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静けさの中の鼓動
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深夜一時を過ぎた頃、「Le Papillon」の扉が静かに開いた。街の喧騒は遠くに溶け、湿った春の空気がふわりと室内に入り込む。タクシーのライトが一瞬、ガラスの縁を照らし、それきり夜の世界が再び静かに閉じた。
駒川悠生は、前回と同じ場所に立っていた。肩にかかるコートの裾を軽く払うと、無言のままカウンターの先へと視線をやった。店内には数人の客がいるだけで、シャンソンの代わりに流れていたのは、深い低音のピアノだった。メロディというよりも、空間の隙間を埋めるような単音の連なりが、静かに耳の奥で広がっていく。
「いらっしゃい」阿波座ママが奥から顔を出し、軽く目を細めた。「…今夜は、少しだけ静かよ。どうする? 誰か呼ぶ?」
駒川は小さく頷いたあと、声を抑えて答えた。「…りょうさんが、いれば」
それきり、何も言わなかった。言う必要もなかった。ママがゆるやかに笑い、グラスをひとつ、カウンターの端へ滑らせる。その音すらも、今夜の静けさに溶けていく。
しばらくして、奥から現れた“りょう”は、黒に近いグレーのドレープワンピースをまとっていた。いつもより髪はゆるく巻かれ、肩口に影が落ちている。照明が控えめなぶん、その陰影はより柔らかく、輪郭だけが浮かび上がって見えた。
「こんばんは」りょうは、相変わらず穏やかな声でそう言った。駒川の隣に腰を下ろすと、軽く膝を組み替え、手元のグラスをひとつ手に取る。琥珀色の液体が、氷の輪郭とともに揺れていた。
「…こんばんは」駒川の返事は短かったが、その声にわずかに熱があった。
会話は、それきり続かなかった。けれど、沈黙が居心地悪いわけではない。むしろ、ことばにしないことで保たれる静けさが、ふたりの距離を少しずつ近づけていた。
りょうは手元の布で、グラスの水滴をそっと拭っていた。ふとした瞬間、布を持つ指先がわずかに揺れる。その震えは、本人ですら気づかぬほどに小さく、けれど駒川の目にははっきりと映っていた。
視線が、その細い指先から、滑らかに頬のラインへ、そして…唇へと落ちていく。
淡く塗られたリップの色は、あたたかみのあるベージュで、作為的な艶はなく、ただそこに呼吸のように存在していた。
駒川は、自分がいま目の前にいる人間を、どれだけ真剣に見つめているかを自覚していた。表情に出すことはない。けれど、視線の先にあるものを、目の奥で噛みしめるようにしていた。
そのまま、彼の喉がわずかに動く。なにかを言おうとして、けれど言葉に変えるには未完成な感情が、舌の裏に引っかかっていた。息を飲む音が、氷のきしむ音にまぎれて消えていく。
りょうはそんな駒川の様子を、横顔のまま感じ取っていた。見ていないふりをして、でも見えてしまう。目の端に映る仕草、グラスを持つ手の力の入り具合、呼吸のリズム。すべてが、ただの客とは違ってきていることを、身体が先に察知していた。
「…お疲れじゃないですか?」ふと、りょうが口を開いた。声音は低く、けれどどこかやさしかった。深夜の街にだけ許された、ささやきの温度だった。
駒川は小さく笑って、ほんのわずかに首を横に振った。「疲れてないとしたら…嘘になりますね」
「嘘でも、そう言わない人もいます」
「嘘をつく余裕が、ないんです」
それきり、また沈黙が落ちる。
だが、そこには今にも触れ合いそうな感情の温度があった。
りょうの手が、グラスの縁をもう一度ゆっくり拭った。今度は指の動きに、確かな緊張があった。目の前の空気が、いつもの接客とは違ってきている。けれど、それを拒む気持ちはなかった。
仮面の下で、涼希の心が揺れていた。このまま、ただ時間をやり過ごすだけならどれだけ楽だったかと思う。それでも、自分に向けられる視線が、こんなにもまっすぐで、こんなにも温かくて…そんなものに、いまさら慣れろと言われても、無理な話だった。
駒川の視線はまだ、彼の唇に留まったままだった。まるで言葉を待っているような、いや…言葉の代わりに、その形を確かめようとしているような、そんな熱があった。
「…今夜は、静かですね」
「ええ。夜が深くなるほど、ここは時間がゆっくりになる気がします」
その一言に、駒川はうなずき、グラスを口元に運んだ。氷の音が、かすかに響いた。
