君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

文字の大きさ
29 / 61

夜が明ける前に

しおりを挟む
控え室の照明は、夜の終わりにふさわしく、少し黄みを帯びていた。壁に寄りかかった姿見の鏡は、涼希の姿を映しながら、深い沈黙を抱えている。シャッターが下りた店の外にはまだ薄闇が残り、始発電車の音すら届かない静けさが、空間をやわらかく包んでいた。

カツン、と細いヒールの音がタイルを叩く。重ね着したドレスの裾がかすかに揺れて、音もなく控え室にたどり着いた涼希は、何も言わず、ただ静かに椅子に腰を下ろした。姿勢は真っ直ぐだったが、肩の力がどこか抜けている。それは安堵というより、終わりに対する覚悟のようなものだった。

ウィッグのピンを外す手は、いつもより慎重だった。何本もあるピンのひとつひとつに触れるたび、その下に隠していたものがはがれ落ちていくような気がした。サラリと落ちた黒髪が首筋を撫でる。その瞬間、りょうの姿はもうどこにもいなかった。

鏡の中にいたのは、“りょう”でも、“中野”でもない。ただの涼希だった。

輪郭の曖昧な存在。誰かに期待されることもなく、誰かに認識されるわけでもない、ただの自分。そこには舞台も仮面もなく、演じるべき役割もなかった。けれど、だからこそ、その姿にはどこか安らぎのようなものが漂っていた。

顔に残ったファンデーションの痕を、コットンで丁寧に拭き取る。頬のあたりをなぞるたびに、今日の自分が少しずつ薄れていく。目元のアイライナーがわずかににじんでいて、それを綿棒で取ると、涙を拭ったあとのように、肌がやけに白く感じられた。

唇のグロスだけが、まだ残っていた。うっすらと光っていて、それはまるで何かの余韻のようだった。何を言っていたのか、何を伝えたのか、もう忘れかけている会話のかけらが、その輝きに封じ込められているように思えた。

涼希はふと、鏡越しに自分の目を見た。その奥には、今夜の“りょう”がほんの少しだけ残っていた。駒川と交わした言葉。沈黙。頷き。名前を名乗る瞬間の、あの胸のざわめき。全部が、まだ皮膚の下に生きていた。

「バレたくない。でも…もう、誰かに見つけてもらってもいいかもしれない」

小さな声だった。誰にも聞こえないように、でも、どこかに届いてしまいそうなほど確かな声音だった。

今までずっと、隠れていた。りょうという仮面に守られて、涼希は社会の光をうまく避けてきた。昼の世界で孤立しても、夜に逃げ込むことで、呼吸をつないできた。誰にも期待されず、誰にも裏切られず、それが一番安全だった。

けれど今、あの人の前に立つと、そうは思えなくなる。

自分のことを「りょう」と呼ぶ声が、どこまでもやさしくて、それが逆に心を削ってくる。あの目に「信じようとする意志」があるたびに、仮面の裏で震えてしまう。誰にも見つけられたくなかったのに、今はもう、誰かに見つけてもらいたいと、そう思ってしまっている。

「…また、明日も来るのかな」

その呟きがふいに唇から漏れる。返事はない。けれど、胸の奥で何かがこくりと頷いた気がした。問いかけのようであり、願いのようでもあるその言葉は、今夜の最後の灯りのように、小さく部屋の空気を照らした。

涼希は椅子から立ち上がり、ゆっくりと照明を落とした。真っ暗になる直前、鏡に映った自分の顔が、思いのほか柔らかく微笑んでいたことに、彼自身だけが気づいていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】

紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。 相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。 超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。 失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。 彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。 ※番外編を公開しました(2024.10.21) 生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。 ※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。

勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される

八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。 蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。 リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。 ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい…… スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)

オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?

中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」 そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。 しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は―― ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。 (……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ) ところが、初めての商談でその評価は一変する。 榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。 (仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな) ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり―― なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。 そして気づく。 「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」 煙草をくゆらせる仕草。 ネクタイを緩める無防備な姿。 そのたびに、陽翔の理性は削られていく。 「俺、もう待てないんで……」 ついに陽翔は榊を追い詰めるが―― 「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」 攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。 じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。 【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】 主任補佐として、ちゃんとせなあかん── そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。 春のすこし手前、まだ肌寒い季節。 新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。 風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。 何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。 拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。 年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。 これはまだ、恋になる“少し前”の物語。 関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。 (5月14日より連載開始)

【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】

彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』 高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。 その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。 そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?

ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる

cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。 「付き合おうって言ったのは凪だよね」 あの流れで本気だとは思わないだろおおお。 凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?

【完結】おじさんダンジョン配信者ですが、S級探索者の騎士を助けたら妙に懐かれてしまいました

大河
BL
世界を変えた「ダンジョン」出現から30年── かつて一線で活躍した元探索者・レイジ(42)は、今や東京の片隅で地味な初心者向け配信を続ける"おじさん配信者"。安物機材、スポンサーゼロ、視聴者数も控えめ。華やかな人気配信者とは対照的だが、その真摯な解説は密かに「信頼できる初心者向け動画」として評価されていた。 そんな平穏な日常が一変する。ダンジョン中層に災厄級モンスターが突如出現、人気配信パーティが全滅の危機に!迷わず単身で救助に向かうレイジ。絶体絶命のピンチを救ったのは、国家直属のS級騎士・ソウマだった。 冷静沈着、美形かつ最強。誰もが憧れる騎士の青年は、なぜかレイジを見た瞬間に顔を赤らめて……? 若き美貌の騎士×地味なおじさん配信者のバディが織りなす、年の差、立場の差、すべてを越えて始まる予想外の恋の物語。

【完結済】俺のモノだと言わない彼氏

竹柏凪紗
BL
「俺と付き合ってみねぇ?…まぁ、俺、彼氏いるけど」彼女に罵倒されフラれるのを寮部屋が隣のイケメン&遊び人・水島大和に目撃されてしまう。それだけでもショックなのに壁ドン状態で付き合ってみないかと迫られてしまった東山和馬。「ははは。いいねぇ。お前と付き合ったら、教室中の女子に刺されそう」と軽く受け流した。…つもりだったのに、翌日からグイグイと迫られるうえ束縛まではじまってしまい──?! ■青春BLに限定した「第1回青春×BL小説カップ」最終21位まで残ることができ感謝しかありません。応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。

前世が俺の友人で、いまだに俺のことが好きだって本当ですか

Bee
BL
半年前に別れた元恋人だった男の結婚式で、ユウジはそこではじめて二股をかけられていたことを知る。8年も一緒にいた相手に裏切られていたことを知り、ショックを受けたユウジは式場を飛び出してしまう。 無我夢中で車を走らせて、気がつくとユウジは見知らぬ場所にいることに気がつく。そこはまるで天国のようで、そばには7年前に死んだ友人の黒木が。黒木はユウジのことが好きだったと言い出して―― 最初は主人公が別れた男の結婚式に参加しているところから始まります。 死んだ友人との再会と、その友人の生まれ変わりと思われる青年との出会いへと話が続きます。 生まれ変わり(?)21歳大学生×きれいめな48歳おっさんの話です。 ※軽い性的表現あり 短編から長編に変更しています

処理中です...