君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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不意のやりとり

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複合機のかすれた音が、午後の静まり返ったオフィスに規則的に響いていた。あまりに日常の音すぎて、誰もそれに注意を払うことはなかった。ただ、駒川はその前に立ったまま、プリントされて出てくる紙に眉をひそめていた。

印刷された資料の内容が、どうやら自分のものではない。見覚えのない表のレイアウト、使用されている書体も、自分の好みとは明らかに異なる。間違えて誰かのデータを出してしまったかもしれない。あるいは、誰かが自分の印刷のタイミングに重なったのか。

紙を数枚手に取ったそのとき、すぐ後ろから足音が近づいた。気配だけで、それが中野涼希だとわかったわけではない。ただ、なぜかそのときだけ、駒川は紙を持つ手を止めた。振り向いた視線の先に、静かに歩み寄ってくる地味なスーツ姿の男がいた。

「…すみません、それ俺のかもしれません」

駒川がそう言うと、中野は一瞬だけ目を伏せたのち、ゆっくりと顔を上げた。

「いえ、こちらこそ。…用紙、まだありますから」

声は静かだったが、不思議とよく通った。その音の響きに、駒川は何か引っかかりを覚えた。はっきりとは言えない、だがどこかで聞いたことがある気がする。印象に残るほど強烈な声ではないのに、妙に耳に残る柔らかさ。特に語尾の抜き方と、少し低めに抑えたトーンに、既視感…いや、既聴感があった。

けれど、その記憶は“りょう”とはすぐには結びつかなかった。なぜなら、目の前のこの男は、職場でずっと“風景の一部”のように存在してきたからだ。中野涼希。資料はきちんとしている。遅刻もない。特に誰かと揉めたこともない。だが、印象がない。会社にいる百人のうちの一人、そんな存在だったはずなのに。

ふたりの間に数秒の沈黙が落ちた。涼希は紙を一枚だけ受け取り、そのまま会釈をして離れようとした。だが駒川の視線が、その瞬間に彼の指先へと滑った。淡い青みを帯びた指の関節は細く、だが骨ばっている。コピー用紙を挟む手が、どこか丁寧だった。

「…あの、今度から気をつけます」

駒川がとってつけたように言うと、涼希は首を横に小さく振った。

「気にしないでください。よくあることなので」

その言い方も、どこか“仕事上の対応”以上のものを含んでいるように感じた。たとえば、少しだけ微笑みがあるような。だがそれは唇の動きには現れず、むしろその口元はわずかに引き結ばれていた。

駒川は言いようのない違和感を覚えながらも、それ以上言葉を重ねなかった。中野もまた、背を向け、無音のまま自席に戻っていった。その背中は無防備でもなく、緊張しているわけでもない。ただ、背筋だけはまっすぐだった。

駒川は手にした資料を見下ろした。ページの隅に記された提出先が、中野の部署の名前だった。自分の勘違いだったのかもしれないと、ふと苦笑が漏れた。

「…中野って、あんな声だったっけ」

思わずつぶやいた自分の言葉に、自身が少し驚く。これまで、中野の声を正確に思い出せたことなどなかったはずだ。にもかかわらず、今日のやり取りだけは妙に耳に残る。

「なんか…誰かに似てる気がするんだよな」

だが、それが誰かまでは思い至らない。記憶の中に浮かびかけた輪郭は、すぐに霧のようにほどけていった。

その日の午後、駒川はふとした瞬間に、何度もあのときの中野の声を思い出していた。やわらかく、落ち着いたトーン。誰かを責めず、諭さず、ただそこにあるような声音。まるで…夜のあの店で、聞いた声のような。

しかし、記憶の中の“りょう”は、涼やかに笑いながらグラスを差し出す姿でしかなかった。あの姿と、このオフィスで静かにコピーを受け取る中野の姿を、同じ線で結びつけるには、まだ彼の中の現実が追いついていなかった。

涼希もまた、席に戻ってからしばらく、心の中に残った音の余韻を払おうとしていた。あの一言一言が、思いのほか深く残ってしまった自分を、どこかで恥じていた。

「…気づかれてない。まだ、大丈夫」

そう自分に言い聞かせる。だが、駒川の声が自分の名前を呼んだとき、胸の奥で何かが静かに軋んだのは、事実だった。
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