ふたりの間にあるものは、まだ形になっていない。けれど、その輪郭だけが、ほのかに浮かび上がり始めていた。仮面の下の体温と、瞳の奥の熱が、声にならないまま、互いの肌のすぐそばで息をしていた。
駒川悠生は、前回と同じ場所に立っていた。肩にかかるコートの裾を軽く払うと、無言のままカウンターの先へと視線をやった。店内には数人の客がいるだけで、シャンソンの代わりに流れていたのは、深い低音のピアノだった。メロディというよりも、空間の隙間を埋めるような単音の連なりが、静かに耳の奥で広がっていく。
「いらっしゃい」阿波座ママが奥から顔を出し、軽く目を細めた。「…今夜は、少しだけ静かよ。どうする? 誰か呼ぶ?」
駒川は小さく頷いたあと、声を抑えて答えた。「…りょうさんが、いれば」
それきり、何も言わなかった。言う必要もなかった。ママがゆるやかに笑い、グラスをひとつ、カウンターの端へ滑らせる。その音すらも、今夜の静けさに溶けていく。
しばらくして、奥から現れた“りょう”は、黒に近いグレーのドレープワンピースをまとっていた。いつもより髪はゆるく巻かれ、肩口に影が落ちている。照明が控えめなぶん、その陰影はより柔らかく、輪郭だけが浮かび上がって見えた。
「こんばんは」りょうは、相変わらず穏やかな声でそう言った。駒川の隣に腰を下ろすと、軽く膝を組み替え、手元のグラスをひとつ手に取る。琥珀色の液体が、氷の輪郭とともに揺れていた。
「…こんばんは」駒川の返事は短かったが、その声にわずかに熱があった。
会話は、それきり続かなかった。けれど、沈黙が居心地悪いわけではない。むしろ、ことばにしないことで保たれる静けさが、ふたりの距離を少しずつ近づけていた。
りょうは手元の布で、グラスの水滴をそっと拭っていた。ふとした瞬間、布を持つ指先がわずかに揺れる。その震えは、本人ですら気づかぬほどに小さく、けれど駒川の目にははっきりと映っていた。
視線が、その細い指先から、滑らかに頬のラインへ、そして…唇へと落ちていく。
淡く塗られたリップの色は、あたたかみのあるベージュで、作為的な艶はなく、ただそこに呼吸のように存在していた。
駒川は、自分がいま目の前にいる人間を、どれだけ真剣に見つめているかを自覚していた。表情に出すことはない。けれど、視線の先にあるものを、目の奥で噛みしめるようにしていた。
そのまま、彼の喉がわずかに動く。なにかを言おうとして、けれど言葉に変えるには未完成な感情が、舌の裏に引っかかっていた。息を飲む音が、氷のきしむ音にまぎれて消えていく。
りょうはそんな駒川の様子を、横顔のまま感じ取っていた。見ていないふりをして、でも見えてしまう。目の端に映る仕草、グラスを持つ手の力の入り具合、呼吸のリズム。すべてが、ただの客とは違ってきていることを、身体が先に察知していた。
「…お疲れじゃないですか?」ふと、りょうが口を開いた。声音は低く、けれどどこかやさしかった。深夜の街にだけ許された、ささやきの温度だった。
駒川は小さく笑って、ほんのわずかに首を横に振った。「疲れてないとしたら…嘘になりますね」
「嘘でも、そう言わない人もいます」
「嘘をつく余裕が、ないんです」
それきり、また沈黙が落ちる。
だが、そこには今にも触れ合いそうな感情の温度があった。
りょうの手が、グラスの縁をもう一度ゆっくり拭った。今度は指の動きに、確かな緊張があった。目の前の空気が、いつもの接客とは違ってきている。けれど、それを拒む気持ちはなかった。
仮面の下で、涼希の心が揺れていた。このまま、ただ時間をやり過ごすだけならどれだけ楽だったかと思う。それでも、自分に向けられる視線が、こんなにもまっすぐで、こんなにも温かくて…そんなものに、いまさら慣れろと言われても、無理な話だった。
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「…今夜は、静かですね」
「ええ。夜が深くなるほど、ここは時間がゆっくりになる気がします」
その一言に、駒川はうなずき、グラスを口元に運んだ。氷の音が、かすかに響いた。
ふたりの間にあるものは、まだ形になっていない。けれど、その輪郭だけが、ほのかに浮かび上がり始めていた。仮面の下の体温と、瞳の奥の熱が、声にならないまま、互いの肌のすぐそばで息をしていた。
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