君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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交わらないのに、近すぎる

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店内の照明がひとつずつ落とされていく音が、まるで舞台の幕引きのように静かだった。笑い声も、グラスの響きも、もうない。夜は終わり、再び沈黙がLe Papillonを包む。控え室のドアを閉めると、すぐ背後で喧騒が遠ざかり、世界が一変する。そこにはもう、誰もいなかった。照明が反射する鏡と、散らばった化粧道具と、そしてひとりきりの涼希だけがいた。

椅子に腰を下ろし、いつも通りの手順で化粧を落とし始める。オイルを手に取り、そっと頬に馴染ませる。ファンデーションの膜がゆっくりと浮かび上がり、指先でなぞるたびに“りょう”という存在が薄れていく。その動作には慣れていた。だが今夜は、なぜか指の動きがわずかに鈍い。

鏡の中に映る自分の目が、やけに生々しかった。ラインもマスカラも消えかけているのに、そこにあるのは、昼間の“中野涼希”でも、夜の“りょう”でもない、もっと曖昧で、言葉にできない自分だった。誰でもない、けれど確かに誰かとして存在している、その奇妙な境界のなかで揺らいでいた。

「昼も夜も、彼はすぐそばにいるのに、どこにも届かない」

呟いた言葉は、鏡に反射して返ってくることもなく、ただ空気に吸い込まれていった。職場では数メートル先に彼がいる。バーでは手が届く距離にいる。けれどそのどちらでも、本当の意味で触れることはできない。その事実が、今夜は肌に沁みるようだった。

りょうとして隣に座ったとき、駒川の笑顔は柔らかく、視線は確かに自分を見つめていた。それでも、それは仮面越しのぬくもりだった。誰かに近づけたと感じたのは錯覚で、仮面を外せば、その関係は一瞬で崩れてしまう。そうわかっていても、りょうとして会うたび、涼希のなかには確かに何かが積み重なっていた。

言葉を重ねるたび、表情を読むたび、声の温度を感じるたび、自分の心がほんのわずかに救われているのがわかる。だからこそ、嘘を重ねているという罪の感触も増していく。

チークブラシを手に取り、最後の仕上げに軽く肌を払った。その道具をトレイに戻すとき、トン、と小さな音が控え室に響いた。何気ないその音が、妙に静かな空間に染み込む。まるで心の中の余白に何かが落ちたかのように。

涼希は、鏡の中の自分をじっと見つめた。そこには、まっすぐに見開かれた瞳がひとつ。仮面も、化粧も、演出も、すべて取り除かれて、それでもまだ誰かを想っている瞳だった。まぶたを閉じれば、駒川の声が浮かぶ。話すたびに少しずつ柔らかくなる声。笑ったときに生まれる、目尻の小さな皺。何気ない一言が、なぜか心を打つ瞬間。

そのすべてを、今は涼希だけが知っている。その特権が、嬉しくもあり、苦しくもあった。

「明日も、会えるかな」

小さな笑みが、思わずこぼれた。自分でも気づかないくらいの、ほんのわずかな笑顔だった。けれど、それは今夜のすべてを肯定するような、確かなものだった。

仮面は外された。けれど、想いはまだ続いていた。鏡の中の自分が、それを黙って証明していた。
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