6 / 61
鉛の朝、灰色のオフィス
しおりを挟む
朝の空気は重たかった。灰色の雲が低く垂れこめ、光はあるはずなのに、どこかに吸い取られてしまったかのように街は鈍く濁っていた。地下鉄の改札を抜けて、駒川悠生はいつもの通勤路を無言で歩いた。周囲の人波にまぎれ、誰とも視線を合わせず、呼吸のリズムだけを頼りにビルの自動ドアをくぐる。
エレベーターは混んでいたが、彼は人の背中しか見ない。言葉もない。耳に入るのは携帯の着信音やニュースの読み上げだけ。顔の表情筋は朝から動いていない。
八階。扉が開いても誰も譲らず、流れるようにフロアに降り立った。白い天井、消毒液の匂い、コピー機のかすかな振動音。何もかもが、いつも通りだった。
駒川は自分のデスクに荷物を置くと、椅子に深く腰を沈めた。ジャケットは脱がず、ネクタイも締めたまま。モニターにログインし、最初に目に入るのはスケジュール表の空白。会議の予定も、訪問の予定もない。メールの通知もわずか数件。
今日も、ただ時間が流れていくだけだ。
机の上には昨日と同じファイルが置かれていた。未整理のまま、触れられるのを待っている。だが、駒川の手はすぐには動かない。まず、手元の缶コーヒーに指をかける。少しぬるくなった苦味が、舌の奥を通りすぎていく。
目の下には、くっきりとしたクマが沈んでいた。特に気にする素振りを見せるわけでもなく、それはもう「自分の顔の一部」として馴染んでいた。
その数メートル先、静かにタイピングの音が響いていた。中野涼希だ。
同じ部署、同じ28歳。だが、駒川が彼の存在を意識することはほとんどなかった。涼希は常に静かで、誰とも余計な会話をせず、自分の作業を淡々とこなす。地味なグレージュのカーディガン、小さめの声、細身の体型。取り立てて目立つこともなく、どこにでもいる「おとなしい社員」のひとりとして扱われていた。
ただ、駒川の視線がふと彼に向いたそのとき、思わず動きを止めた。
斜めから見えたその横顔に、なぜか視線が止まった。整った鼻梁、白く滑らかな頬、そして…長いまつげが、伏し目がちな眼差しの下で柔らかく影を作っていた。
こんな顔だったか。
心の中でつぶやく。
なんか、変わった奴だよな。
声に出すわけでもなく、冗談めかして笑うわけでもない。ただ、ごく自然にその言葉が浮かんできた。
まつげが長いことに気づいたのは、初めてだった。というより、それに気づくほど、彼の顔をまじまじと見たことがなかった。だがその一瞬、駒川の中でなにかが静かにさざ波を立てた。
涼希は視線を上げなかった。自分が見られていることに気づいた様子もなかった。ただ、指の動きは途切れることなくキーボードを叩き続けていた。
音もなく、沈黙のまま時間が過ぎていく。電話のベルが鳴るわけでもなく、誰かが笑い声をあげるわけでもない。空調の音だけが、デスク間を流れていた。
昼になっても、駒川は自席にいた。昼食をとりに出る同僚たちの足音が去っていき、オフィスががらんとした空間に変わる。その中で一人、コンビニのサンドイッチをかじりながら、ぼんやりとモニターを見ていた。味はなかった。ただ、咀嚼することで時間が過ぎる。
ふと、給湯室のほうから小さな気配がした。そちらに目をやると、涼希が静かに紙コップを持って戻っていくところだった。背筋はまっすぐで、歩幅は小さいのに無駄がない。まるで空気のように動く。だが、やはりその横顔は美しかった。
駒川はもう一度、心の中でつぶやいた。
気のせいじゃないよな。
けれど、言葉にはしない。関心を持ったと思われることすら、どこかで避けたくなる。
誰にも干渉されず、誰も干渉せず、それでも何かを感じてしまう瞬間がある。
それが、今だった。
灰色の空はまだ変わらず、窓の向こうには夕方の気配が滲み始めていた。だが、オフィスの中では、その変化に気づく者はほとんどいなかった。駒川も、涼希も、それぞれの場所で、自分の仮面の内側に静かに閉じこもっていた。
昼の時間は、何事もなく終わっていく。
けれど、どこかで小さな揺らぎが始まっていた。
それは、言葉にもならないまま、胸の奥に沈んでいった。
エレベーターは混んでいたが、彼は人の背中しか見ない。言葉もない。耳に入るのは携帯の着信音やニュースの読み上げだけ。顔の表情筋は朝から動いていない。
八階。扉が開いても誰も譲らず、流れるようにフロアに降り立った。白い天井、消毒液の匂い、コピー機のかすかな振動音。何もかもが、いつも通りだった。
駒川は自分のデスクに荷物を置くと、椅子に深く腰を沈めた。ジャケットは脱がず、ネクタイも締めたまま。モニターにログインし、最初に目に入るのはスケジュール表の空白。会議の予定も、訪問の予定もない。メールの通知もわずか数件。
今日も、ただ時間が流れていくだけだ。
机の上には昨日と同じファイルが置かれていた。未整理のまま、触れられるのを待っている。だが、駒川の手はすぐには動かない。まず、手元の缶コーヒーに指をかける。少しぬるくなった苦味が、舌の奥を通りすぎていく。
目の下には、くっきりとしたクマが沈んでいた。特に気にする素振りを見せるわけでもなく、それはもう「自分の顔の一部」として馴染んでいた。
その数メートル先、静かにタイピングの音が響いていた。中野涼希だ。
同じ部署、同じ28歳。だが、駒川が彼の存在を意識することはほとんどなかった。涼希は常に静かで、誰とも余計な会話をせず、自分の作業を淡々とこなす。地味なグレージュのカーディガン、小さめの声、細身の体型。取り立てて目立つこともなく、どこにでもいる「おとなしい社員」のひとりとして扱われていた。
ただ、駒川の視線がふと彼に向いたそのとき、思わず動きを止めた。
斜めから見えたその横顔に、なぜか視線が止まった。整った鼻梁、白く滑らかな頬、そして…長いまつげが、伏し目がちな眼差しの下で柔らかく影を作っていた。
こんな顔だったか。
心の中でつぶやく。
なんか、変わった奴だよな。
声に出すわけでもなく、冗談めかして笑うわけでもない。ただ、ごく自然にその言葉が浮かんできた。
