君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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カウンターの向こうの世界

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店内には、香水とアルコールの匂いがまだぼんやりと混じっていた。間接照明の灯りは、天井からやわらかく落ちてきて、磨かれたカウンターの表面をゆるやかに照らす。ガラス棚のボトルには影が重なり、赤や琥珀色の光が反射して静かな波のように揺れていた。

開店前のこの時間が、りょうは嫌いではなかった。まだ音楽も流れておらず、喧騒の前の準備だけが静かに進んでいる。客の気配もなく、化粧も完了し、ヒールの音が一歩ごとに木の床を控えめに叩く。それは、ほんの短い、仮面と素顔の境目にいるような時間だった。

グラスをひとつずつ丁寧に拭いていると、背後からひょいとジンが顔を覗かせた。

「りょうさーん、今日もキマってんね。やっぱそのウィッグ、顔に合ってる。女でも悔しいくらいだよ」

ジンの声はいつも明るく軽いが、耳障りではなかった。どこかに線を引くような言い方をしないのが、りょうはありがたかった。そういう言葉は、深く心に届かなくても、うわべだけでも救いになる。

「レイナ、見てみ。今日のりょうさん、ほら、目がちょっと潤んでる。これ、恋してる目だね」

冗談めかしたその一言に、奥でコートハンガーを整えていたレイナが小さく笑った。

「いや、でもさ。りょうさん、最近ちょっと雰囲気変わったよね。やわらかくなったっていうか…表情、前より、温かい」

りょうは笑ってみせる。だが、声には出さない。そのまま手元のグラスを拭き続ける。軽く親指を添えて、曇りひとつ残らないように、表面をすべらせるように。

「だからこそ言うけどね」

ジンの声色が少しだけ変わった。さっきまでの軽さが、ほんの少しだけ奥行きを持つ。

「本気は、持ち込まない方がいいよ。客に。特にあの人みたいなタイプには」

拭いていた手が、わずかに止まった。

りょうは顔を上げない。ただ、指先をほんの一瞬、静止させるだけだった。グラスはまだ、彼の手のなかにある。だが、その透明な器に映った自分の表情が、少しだけ曇って見えた。

レイナが続ける。

「でもわかるな。わたしもね…あの人、ちょっと壊れかけてる感じがするっていうか…放っておけなくなる」

誰かに、そう言われるのは不思議だった。壊れかけているのは自分の方だと、涼希はずっと思っていた。誰かを見て、そんな風に心を動かす余裕なんて、自分にはもうないと、何度も言い聞かせていた。

「守りたくなるよね。自分のことなんて見えてなさそうな人ほど、優しくされたときの反応が純粋だったりするからさ」

「危ないのよ。そういう人を、忘れられなくなったら」

ジンが言ったその一言に、りょうは無言のまま、ふたたび手を動かし始める。拭いていたグラスを戻し、新しいグラスを手に取る。その動きは丁寧で、無駄がない。それでも、さっきまでとは微かに違う。指先に、わずかな緊張が混ざっていた。

誰かに何かを言い返すわけでもなく、冗談に笑って応じるでもなく、ただそこに“りょう”として在る。

だが、静かに耳に入った会話のひとつひとつが、仮面の裏に静かな波紋を生んでいた。

あの人──駒川悠生。初めて来店した夜、あまりにも色がなかったその人が、りょうの声を聞いて、少しだけ目元を緩めた。名前を呼ばれたときの声音、ふとした間に交わした沈黙。そのすべてが、涼希の中でずっと、消えないまま残っている。

“忘れられなくなったら”。

その言葉が、まるで予言のように胸に刺さって離れなかった。声に出せば、何かが壊れる気がして、りょうは静かに黙ったまま、新しいグラスに指を添えた。音もなく、微かな息だけを吐きながら。
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