君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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夜の誘い、ふたたび

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ビルの照明が順々に落とされていく。蛍光灯の白さが消えるたびに、フロアの空気が冷えていくようだった。駒川はデスクの電源を落とし、椅子を静かに引いた。周囲にはもう誰もいない。先に帰った同僚たちの声は、もう廊下の奥にも残っていなかった。

時計の針は、午後七時半を指していた。残業というほどの仕事があったわけではない。ただ、何となく帰る気になれなかった。そうして惰性のように時間を潰して、誰もいないフロアにひとり残っていた。

ネクタイを緩めながらエレベーターに乗り、無言のままビルの一階へと降りる。自動ドアをくぐると、外の空気が胸に入り込んだ。昼間よりも気温は下がり、首筋に触れる風がほんのり冷たい。駒川は思わずジャケットの襟元を指先で引き寄せた。まるでそれが、何かから自分を守るように思えた。

ふと足が止まる。

駅へ向かうつもりだったはずの足が、何かを探るように立ち尽くしていた。街のネオンが遠くに滲んでいる。光は派手で、音も多いはずなのに、不思議と静かに感じた。

数日前のことがふいに脳裏に浮かぶ。あの店の静かな照明、聞き取れるかぎりで流れていたシャンソン。グラスの縁をなぞるように話した“りょう”の声。名前だけを知る、夜の中の誰か。

声が、まだ耳に残っている。

一度きりの気まぐれ。そう思っていたはずだった。けれど、あの店の空気を思い出すたび、無意識に呼吸が少しだけ深くなるのがわかった。忘れているつもりで、実際は何度も反芻していた。

歩き出そうとした足は、駅とは反対の方向を選んでいた。脳が理由を求めて言い訳を並べ始める。今日は一日中誰とも話していない。酒のひとつも飲まなきゃやってられない。あの場所は静かだった。女に囲まれるよりよっぽど気が楽だ。

気が向いただけ。別に、意味なんてない。

そう思い込むようにして、駒川はネオン街の中へと足を踏み入れた。視界に映るのは色彩と人混み。けれど彼の目にはそれらの情報はほとんど入ってこない。歩くたびにポケットの中の指が小さく震えているのを感じる。冷たいわけではない。ただ、どこかで「行っていいのか」と問い続けているような感覚。

それでも、足は止まらない。

通り過ぎる居酒屋、スナック、派手な看板たち。どれも目にはつくが、駒川はひとつも視線を留めなかった。まっすぐに、あの看板だけを目指していた。

Le Papillon。

前回と同じ角を曲がったとき、通りの奥にその名が見えた。蛍光灯ではなく、柔らかな明かり。喧騒の中にありながら、そこだけが別の時間を流れているように感じた。

近づくほどに、心臓の鼓動が少しずつ早まるのがわかる。気のせいじゃない。呼吸が浅くなっている。理由のない期待と、理由のある戸惑いが、胸の中で交差していた。

何をしに来たんだ、と自問する。けれど答えは出ない。

ただ、あの声をもう一度聞きたいと思った。それだけは、確かだった。そう思った瞬間、自分の指先がポケットの中でぎゅっと拳を握っていたことに気づく。

建物の入り口に立ち、駒川は一度だけ深く息を吸った。ビルのガラス扉に映る自分の顔は、無表情だった。けれど、ほんの少しだけ目の奥に何かが灯っているように見えた。

そして静かに扉を押した。

街の喧騒が背後に遠ざかり、薄暗くあたたかな空気が彼を包み込む。まるで昼の世界とはまったく異なる場所に踏み込んだような錯覚。照明は柔らかく、音楽は遠く、香りは甘く静かだった。

また、ここに来てしまった。

けれどその言葉に、後悔の色はなかった。むしろそれは、どこか安堵に近い響きを帯びていた。駒川は、カウンターに目をやる。どこかで、もうその姿を探している自分がいた。

夜が、また始まろうとしていた。
そのことに、ほんのわずかに…胸が震えていた。
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