君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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湿った朝の沈黙

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朝の街は、雨の名残を抱いたまま、どこか鈍く沈んでいた。しとしとと濡れた歩道のアスファルトが、低く、靴底の音を吸い込んでいく。グレーに曇った空からはもう雨粒は落ちていないが、傘をたたむには少し早い湿度がまだ空気を支配していた。

涼希は会社のエントランスに差しかかったところで、傘の先からぽたぽたと落ちる水滴がコートの裾に染み込んでいくのを見下ろした。長い前髪の隙間から覗く目元は相変わらず伏し目がちで、だがどこか、なにかを見つめているような静けさを湛えている。

そのとき、もう一人、同じように傘を閉じながらエントランスに入ってきた人物がいた。駒川だった。彼の足取りは重くもなく、軽くもない。ただ、目的の場所へ向かうという意志だけを感じさせる歩き方だった。無言のまま、エレベーターへと向かう。

涼希も、ほぼ同じタイミングでボタンの前に立った。ふたりの間に言葉はない。ただ、互いの存在を認識しながら、空気を乱さぬよう距離をとって立っている。朝のこの時間帯、同じビルに勤めている社員たちは誰しも少しずつ無口になる。それは静かな掟のように受け入れられていた。

エレベーターのドアが開き、二人はほぼ同時に中へと足を踏み入れた。ボタンが押され、ドアが閉まる。密閉された空間に、ほんの少しだけ湿った空気が立ちこめる。

駒川は軽く傘の水気を振り、その柄を手の中でくるりと回した。指先は無意識に動いていたが、その動きにはどこか余白があった。目的も焦りもない、ただ何かを埋めるような仕草だった。

涼希はエレベーターの隅に寄り、濡れた傘の先が他人に触れぬように慎重に立てかけた。視線は正面の階数表示に固定されているが、意識は隣に立つ男の気配を確かに感じている。

「…おはようございます」

ごく短く、涼希が言った。声はかすかに低く、けれど通る。感情の起伏はなく、あくまで礼儀のひとつとしての挨拶だった。

駒川は一瞬だけ横目で涼希を見てから、うなずくように返した。

「おはようございます」

その声もまた、どこか無色だった。眠気でもない、疲れでもない。ただ、何かを遠ざけているような声だった。

階数の数字が一つずつ上がっていく間、ふたりはそれ以上何も言葉を交わさなかった。だが、互いに完全に無関心というわけではなかった。ただ、会話を生むほどの関係でもなければ、沈黙が気まずさに転じるほどの距離でもない。だからこそ、奇妙な心地よさすらあった。

駒川は心の中で思う。同じビルで毎日顔を合わせている。何度もすれ違い、エレベーターで乗り合わせたことも何度となくある。だが、自分はこの男の名前を、会社で一度も口にしたことがない。中野涼希。名前は知っている。書類でも見たし、評価表でも見かけた。だが、名前と顔が一致したのは、最近のことだ。

それがなぜだったのか、自分でもよくわからない。ただ、どこかで、この男の雰囲気に引っかかるものを覚えはじめている。地味だが、妙に印象に残る。声も、仕草も、何かを丁寧に取り扱う人間のそれだとわかる。

そして今、こうして朝の湿った空気のなかに並んで立っていると、その“何か”がさらにくっきりと浮かび上がる。

エレベーターが止まり、ドアが静かに開いた。涼希が一歩前に出る。駒川も後を追う。廊下を抜けるまでの短い距離、ふたりの足音がほぼ重なって響く。

ふと、駒川の目が涼希のコートの裾に落ちた。まだ乾ききっていない傘の水滴が、そこに暗いしみを作っている。だが涼希は、それに気づいていながらも、気にする素振りを見せない。無言で歩く姿勢が、妙に凛として見える。

それは“りょう”の姿ではなかった。けれど、どこか似ている気がした。たった一歩ぶん隣にいるだけなのに、まるで違う世界の人物のような静けさ。その佇まいが、駒川の中にわずかな違和感を芽生えさせる。

視線をすぐに外し、駒川はデスクのほうへと足を向ける。涼希もまた、何事もなかったように自席へと消えていった。

彼らの間には、言葉も眼差しも、それほど交わされていない。だが、何かが始まりかけている。わずかな湿度と静けさの中で、それはまだ、誰にも気づかれていなかった。
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