祈りのかたち~若き仏師と僧侶が紡ぐ、静かな再生の物語

中岡 始

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第4章 彫る者と、祈る者

誰にも祈られなかった人の、ために

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本堂の内陣に差し込む光は、ゆっくりと色を変えながら、柱の影を長く伸ばしていた。  
須弥壇の前に並んで座る三人の輪郭にも、ほのかな夕映えが染まり始めている。

どこか遠くで、鳥が一声だけ鳴いた。  
その音が静けさをいっそう際立たせる。

智章の問いに応えた後も、慶彦はしばらく黙っていた。  
仏を彫ることが魂を削ることに近いかもしれないという感覚。  
それを言葉にしてしまったことで、何かが胸の奥でほどけかけていた。  
だが、それが何なのかはまだ分からない。  
あるいは、分かっていて口にできないのかもしれなかった。

須弥壇の中央は、変わらず空白のままだ。  
だがその空白は、先ほどよりも意味を帯びて見えた。  
像がまだ生まれていないことが、ただの“未完成”ではなく、  
いまここに在る者たちの思考と祈りを受け止める“器”のようにも思えた。

そしてようやく、慶彦はぽつりと口を開いた。

「……あの像は」

言葉は、喉の奥で形を整えながら、慎重に落ちていく。

「誰にも祈られなかった人の、代わりに彫ったんです」

その声はかすかに震えていたが、言葉そのものには確かさがあった。  
抑揚はなかった。  
けれどそのぶん、沈黙と沈黙のあいだにしっかりと着地していた。

智章は何も言わなかった。  
ただ、少しだけ視線を須弥壇から外し、畳の模様の一点をじっと見つめていた。  
言葉を返すにはあまりにも重たく、そして簡単に何かを言えば、  
その言葉が持つ深さを損ねてしまうと直感していた。

時間がゆっくりと、呼吸のように流れた。

慶彦自身も、その言葉の意味をいま、あらためて自分で受け止めていた。

蒼一の名前は、どこにも出さなかった。  
けれどその名が込められた時間が、手の中にあったことは確かだった。

彫るという行為は、自分自身を救うためではなかった。  
何よりもまず、誰かの“残されてしまった時間”を、形にするためのものだった。  
祈る言葉を与えられなかった者、誰にも祈られることなく過ぎ去った者。  
彼らのために、自分の中にだけ残った記憶が、  
せめて祈りのかたちを持てるようにと、そう思って彫った。

それがどうしようもなく個人的で、  
仏師としての仕事から逸れていたとしても、  
その像はそうして生まれてしまったのだった。

俊範が、穏やかな声で口を開いた。

「……それなら、なおさら、あなたに彫っていただきたいのです」

その言葉は、驚くほどやさしかった。  
受け入れるというより、包み込むような声音だった。

「祈ることを知っている人が仏を彫ることも大切ですが、  
 祈れなかった人を知っている人の手による像は、また別の意味を持ちます」

慶彦は、視線を須弥壇の中心に落とした。  
その空白の上に、夕日が淡く差し込んでいる。  
その光が、まるで誰かの掌のように感じられた。

仏像を彫るということ。  
それは何かを成し遂げることではなく、  
誰かの“未完成の祈り”を静かに支えることなのかもしれない。

口を開いて何かを言おうとしたが、  
うまく言葉が定まらなかった。

それでも、慶彦は小さくうなずいた。  
深くではない。だが、確かにその場に、  
意志のかけらが置かれた。

それが“はい”という答えになるかどうかはまだ分からない。  
けれど、拒んでいないという意思だけは、はっきりと空間に伝わった。

智章は、そのうなずきを静かに見ていた。  
まるで、それだけで十分だと言うように。

俊範は目を細めて、わずかに微笑んだ。

沈黙のなかに、祈りの予感が宿りはじめていた。

須弥壇の上にはまだ像はない。  
だが、そこには確かに、“生まれるべき祈り”が立ち上がりつつあった。

仏を祀るのではない。  
仏を通して、自分も誰かもまた、生き直していく。

そう思えるだけで、  
いまはほんの少し、手を動かす理由に近づけたような気がした。
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