君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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沈黙に潜む傷

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Le Papillonル・パピヨンのドアが開くと、柔らかな照明とシャンソンの旋律が夜の闇に溶け出した。ネオンの反射をまとった駒川悠生の姿が、静かにその中へと吸い込まれていく。

「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から響いたママの声に、駒川は軽く頭を下げた。だがその表情には、相変わらずの無感情が貼りついたままだった。ネクタイは緩められ、上着の裾には皺が浮いている。目の奥には疲労の色が残り、シャンデリアの光に目を細めながら、ゆっくりと歩を進める。

「りょう、今空いてるよ」
ママの声にうなずくだけで、駒川はそのまま個室のひとつへと通された。薄暗い照明のなか、レースのカーテン越しに灯る光が、壁に微かな影を落とす。

ほどなくして、りょうが現れた。今夜の彼は、肩のラインをやわらかくなぞるベージュのワンピースに、細いゴールドのネックレスを添えている。髪は短い黒のウィッグ、メイクは控えめだが、唇だけがほんのり血色を帯びていた。

「こんばんは」
りょうの声は、今夜も変わらず低く、柔らかく響く。乾いた夜に差し出される一杯の湯のようなその声に、駒川はようやく表情を緩めた。

「また…来ちゃいました」
ぼそりと、駒川が呟く。りょうは席につき、彼の向かいにそっと座った。二人の間には小さな丸テーブル。氷の音を立てるグラスがひとつ、駒川の手元にある。

「なんで俺、ここに来るんだろうな」
呟きにも似たその問いに、りょうは答えなかった。ただ、視線だけを向けて、静かにうなずく。

駒川は、グラスを持ち上げ、氷のひとつを舌で押しながら、うっすらと目を伏せた。

「仕事が、もう…どうでもよくなってるんだと思います。成果が出ようが、誰かに認められようが、なんか…虚しくて」

その言葉には、怒りや嘆きの熱さはなかった。ただ、冷めきった水のような無力さがにじんでいた。

「同期も、後輩も、なんかちゃんと上手くやってる。中野っていう地味なやつもさ…一人で黙々とやってて、ああいうのが一番強いんじゃないかって、思うことあるんです」

りょうのまぶたが、ほんのわずかに動く。だが顔は変わらない。客としての駒川の前で、仮面は崩さない。

「昔、付き合ってた人がいたんです。三年くらい。でも、俺が何考えてるかわからないって、結局…捨てられた。向こうはもう、結婚してるらしいです」

駒川の口元が歪む。笑おうとして、それをやめたようだった。

「父親とは…何年も口きいてない。昔から俺のやること全部否定してきて、でも今さら謝られても、なに返していいかわからないし」

グラスの縁をなぞっていた駒川の指が、ふと止まる。手にしていたグラスを強く握る。音は立たないが、その力のこもり方が、隠しきれない感情を滲ませていた。

「俺、自分が誰かに期待されることが怖いんだと思います。応えられないって、どこかでずっと決めつけてる。たぶん、それで全部自分から壊してる」

りょうは、一言も挟まなかった。駒川の言葉の波が落ち着くのを、ただじっと聞いていた。目をそらすことなく、表情も変えず、けれど確かにその場に“在る”という気配だけをそっと差し出していた。

「でも、あなたはこうして聞いてくれる。なんでなんだろうね」

駒川の視線がふいに、りょうを捉える。焦点の定まらないその目に、かすかに何かを探すような色が混ざっていた。

「あなたに話すと、少しだけ…許された気がする。いや、気のせいかもしれないけど」

その声には、酔いのにじむ曖昧さがあった。だが、りょうはその曖昧ささえも否定しなかった。

言葉を返さず、ただひとつ、小さく頷く。

それだけで十分だと、駒川には伝わっていた。仮面越しでも、確かに何かが通っている。そう錯覚させるには、それだけで充分だった。

しばらく、ふたりの間に沈黙が降りた。けれど、それは重苦しいものではなかった。グラスの氷が溶けていく音だけが、静かに部屋を満たしていた。

駒川はふと息をつき、背もたれに身を預けた。目を閉じるでもなく、遠くを見るわけでもなく、ただそこに沈んでいた。

りょうの指先が、テーブルの端をそっと撫でる。

自分がいま聞いていたのは、客の“話”なのか、それとも“祈り”なのか。境界線はもはや曖昧だった。

ただ、その沈黙の底で、仮面の奥の何かが静かに震えているのを、りょうは感じていた。
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