まつげが長いことに気づいたのは、初めてだった。というより、それに気づくほど、彼の顔をまじまじと見たことがなかった。だがその一瞬、駒川の中でなにかが静かにさざ波を立てた。
涼希は視線を上げなかった。自分が見られていることに気づいた様子もなかった。ただ、指の動きは途切れることなくキーボードを叩き続けていた。
音もなく、沈黙のまま時間が過ぎていく。電話のベルが鳴るわけでもなく、誰かが笑い声をあげるわけでもない。空調の音だけが、デスク間を流れていた。
昼になっても、駒川は自席にいた。昼食をとりに出る同僚たちの足音が去っていき、オフィスががらんとした空間に変わる。その中で一人、コンビニのサンドイッチをかじりながら、ぼんやりとモニターを見ていた。味はなかった。ただ、咀嚼することで時間が過ぎる。
ふと、給湯室のほうから小さな気配がした。そちらに目をやると、涼希が静かに紙コップを持って戻っていくところだった。背筋はまっすぐで、歩幅は小さいのに無駄がない。まるで空気のように動く。だが、やはりその横顔は美しかった。
駒川はもう一度、心の中でつぶやいた。
気のせいじゃないよな。
けれど、言葉にはしない。関心を持ったと思われることすら、どこかで避けたくなる。
誰にも干渉されず、誰も干渉せず、それでも何かを感じてしまう瞬間がある。
それが、今だった。
灰色の空はまだ変わらず、窓の向こうには夕方の気配が滲み始めていた。だが、オフィスの中では、その変化に気づく者はほとんどいなかった。駒川も、涼希も、それぞれの場所で、自分の仮面の内側に静かに閉じこもっていた。
昼の時間は、何事もなく終わっていく。
けれど、どこかで小さな揺らぎが始まっていた。
それは、言葉にもならないまま、胸の奥に沈んでいった。
20
あなたにおすすめの小説
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(2024.10.21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される
八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。
蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。
リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。
ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい……
スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)
ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる
cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。
「付き合おうって言ったのは凪だよね」
あの流れで本気だとは思わないだろおおお。
凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
【完結】おじさんダンジョン配信者ですが、S級探索者の騎士を助けたら妙に懐かれてしまいました
大河
BL
世界を変えた「ダンジョン」出現から30年──
かつて一線で活躍した元探索者・レイジ(42)は、今や東京の片隅で地味な初心者向け配信を続ける"おじさん配信者"。安物機材、スポンサーゼロ、視聴者数も控えめ。華やかな人気配信者とは対照的だが、その真摯な解説は密かに「信頼できる初心者向け動画」として評価されていた。
そんな平穏な日常が一変する。ダンジョン中層に災厄級モンスターが突如出現、人気配信パーティが全滅の危機に!迷わず単身で救助に向かうレイジ。絶体絶命のピンチを救ったのは、国家直属のS級騎士・ソウマだった。
冷静沈着、美形かつ最強。誰もが憧れる騎士の青年は、なぜかレイジを見た瞬間に顔を赤らめて……?
若き美貌の騎士×地味なおじさん配信者のバディが織りなす、年の差、立場の差、すべてを越えて始まる予想外の恋の物語。
僕を守るのは、イケメン先輩!?
刃
BL
僕は、なぜか男からモテる。僕は嫌なのに、しつこい男たちから、守ってくれるのは一つ上の先輩。最初怖いと思っていたが、守られているうち先輩に、惹かれていってしまう。僕は、いったいどうしちゃったんだろう?
孤毒の解毒薬
紫月ゆえ
BL
友人なし、家族仲悪、自分の居場所に疑問を感じてる大学生が、同大学に在籍する真逆の陽キャ学生に出会い、彼の止まっていた時が動き始める―。
中学時代の出来事から人に心を閉ざしてしまい、常に一線をひくようになってしまった西条雪。そんな彼に話しかけてきたのは、いつも周りに人がいる人気者のような、いわゆる陽キャだ。雪とは一生交わることのない人だと思っていたが、彼はどこか違うような…。
不思議にももっと話してみたいと、あわよくば友達になってみたいと思うようになるのだが―。
【登場人物】
西条雪:ぼっち学生。人と関わることに抵抗を抱いている。無自覚だが、容姿はかなり整っている。
白銀奏斗:勉学、容姿、人望を兼ね備えた人気者。柔らかく穏やかな雰囲気をまとう。
嫌いなあいつが気になって
水ノ瀬 あおい
BL
今しかない青春だから思いっきり楽しみたいだろ!?
なのに、あいつはいつも勉強ばかりして教室でもどこでも常に教科書を開いている。
目に入るだけでムカつくあいつ。
そんなあいつが勉強ばかりをする理由は……。
同じクラスの優等生にイラつきを止められない貞操観念緩々に見えるチャラ男×真面目で人とも群れずいつも一人で勉強ばかりする優等生。
正反対な二人の初めての恋愛。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる