君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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夜のやすらぎ、そして罪

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夜の帳が静かに落ちる頃、Le Papillonの店内には、またひとつ、やわらかな光が灯っていた。シャンソンが低く流れる中、カーテンの奥の個室席に通された駒川は、静かにグラスの縁を指でなぞっていた。今日は週の折り返し、水曜の夜。特別な予定があったわけでも、酔いたい理由があったわけでもない。ただ、自然と足が向いた。そんな夜だった。

やがて、スカートの裾が静かに揺れて、涼やかな気配がそっと席に舞い降りる。りょうが、駒川の前に姿を見せた。今夜のワンピースは深いネイビー。光の加減で黒にも見えるその布は、肩先を優しくなぞり、デコルテをほどよく見せていた。ウィッグのショートボブはいつもよりすこし軽やかに揺れ、顔まわりの繊細なレースが微かな影をつくる。

「こんばんは、またお会いできましたね」

低めの、けれど柔らかく包むような声が空気を撫でる。駒川はその声を聞いた途端、肩から少し力が抜けたように見えた。ふっと目元が緩み、微笑のような表情が浮かぶ。

「こうして話すの、落ち着くんですよ」

それは、ぽつりと、照れくさそうに漏らされた本音だった。りょうの表情がわずかに動いた。驚きにも似た揺れが、そのまま喉へと下りていく。涼希の唾を飲み込む音が、ごく微かに空気を震わせた。

「それは…うれしいです」

そう返した声には、ほんの一瞬だけ熱が宿る。仮面の奥で、涼希の胸が静かに波打っていた。駒川の“今”の安らぎが、自分の言葉に由来していることに、どうしようもなく幸福を感じてしまう。けれどその幸福は、刃のように鋭い罪悪感を伴っていた。

(あなたは“誰と”話しているの?)

内心で、涼希はそう問うていた。けれどそれを口にすることはできない。駒川が向けるその眼差しは、“中野”ではなく、“りょう”に注がれている。けれど、“りょう”という存在のすべてが虚構であるわけではない。声も、しぐさも、言葉も、そして気持ちも、すべて涼希自身のものだった。ただ、名前と服装だけが、現実から乖離している。

グラスの中に静かにワインを注ぐ。赤い液体が静かに流れ込み、香りが立ち上る。その瞬間、涼希の指がわずかに震えた。駒川が視線をそこに落とすが、特に言葉は発さなかった。ただ、その目がわずかに細くなったのは、気づいていたからか、それとも単なる思案の一瞬か。

「疲れてるように見えるかもしれないけど、ここにいると少しだけ、戻れる気がするんです」

駒川のその言葉に、涼希は小さく頷いた。だがその心の奥には、言いようのない葛藤が渦を巻いていた。

(それは、“りょう”がいるから? それとも、話す相手が“私”だから?)

答えは出ない。出してはいけないのかもしれない。仮面のまま寄り添い、仮面のまま見送る。そんな関係に安住してしまいそうな自分が、時折、恐ろしくなる。

テーブルに置かれたキャンドルの明かりが、ふたりの影をぼんやりと壁に映していた。りょうの影と駒川の影は、交わることなく隣り合っているだけだった。

それでも、今夜の会話には確かに温度があった。駒川は過去のような沈黙を纏ってはおらず、数分おきに何かしらの言葉を紡いだ。そのどれもが、誰かと繋がろうとする手探りのようだった。

「仕事、どうですか?」

ふとした質問に、駒川は少し笑った。

「変わらないです。でも、まあ…悪くないです。最近は」

“あなたに会えているから”、そう続けるような気配があったが、言葉にはならなかった。けれど、その目が語っていた。りょうを見つめるその瞳には、日中に見せる虚無の色はなくなっていた。

その光に、涼希の胸が再び熱を持つ。そしてまた、それと同じ強さで痛みも増していく。

(いつか、この人が“中野”としての自分に気づいたら、どんな顔をするんだろう)

そんな問いが、喉の奥に引っかかって消えない。今日、職場で聞いたあの声と、この店で聞く声が、ほんのわずかでも重なってしまう危うさ。それを怖れて、涼希は何度も声色を調整し、目線を外した。

それでも今、この時間の中でだけは、彼を包んでいられる。彼の呼吸に耳を傾け、その言葉の隙間を満たすように微笑みを重ねることができる。

幸福だった。心から、そう思った。そしてそれと同じ重さで、自分がひとつの嘘の上に立っていることを、自覚していた。

夜は深まり、グラスの中のワインも、次第に残り少なくなっていく。やがて駒川がゆっくりとグラスを置いた。涼希もまた、その動きを見ながら呼吸を整える。別れの時間が近づいている。仮面をかぶったままの幸福は、永遠には続かない。

それでも、もう少しだけ。この空間のなかにいたいと、涼希はそっと願った。たとえそれが、罪であっても。
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