君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

声の届かない距離

給湯室の扉を押すと、薄い機械音とともに、空調の音が一気に耳に入ってきた。コーヒーメーカーの低いうなりが、静かな空間の中で妙に大きく聞こえる。昼休み。ほとんどの社員は外に出ていて、フロアはひとときの空白を迎えていた。

駒川はマグカップを片手に、無言でボタンを押した。あたたかい黒い液体が、細い管からカップの底に流れ込み、香ばしい香りが鼻腔をかすめる。熱くも冷たくもない、どこか曖昧な時間の中で、彼の視線はただ一点を見つめていた。けれど、実際には何も見ていなかった。

「…失礼します」

その声が聞こえたのは、マシンがコーヒーを落とし終わる直前だった。

ドアの隙間から誰かが入ってくる気配があり、駒川がそちらに視線を向けると、中野涼希が静かに中へと足を踏み入れていた。相変わらず控えめな歩幅、無駄のない動作。まるで空気の流れに逆らわないように動いているかのようだった。

ふたりの目が、一瞬だけ合った。ほんの刹那、交わされる視線。それだけで、互いに軽く会釈を交わす。会話はない。声もない。ただ、それだけで充分だった。いや、それ以上のものは必要ない。社内でのふたりは、そういう関係だった。

涼希はコップを手に取り、無言のまま冷水を注いでいた。その横顔に影はなく、感情の痕跡も見えない。ただ、まつげの長さと頬の滑らかさが、わずかに光を受けて揺れていた。

駒川はカップを持ち直した。指先がカップの熱に触れ、その温度を確認するようにわずかに力が入る。けれど、内心は少しだけ乱れていた。理由のわからないざわめきが、胸の奥をかすかに通り過ぎていた。

そのときだった。涼希が水を注ぎ終えたタイミングで、もう一人分のスペースを開けるように、そっと後ろへ下がった。その際に口から零れた、ごく短い一言。

「ありがとう」

静かに、けれど確かに、耳に届いた。

低くて、やわらかな声だった。押し殺すような声ではないのに、壁に響くわけでもなく、ただ空気の中にふわりと溶け込むような発声。男の声なのに、不思議とまっすぐで、どこか人肌のような温度があった。

その瞬間、駒川の手からカップが滑りかけた。あわてて持ち直す。中のコーヒーが少し揺れて、カップの縁をわずかに濡らした。気づかれたかもしれないと一瞬思ったが、涼希はすでに背を向け、扉のほうへと向かっていた。

駒川はその背中を見送った。扉が音もなく閉まると、再び給湯室は無音に包まれた。

何だったんだ、今のは。

そう思いながらも、耳にはまだその声の余韻が残っていた。どこかで聞いたことがある気がした。ただの気のせいかもしれない。だが、たしかにその声には既視感に似た感触があった。

自分が何に反応したのかも、正直なところはっきりしなかった。ただ、あの「ありがとう」という一言が、耳の奥に不自然なまでに残っていた。淡い音、けれど輪郭のはっきりした声。声帯ではなく、胸の奥で響くようなあの感じ。

駒川はカップを持ったまま、立ち尽くした。

声に反応するなんて、自分でも意外だった。涼希の見た目については、先日少しだけ気になった。それでも彼は、ただの同僚だ。地味で目立たず、会話らしい会話をしたこともない男だ。

それなのに。

そんな「ただの同僚」の声に、こんなふうに心を揺らす自分がいるということが、何より気に食わなかった。意味もなく思考が動き出す。声のトーン、抑揚、そしてそこに感じたあの温度。

無理に忘れようとしても、耳が勝手に思い出してしまう。

駒川はため息をひとつついて、コーヒーを口に運んだ。ぬるい液体が喉を通る感覚すら、少し鈍く感じる。

やめろ。気にすることじゃない。

そう言い聞かせても、あの低く、やわらかく響いた「ありがとう」の声だけが、なぜか頭から離れなかった。