君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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鉛の朝、灰色のオフィス

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朝の空気は重たかった。灰色の雲が低く垂れこめ、光はあるはずなのに、どこかに吸い取られてしまったかのように街は鈍く濁っていた。地下鉄の改札を抜けて、駒川悠生はいつもの通勤路を無言で歩いた。周囲の人波にまぎれ、誰とも視線を合わせず、呼吸のリズムだけを頼りにビルの自動ドアをくぐる。

エレベーターは混んでいたが、彼は人の背中しか見ない。言葉もない。耳に入るのは携帯の着信音やニュースの読み上げだけ。顔の表情筋は朝から動いていない。

八階。扉が開いても誰も譲らず、流れるようにフロアに降り立った。白い天井、消毒液の匂い、コピー機のかすかな振動音。何もかもが、いつも通りだった。

駒川は自分のデスクに荷物を置くと、椅子に深く腰を沈めた。ジャケットは脱がず、ネクタイも締めたまま。モニターにログインし、最初に目に入るのはスケジュール表の空白。会議の予定も、訪問の予定もない。メールの通知もわずか数件。

今日も、ただ時間が流れていくだけだ。

机の上には昨日と同じファイルが置かれていた。未整理のまま、触れられるのを待っている。だが、駒川の手はすぐには動かない。まず、手元の缶コーヒーに指をかける。少しぬるくなった苦味が、舌の奥を通りすぎていく。

目の下には、くっきりとしたクマが沈んでいた。特に気にする素振りを見せるわけでもなく、それはもう「自分の顔の一部」として馴染んでいた。

その数メートル先、静かにタイピングの音が響いていた。中野涼希だ。

同じ部署、同じ28歳。だが、駒川が彼の存在を意識することはほとんどなかった。涼希は常に静かで、誰とも余計な会話をせず、自分の作業を淡々とこなす。地味なグレージュのカーディガン、小さめの声、細身の体型。取り立てて目立つこともなく、どこにでもいる「おとなしい社員」のひとりとして扱われていた。

ただ、駒川の視線がふと彼に向いたそのとき、思わず動きを止めた。

斜めから見えたその横顔に、なぜか視線が止まった。整った鼻梁、白く滑らかな頬、そして…長いまつげが、伏し目がちな眼差しの下で柔らかく影を作っていた。

こんな顔だったか。

心の中でつぶやく。

なんか、変わった奴だよな。

声に出すわけでもなく、冗談めかして笑うわけでもない。ただ、ごく自然にその言葉が浮かんできた。

まつげが長いことに気づいたのは、初めてだった。というより、それに気づくほど、彼の顔をまじまじと見たことがなかった。だがその一瞬、駒川の中でなにかが静かにさざ波を立てた。

涼希は視線を上げなかった。自分が見られていることに気づいた様子もなかった。ただ、指の動きは途切れることなくキーボードを叩き続けていた。

音もなく、沈黙のまま時間が過ぎていく。電話のベルが鳴るわけでもなく、誰かが笑い声をあげるわけでもない。空調の音だけが、デスク間を流れていた。

昼になっても、駒川は自席にいた。昼食をとりに出る同僚たちの足音が去っていき、オフィスががらんとした空間に変わる。その中で一人、コンビニのサンドイッチをかじりながら、ぼんやりとモニターを見ていた。味はなかった。ただ、咀嚼することで時間が過ぎる。

ふと、給湯室のほうから小さな気配がした。そちらに目をやると、涼希が静かに紙コップを持って戻っていくところだった。背筋はまっすぐで、歩幅は小さいのに無駄がない。まるで空気のように動く。だが、やはりその横顔は美しかった。

駒川はもう一度、心の中でつぶやいた。

気のせいじゃないよな。

けれど、言葉にはしない。関心を持ったと思われることすら、どこかで避けたくなる。
誰にも干渉されず、誰も干渉せず、それでも何かを感じてしまう瞬間がある。

それが、今だった。

灰色の空はまだ変わらず、窓の向こうには夕方の気配が滲み始めていた。だが、オフィスの中では、その変化に気づく者はほとんどいなかった。駒川も、涼希も、それぞれの場所で、自分の仮面の内側に静かに閉じこもっていた。

昼の時間は、何事もなく終わっていく。
けれど、どこかで小さな揺らぎが始まっていた。
それは、言葉にもならないまま、胸の奥に沈んでいった。
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