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嘘と真実のあいだ
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「りょうさんといると、何もかも忘れられるんです」
その言葉は、唐突だった。
けれど、押し殺したような低い声で静かに放たれたそれは、たしかに空気を変えた。
りょうは、グラスを持つ手をわずかに止めた。アルコールの表面に浮かぶ氷が、彼の動作の停止を映していた。視線をすぐには上げられず、代わりにテーブルの端にわずかに置かれた駒川の手元に、無意識のうちに目が行った。
駒川の手が、テーブルの縁をかすかに掴んでいた。指先に力がこもっている。
その微細な動きが、告白に等しいこの言葉に、どれほどの勇気と逡巡が込められていたかを、雄弁に物語っていた。
「……本気で」
少しだけ間を置き、呼吸を整えるようにして駒川は続けた。
「あなたのことが、好きなんだと思うんです」
店内の空気が、ぴたりと張り詰めた。
ピアノの旋律は変わらず流れているのに、それが遠くなった気がした。
天井の照明がほんのわずかに瞬いたように見えるのは、視界の奥が揺れていたせいだったかもしれない。
りょうは、微笑もうとした。けれど、うまく笑みの形にならなかった。
唇がかすかに動き、けれどその曲線が定まらない。
瞳がほんの一瞬、光を失ったように揺れ、照明の陰を映す。
それは、驚きというよりも、押し寄せる感情に追いつけなかった身体の反応だった。
嬉しい。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に確かに何かが灯った。
けれど、それと同じ速さで、別の何かがそれを打ち消す。
それは絶望に似ていた。仮面越しに愛された幸福と、その仮面を知られたくないという恐れが、矛盾したまま共存し、涼希の内側で激しくせめぎ合っていた。
目を伏せる。
視線を持ち上げてしまえば、なにかが決壊してしまいそうだった。
グラスの表面に、ぼんやりと自分の顔が映っている。
正面ではない、わずかに歪んだ輪郭。
そこに映るのは、「りょう」としての自分だ。
涼希の名前も、声も、表情も、今はすべてこの仮面の奥に隠されている。
もし、いまこの顔の下にある真実を告げてしまったら。
駒川は、どんな目で自分を見るのだろう。
この愛しさの正体が「涼希」だと知ってしまったら、この場所で育まれてきた夜の温度は、どうなってしまうのだろう。
「……」
何かを返そうとして、喉の奥で言葉が詰まった。
涼希は、自分の呼吸が少しずつ浅くなっていることに気づいた。
けれど、それを誰にも知られたくないと願う本能が、身体をただ黙らせていた。
テーブルの上の駒川の手に、まだ力が入っている。
彼もまた、言葉の反応を待ちながら、同じように不安を抱えているのかもしれない。
返される一言が、すべてを壊すかもしれないという不安。
けれど、それでも言わずにはいられなかったのだろう。
その告白の裏にある、揺れと真剣さを、涼希は痛いほど感じていた。
静かな沈黙が流れる。
とても短い時間のはずなのに、どこまでも長く感じられる。
涼希は、ゆっくりと口を開いた。
「…そんなふうに、思ってもらえるなんて」
声は、想像以上に掠れていた。
何度も接客で使ってきた低い声なのに、今夜は喉の奥が震えて、しっかりと支えられなかった。
「…うれしいです」
本心だった。
それだけは、間違いなかった。
けれど、その言葉に乗せる感情のすべてを見せてしまえば、自分のすべてが彼に届いてしまう気がして、それ以上の言葉は続けられなかった。
目を伏せたまま、グラスの中の氷が小さく傾いた。
その動きに反応するように、視線がほんのわずかに揺れ、また沈む。
涼希は、自分が“りょう”としてこの場所にいることの意味を、改めて問い直していた。
それは逃げなのか、それとも仮面の中にしか居場所を見出せなかっただけなのか。
どちらでもあった。
でも今は、もうただの仮面ではなかった。
彼に向けた視線も、触れられた指の温もりも、すべてが…本当だった。
仮面の奥で泣きそうな自分を、なんとか押しとどめながら、りょうは微笑を作ろうとする。
けれど、その表情は完成しなかった。
目の奥が、どうしても笑えなかった。
駒川はその様子に、何も言わず、ただゆっくりと目を細めた。
言葉はない。
けれど、その沈黙には、なにかを受け止める覚悟のようなものが感じられた。
テーブルの上の手が、少しだけ動いた。
けれど伸ばされることはなかった。
ただ、触れる一歩手前の距離にとどまり、相手の許しを待っているかのような動きだった。
その優しさが、涼希にはあまりにも残酷だった。
触れたくなる。
応えたくなる。
でも、今はまだ…それができなかった。
ほんのわずかに肩を揺らし、涼希はまたグラスに視線を戻した。
グラスの底には、淡く揺れる琥珀色と、自分の仮面がぼんやりと映っている。
