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それでもまだ“たぶん”の距離
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夜の社内は、昼の喧騒が嘘のように静かだった。
空調の音と、どこかのプリンターが最後の一枚を吐き出す音だけが響く。
デスクの明かりがぽつぽつと残り、誰かがまだ働いていることを知らせている。
経理部の奥、普段より少し乱雑な会議室の一角で、凛と光が並んで資料の仕分けをしていた。
月末に向けた提出書類のチェックと照合で、ここ数日バタついていた業務も、ようやく終わりが見えてきた。
積み上がっていた紙の山が少しずつ低くなり、緊張感がやっと緩んでいく。
凛は眼鏡越しに資料の数字を確認し、ペンを走らせていた。
その横で光は仕分け済みの束を両手で抱え、慎重にクリップでまとめていた。
何度も繰り返した作業。
何も特別ではない、いつも通りの時間。
だけど、ふたりにとってはその“いつも通り”が少しずつ変わってきていた。
凛の指先が、ある書類の角に触れて止まる。
光の方へ顔を向けず、少しだけ目を細めて書類を傾けた。
「これ、印刷ミスですね。数字が重なっている」
「あ、本当だ。差し替えてきます」
光は素早く立ち上がると、資料を手にして会議室を出た。
その背中を、凛はふとした表情で見送る。
言葉にするにはまだ早い、けれど確かに心のどこかで変化を感じている。
そんな表情だった。
数分後、光が戻ってくると、手元の束はほぼ仕上がっていた。
残る作業はあとわずか。
凛は時計をちらりと見て、ほっと息をつく。
光も黙って隣に座り直し、最後の資料をめくりながら、ぽつりとつぶやいた。
「……凜さん、俺たちって」
凛が顔を上げる。
光は書類の束を胸元に抱えたまま、まっすぐに凛の方を見ていた。
瞳には緊張と、少しだけの期待と、照れ隠しのすべてが浮かんでいた。
「俺たち、もう……付き合ってます、よね?」
その言葉に、凛は一瞬だけまばたきをした。
すぐに答えようとしたわけではない。
自分の中にある感情と言葉の整理に、少し時間を使っただけだった。
書類の束から手を離し、凛は手元を見つめながら口を開く。
「……まだ、明確にはしてませんよね」
光は固まったままだった。
返ってくる答えを待つ時間が、やけに長く感じられた。
その間に、資料の角が手の中で少し折れてしまう。
「でも、」
凛はようやく視線を上げて、光の目を見た。
「たぶん」
静かな声だった。
感情を強調しないその言葉は、けれど確かに甘さを含んでいた。
光はその場で小さく笑った。
声を出して笑ったわけではない。
だけど、表情が一気に崩れ、目尻がゆるみ、頬が紅潮するのがはっきりとわかった。
「たぶん、って……それ、最高です」
凛はふっと口元をゆるめた。
それは微笑と呼ぶには控えめで、けれど光にははっきりとわかる笑みだった。
「軽率に決定されるよりは、いいでしょう?」
「うん。すっごく、いいです」
光の声は、どこまでもまっすぐだった。
その声に嘘がないことを、凛は耳だけでなく胸の奥で感じていた。
ふたりの間に流れる空気が、ひとつやわらかくなった。
まだ手を伸ばすには少し距離がある。
けれど、その距離さえ心地よく感じられるほど、互いの気持ちは近くにあった。
資料を机に置き、凛は小さくため息をつく。
「……これで、全部ですね」
光も肩の力を抜いてうなずいた。
「はい。全部終わりました。今日も、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
ふたりは並んで席を立ち、最後の確認をしながら電気を落とす。
静まり返った会議室の中、残るのはほんのわずかなぬくもりだけ。
けれどそれは、確かにふたりのものだった。
名前のない関係、でも確かな絆。
“たぶん”という言葉の奥に、もう一歩先の未来が見えていた。
空調の音と、どこかのプリンターが最後の一枚を吐き出す音だけが響く。
デスクの明かりがぽつぽつと残り、誰かがまだ働いていることを知らせている。
経理部の奥、普段より少し乱雑な会議室の一角で、凛と光が並んで資料の仕分けをしていた。
月末に向けた提出書類のチェックと照合で、ここ数日バタついていた業務も、ようやく終わりが見えてきた。
積み上がっていた紙の山が少しずつ低くなり、緊張感がやっと緩んでいく。
凛は眼鏡越しに資料の数字を確認し、ペンを走らせていた。
その横で光は仕分け済みの束を両手で抱え、慎重にクリップでまとめていた。
何度も繰り返した作業。
何も特別ではない、いつも通りの時間。
だけど、ふたりにとってはその“いつも通り”が少しずつ変わってきていた。
凛の指先が、ある書類の角に触れて止まる。
光の方へ顔を向けず、少しだけ目を細めて書類を傾けた。
「これ、印刷ミスですね。数字が重なっている」
「あ、本当だ。差し替えてきます」
光は素早く立ち上がると、資料を手にして会議室を出た。
その背中を、凛はふとした表情で見送る。
言葉にするにはまだ早い、けれど確かに心のどこかで変化を感じている。
そんな表情だった。
数分後、光が戻ってくると、手元の束はほぼ仕上がっていた。
残る作業はあとわずか。
凛は時計をちらりと見て、ほっと息をつく。
光も黙って隣に座り直し、最後の資料をめくりながら、ぽつりとつぶやいた。
「……凜さん、俺たちって」
凛が顔を上げる。
光は書類の束を胸元に抱えたまま、まっすぐに凛の方を見ていた。
瞳には緊張と、少しだけの期待と、照れ隠しのすべてが浮かんでいた。
「俺たち、もう……付き合ってます、よね?」
その言葉に、凛は一瞬だけまばたきをした。
すぐに答えようとしたわけではない。
自分の中にある感情と言葉の整理に、少し時間を使っただけだった。
書類の束から手を離し、凛は手元を見つめながら口を開く。
「……まだ、明確にはしてませんよね」
光は固まったままだった。
返ってくる答えを待つ時間が、やけに長く感じられた。
その間に、資料の角が手の中で少し折れてしまう。
「でも、」
凛はようやく視線を上げて、光の目を見た。
「たぶん」
静かな声だった。
感情を強調しないその言葉は、けれど確かに甘さを含んでいた。
光はその場で小さく笑った。
声を出して笑ったわけではない。
だけど、表情が一気に崩れ、目尻がゆるみ、頬が紅潮するのがはっきりとわかった。
「たぶん、って……それ、最高です」
凛はふっと口元をゆるめた。
それは微笑と呼ぶには控えめで、けれど光にははっきりとわかる笑みだった。
「軽率に決定されるよりは、いいでしょう?」
「うん。すっごく、いいです」
光の声は、どこまでもまっすぐだった。
その声に嘘がないことを、凛は耳だけでなく胸の奥で感じていた。
ふたりの間に流れる空気が、ひとつやわらかくなった。
まだ手を伸ばすには少し距離がある。
けれど、その距離さえ心地よく感じられるほど、互いの気持ちは近くにあった。
資料を机に置き、凛は小さくため息をつく。
「……これで、全部ですね」
光も肩の力を抜いてうなずいた。
「はい。全部終わりました。今日も、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
ふたりは並んで席を立ち、最後の確認をしながら電気を落とす。
静まり返った会議室の中、残るのはほんのわずかなぬくもりだけ。
けれどそれは、確かにふたりのものだった。
名前のない関係、でも確かな絆。
“たぶん”という言葉の奥に、もう一歩先の未来が見えていた。
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