君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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再会の指名

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ガラス扉の奥、いつかと同じやわらかな灯りが店内を包んでいた。照明は控えめに天井から落ちていて、視線を遮るように影をつくっている。誰かと目を合わせなくてすむように、誰かの顔を正面から見なくてもいいように。Le Papillonはそういう場所だった。

駒川がカウンターの奥まで歩いていくと、すぐに視線が合った。グラスを拭いていたママが、細い目をほころばせてこちらに頷く。

「いらっしゃい、悠生さん。りょうさん、いますよ」

自然な声色に、駒川は少しだけ眉を動かした。覚えられているとは思っていなかった。まだ一度しか来たことがない。なのに、まるで常連のように名前を呼ばれることに、胸の奥が小さく揺れる。

「……ああ、じゃあ」

何を言おうとしたのか自分でもわからなかった。ただ、声は自然と続いていた。

「彼で」

自分でも驚くほど、すらりと出た言葉だった。名前を呼ぶでもなく、指名という意識も曖昧なままに、それでも舌がその選択をした。

カウンターの内側でグラスが音もなく並べられ、別のスタッフが奥へと合図を送る。駒川は言葉のあと、ふと己の胸元に視線を落とす。そこには静かな鼓動があった。過剰ではない。けれど、確かに高まっていた。

案内されたのは、照明の少し落とされた個室席だった。重くない仕切りの向こうで、街の喧騒がさらに遠ざかっていく。低いテーブル、深く腰かけるソファ。グラスの水面に映る明かりが、かすかに揺れている。

「失礼します」

その声に顔を上げた瞬間、駒川の胸に何かが落ちた。

りょうが、いた。

今夜は黒ではなかった。ボルドーのワンピース。肩のラインがあらわになっているが、下品ではなく上品に見えるのは、本人の纏う空気のせいかもしれない。ゆるく巻かれた黒髪が肩にかかり、艶やかな影を落としていた。

駒川は一瞬、言葉を忘れた。というより、言葉を必要としなかった。

「こんばんは」

りょうの声は変わらず低く、やわらかく響いた。だが、前回とはわずかに違っていた。どこかで、緊張がにじんでいる。口元の笑みはいつも通りなのに、目の奥にあるわずかな躊躇いに、駒川は気づいた。

「また来てくださって、うれしいです」

「…なんか」

駒川は手元のグラスに目を落とし、しばらくその中の氷が溶けていく音に耳を澄ませてから、ぽつりと口を開いた。

「なんであの時、あんなに話しやすかったんだろ」

りょうはすぐに返事をしなかった。微笑を崩さず、ただ視線だけをわずかにそらす。その仕草は、まるで答えを探しているかのようだった。

「私、話すのが上手な方じゃないと思ってたんです。でも、あなたとは…不思議と、呼吸を合わせるのが怖くなかった」

「呼吸?」

「ええ。…声を出すときって、どうしても、自分の中の何かを使わなきゃいけないじゃないですか。それが怖くなることも、あるんです。でも…あなたの前では、それがあまりなかった」

駒川は目を細めた。相手の言葉を咀嚼しようとするように、無言のまま視線を落とす。そういうときの彼の顔は、どこか幼く見えた。

「そんなふうに言ってもらえるとは思わなかったな」

「…じゃあ、私も同じことを言います。なんであの時、あなたは、私にあんなふうに話しかけたんですか」

「覚えてないけど、…たぶん、話したかったんだと思う」

りょうが目を伏せて、わずかに息を吐いた。笑っているようで、でもその笑みにかすかに滲むものがあった。緊張とも、期待とも、いえない何か。

会話はそれで途切れた。沈黙が落ちたはずなのに、気まずさはなかった。むしろ、会話という形を超えて、何かがテーブルの上で静かに交差していた。

駒川の表情は、少しずつ変わっていた。最初に席に着いたときの“虚無”のような無表情は、すでにそこにはなかった。代わりに、眉間の力が抜けて、目元にゆるい光が差していた。

りょうはそれを見て、内心でそっと安堵する。客としての駒川を見ているはずなのに、どうしてこんなにもその微細な変化に目がいってしまうのだろう。職場ではきっとこんな顔はしない。…いや、昼の彼は、自分を見ようとすらしていなかった。

それでいいと思っていた。りょうとしている間だけ、自分に興味を持ってもらえれば、それでいい。けれど、この沈黙のなかにある穏やかな視線が、仮面の内側にまで染みてきてしまう気がした。

ふたりは、グラスを片手にしばらく黙っていた。けれど、その沈黙はやさしく、あたたかかった。りょうの目は柔らかく、駒川の表情には少しずつ生きた色が戻りつつあった。

誰も言葉にしない。けれど、確かに何かが始まっている。
その夜の空気は、そう告げていた。
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