その仮面が、今にも崩れ落ちそうな感覚を、指先の奥にまで感じていた。
その言葉は、唐突だった。
けれど、押し殺したような低い声で静かに放たれたそれは、たしかに空気を変えた。
りょうは、グラスを持つ手をわずかに止めた。アルコールの表面に浮かぶ氷が、彼の動作の停止を映していた。視線をすぐには上げられず、代わりにテーブルの端にわずかに置かれた駒川の手元に、無意識のうちに目が行った。
駒川の手が、テーブルの縁をかすかに掴んでいた。指先に力がこもっている。
その微細な動きが、告白に等しいこの言葉に、どれほどの勇気と逡巡が込められていたかを、雄弁に物語っていた。
「……本気で」
少しだけ間を置き、呼吸を整えるようにして駒川は続けた。
「あなたのことが、好きなんだと思うんです」
店内の空気が、ぴたりと張り詰めた。
ピアノの旋律は変わらず流れているのに、それが遠くなった気がした。
天井の照明がほんのわずかに瞬いたように見えるのは、視界の奥が揺れていたせいだったかもしれない。
りょうは、微笑もうとした。けれど、うまく笑みの形にならなかった。
唇がかすかに動き、けれどその曲線が定まらない。
瞳がほんの一瞬、光を失ったように揺れ、照明の陰を映す。
それは、驚きというよりも、押し寄せる感情に追いつけなかった身体の反応だった。
嬉しい。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に確かに何かが灯った。
けれど、それと同じ速さで、別の何かがそれを打ち消す。
それは絶望に似ていた。仮面越しに愛された幸福と、その仮面を知られたくないという恐れが、矛盾したまま共存し、涼希の内側で激しくせめぎ合っていた。
目を伏せる。
視線を持ち上げてしまえば、なにかが決壊してしまいそうだった。
グラスの表面に、ぼんやりと自分の顔が映っている。
正面ではない、わずかに歪んだ輪郭。
そこに映るのは、「りょう」としての自分だ。
涼希の名前も、声も、表情も、今はすべてこの仮面の奥に隠されている。
もし、いまこの顔の下にある真実を告げてしまったら。
駒川は、どんな目で自分を見るのだろう。
この愛しさの正体が「涼希」だと知ってしまったら、この場所で育まれてきた夜の温度は、どうなってしまうのだろう。
「……」
何かを返そうとして、喉の奥で言葉が詰まった。
涼希は、自分の呼吸が少しずつ浅くなっていることに気づいた。
けれど、それを誰にも知られたくないと願う本能が、身体をただ黙らせていた。
テーブルの上の駒川の手に、まだ力が入っている。
彼もまた、言葉の反応を待ちながら、同じように不安を抱えているのかもしれない。
返される一言が、すべてを壊すかもしれないという不安。
けれど、それでも言わずにはいられなかったのだろう。
その告白の裏にある、揺れと真剣さを、涼希は痛いほど感じていた。
静かな沈黙が流れる。
とても短い時間のはずなのに、どこまでも長く感じられる。
涼希は、ゆっくりと口を開いた。
「…そんなふうに、思ってもらえるなんて」
声は、想像以上に掠れていた。
何度も接客で使ってきた低い声なのに、今夜は喉の奥が震えて、しっかりと支えられなかった。
「…うれしいです」
本心だった。
それだけは、間違いなかった。
けれど、その言葉に乗せる感情のすべてを見せてしまえば、自分のすべてが彼に届いてしまう気がして、それ以上の言葉は続けられなかった。
目を伏せたまま、グラスの中の氷が小さく傾いた。
その動きに反応するように、視線がほんのわずかに揺れ、また沈む。
涼希は、自分が“りょう”としてこの場所にいることの意味を、改めて問い直していた。
それは逃げなのか、それとも仮面の中にしか居場所を見出せなかっただけなのか。
どちらでもあった。
でも今は、もうただの仮面ではなかった。
彼に向けた視線も、触れられた指の温もりも、すべてが…本当だった。
仮面の奥で泣きそうな自分を、なんとか押しとどめながら、りょうは微笑を作ろうとする。
けれど、その表情は完成しなかった。
目の奥が、どうしても笑えなかった。
駒川はその様子に、何も言わず、ただゆっくりと目を細めた。
言葉はない。
けれど、その沈黙には、なにかを受け止める覚悟のようなものが感じられた。
テーブルの上の手が、少しだけ動いた。
けれど伸ばされることはなかった。
ただ、触れる一歩手前の距離にとどまり、相手の許しを待っているかのような動きだった。
その優しさが、涼希にはあまりにも残酷だった。
触れたくなる。
応えたくなる。
でも、今はまだ…それができなかった。
ほんのわずかに肩を揺らし、涼希はまたグラスに視線を戻した。
グラスの底には、淡く揺れる琥珀色と、自分の仮面がぼんやりと映っている。
その仮面が、今にも崩れ落ちそうな感覚を、指先の奥にまで感じていた。
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