君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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夜の香りのなかで

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店内の時計が九時を少し過ぎたころ、店長の小さな合図が視界の端に入った。次の客が到着したという合図。涼希――今は“りょう”としての彼は、グラスの水滴を親指でなぞりながら、わずかに視線を横へ送った。

その仕草だけで、自分の役目が終わりに近づいていることを理解する。会話が盛り上がっているわけでも、何かを深く共有したわけでもない。ただ、そっと置かれた言葉と、たしかに存在していた沈黙が、今夜のすべてだった。

「りょうさん、お時間でーす」
スタッフの明るい声が近づいてくる。

涼希は、微笑を保ったままグラスを置いた。音はしなかった。手を引くタイミングとガラスの重量が、指先のなかでぴたりと調和していたからだ。

立ち上がろうとしたその瞬間だった。

「また……いるんですか、ここに」

低く、けれど不思議な温度を孕んだ声が、すぐ背中越しに届いた。

涼希は立ちかけた動作をわずかに止め、振り返らずに答えた。

「たぶん、しばらくは」

それは予定でも、約束でもなかった。ただ、その言葉の選び方には、涼希自身が思っていた以上に、なにか感情の残響のようなものが含まれていた。

このまま立ち去ればいい。名残を引く素振りなど見せず、何事もなかったように次の席へ向かえばいい。だが、そう思った矢先、身体がひとりでに動いた。

鏡。

カウンターの奥に設置された装飾用のミラー。視線をそちらに向けると、そこに映っていたのは、ほんの数秒前まで向き合っていた男の姿だった。

駒川悠生。

けれど、その名を、声に出して呼んだわけではない。
ただ、映ったその目を見たとき、涼希は身体の芯がきゅっと締まるのを感じた。

あの目を、自分は知っている。

昼の世界で、同じビルのフロアで、同じコピー機の前や給湯室の片隅で…ふとした瞬間に見ていた。
疲れを隠そうともしない、けれど誰にも頼らない、冷めていて、それでいてどこか寂しげな、あの目。

同僚としての駒川と、今目の前にいる客。それが同一人物であると、ここで確信する理由などどこにもなかった。スーツではない。眼鏡もかけていない。名乗られたわけでも、何かの癖があったわけでもない。

けれど…目が同じだった。
もっと言えば、目に宿る“無音の叫び”の質が、同じだった。

それに気づいた瞬間、涼希の胸の内側に、一気に熱が押し寄せてきた。
仮面の内側でだけ、ざわついた。
だが、それを誰にも悟らせることなく、彼は顔に微笑を保ったまま、静かに視線を逸らした。

気づかれたら、すべてが終わる。
彼が自分を知ってしまったら、この関係はもう二度と戻らない。

りょうはりょうであり、中野涼希ではない。
これは、夜の仮面が許す短い夢。

あの目に映っているのは“りょう”であって、涼希ではないのだ。
だからこそ…夢であり続けるしかなかった。

涼希はゆっくりと踵を返し、歩き出した。レースの裾が空気を揺らし、ヒールの音が吸音の効いた床にかすかに響いた。

その背中に、声は追ってこなかった。
だからこそ、一歩、また一歩と進みながら、心のなかで言葉を繰り返す。

ここは夢の世界。忘れなきゃ、いけない。
名前も、声も、まなざしも。
彼が中野涼希を思い出すその前に、
りょうである自分が、夜のなかに溶けていかなければならない。

一瞬だけ、ふと振り返った。

鏡の奥の彼は、まだ同じ姿勢でカウンターに座り、グラスを手にしていた。
その姿が、どこか痛ましく、そしてあまりにも静かに見えた。

次の客のもとへと向かうその歩みは、いつものようにしなやかで、優雅だったはずだ。
けれど、胸の内には確かに、ひとつの影が沈み込んでいた。

りょうとして過ごす夜が、いつもより少しだけ、
痛みを伴っていた。
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