君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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夜が明ける前に

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控え室の照明は、夜の終わりにふさわしく、少し黄みを帯びていた。壁に寄りかかった姿見の鏡は、涼希の姿を映しながら、深い沈黙を抱えている。シャッターが下りた店の外にはまだ薄闇が残り、始発電車の音すら届かない静けさが、空間をやわらかく包んでいた。

カツン、と細いヒールの音がタイルを叩く。重ね着したドレスの裾がかすかに揺れて、音もなく控え室にたどり着いた涼希は、何も言わず、ただ静かに椅子に腰を下ろした。姿勢は真っ直ぐだったが、肩の力がどこか抜けている。それは安堵というより、終わりに対する覚悟のようなものだった。

ウィッグのピンを外す手は、いつもより慎重だった。何本もあるピンのひとつひとつに触れるたび、その下に隠していたものがはがれ落ちていくような気がした。サラリと落ちた黒髪が首筋を撫でる。その瞬間、りょうの姿はもうどこにもいなかった。

鏡の中にいたのは、“りょう”でも、“中野”でもない。ただの涼希だった。

輪郭の曖昧な存在。誰かに期待されることもなく、誰かに認識されるわけでもない、ただの自分。そこには舞台も仮面もなく、演じるべき役割もなかった。けれど、だからこそ、その姿にはどこか安らぎのようなものが漂っていた。

顔に残ったファンデーションの痕を、コットンで丁寧に拭き取る。頬のあたりをなぞるたびに、今日の自分が少しずつ薄れていく。目元のアイライナーがわずかににじんでいて、それを綿棒で取ると、涙を拭ったあとのように、肌がやけに白く感じられた。

唇のグロスだけが、まだ残っていた。うっすらと光っていて、それはまるで何かの余韻のようだった。何を言っていたのか、何を伝えたのか、もう忘れかけている会話のかけらが、その輝きに封じ込められているように思えた。

涼希はふと、鏡越しに自分の目を見た。その奥には、今夜の“りょう”がほんの少しだけ残っていた。駒川と交わした言葉。沈黙。頷き。名前を名乗る瞬間の、あの胸のざわめき。全部が、まだ皮膚の下に生きていた。

「バレたくない。でも…もう、誰かに見つけてもらってもいいかもしれない」

小さな声だった。誰にも聞こえないように、でも、どこかに届いてしまいそうなほど確かな声音だった。

今までずっと、隠れていた。りょうという仮面に守られて、涼希は社会の光をうまく避けてきた。昼の世界で孤立しても、夜に逃げ込むことで、呼吸をつないできた。誰にも期待されず、誰にも裏切られず、それが一番安全だった。

けれど今、あの人の前に立つと、そうは思えなくなる。

自分のことを「りょう」と呼ぶ声が、どこまでもやさしくて、それが逆に心を削ってくる。あの目に「信じようとする意志」があるたびに、仮面の裏で震えてしまう。誰にも見つけられたくなかったのに、今はもう、誰かに見つけてもらいたいと、そう思ってしまっている。

「…また、明日も来るのかな」

その呟きがふいに唇から漏れる。返事はない。けれど、胸の奥で何かがこくりと頷いた気がした。問いかけのようであり、願いのようでもあるその言葉は、今夜の最後の灯りのように、小さく部屋の空気を照らした。

涼希は椅子から立ち上がり、ゆっくりと照明を落とした。真っ暗になる直前、鏡に映った自分の顔が、思いのほか柔らかく微笑んでいたことに、彼自身だけが気づいていた。
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