君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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仮面が生まれた夜

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鏡の前に座り、涼希は手元のチークブラシを滑らせていた。磨かれたドレッサーの表面に、淡いランプの光がにじんで映る。控え室にはすでに香水とフェイスパウダーの甘く澄んだ匂いが漂い始めていて、外の世界とはまるで切り離された空気が流れていた。仮面をかぶるための静かな儀式。その最中、ふと手が止まる。

目元に触れようとしたブラシの先で、動作がわずかに途切れる。そのまま指先に力が入り、毛先がほんの少しつぶれた。

過去の映像が、唐突に脳裏をよぎった。

まだ“りょう”ではなかったころ、いや、“中野涼希”という名が唯一の自分だった頃。あの夜のことを、涼希はたまに、こうして何の前触れもなく思い出す。

雨が降っていた。長く、冷たい、途切れのない雨だった。終電を逃したわけではないが、家に帰りたくなかった。誰もいない部屋に戻って、電気も点けずにスーツのまま倒れこむ自分が、あまりに惨めだったからだ。

職場では笑っていた。無害な存在として、誰からも期待されず、干渉もされない。けれど、それは安心と引き換えの孤独だった。何かを話す相手がいなかった。必要とされた記憶もなかった。

さらに、その少し前…たった一度だけ告白した相手に「悪いけど、恋愛の対象として見たことない」と笑われたことが、心の奥底にしこりのように残っていた。何かが壊れたようで、何かを守る必要も感じられなかった。

ただ、どこかへ消えたかった。その一心だった。

その夜、偶然目に入ったビルの入り口。ネオンに揺れる蝶のロゴ。Le Papillonル・パピヨンと名のついたそのバーの灯りは、不思議なほどまっすぐに涼希の目に飛び込んできた。

「…いらっしゃいませ」

中へ入ると、最初に声をかけてきたのが、のちにママと呼ぶようになる阿波座だった。

艶のある低い声で、男とも女ともつかないその人の笑みは、どこか浮世離れしていた。だが、冷たくはなかった。初めて会った相手の目を、まっすぐに、そして一瞬で見抜くようなまなざし。

涼希はその夜、何を期待していたのか自分でもわからなかった。ただ、目の前にあったグラスを空けたあと、ほんの冗談のつもりで「僕もこういう店で働いてみたいな」と呟いた。それがすべての始まりだった。

「あなた、声が綺麗ね。女の顔をして男の声で話すの、すごく色っぽいわ」

阿波座のその一言に、なぜか胸が鳴った。冗談では済まされない温度があった。評価でも好奇心でもなく、そのままを受け入れるような声音だった。

「仮面をかぶっても、なぜか透けて見えちゃう人って、いるのよね。あなたは、きっとそう」

あのときの言葉が、今でも時々、鼓膜の奥で鳴る。

鏡の中の“りょう”が、穏やかに微笑んでいる。

だが、そこに映る瞳は、まだ完全に夜になりきれていなかった。少しだけ、過去の輪郭が残る。柔らかく整えた眉の下で、その視線だけが静かに過去を見つめている。

涼希はウィッグの位置を整えながら、小さく息を吐いた。

誰でもない自分になること。そう願って飛び込んだこの世界で、いくつもの仮面を重ねてきた。けれど、りょうという名前を得た瞬間、皮肉なことに“素顔”に近づいてしまった気がするのはなぜだろう。

思い出のなかで、初めてメイクをした夜のことも、ぼんやりと蘇る。不器用な手つきでアイラインを引きながら、鏡の中の自分にこう言った。

「これで、少しは消えられるかな」

それは、目立たなくなることを願った言葉ではなかった。存在として、どこかへ沈み込めたらという、本気の祈りだった。

今、その仮面を何度も重ねて、“りょう”は誰かの目にちゃんと映る存在になった。けれど…ふと、胸の奥に沈むあの願いが、まだ終わっていないことに気づく。

「本当は、どっちの自分が…本物なんだろうね」

誰にともなく呟いたその声は、りょうのものでも涼希のものでもなかった。

控え室の静けさの中、わずかに濡れたままの窓ガラスの外では、もう夜が街を飲み込みはじめていた。夜は、仮面に都合のいい時間だ。けれど今日は、少しだけ肌寒かった。胸元のあたりで、何かがまだうまくあたたまらないまま、風にさらされていた。
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