバイトで雇った恋人役を溺愛する。
楠ノ木雫
恋愛
蒸発した母の借金を擦り付けられた主人公瑠奈は、お見合い代行のアルバイトを受けた。だが、そのお見合い相手、矢野湊に借金の事を見破られ3ヶ月間恋人役を務めるアルバイトを提案された。瑠奈はその報酬に飛びついたが……
【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる