君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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“りょう”として、愛されること

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「うれしいです。でも…私は、ただの“りょう”ですよ」

その言葉が自分の口から出た瞬間、涼希は唇の裏をわずかに噛んだ。
それは、あまりにも習慣的な“逃げ口上”だった。言い慣れているのに、今夜のそれは、いつもよりも少しだけ声が震えていた気がする。

作り笑いが顔に浮かぶ。けれど、その微笑がうまく形を保てなかった。
頬の筋肉が僅かに引きつり、目元の光だけがどこか迷子のようにさまよっていた。
鏡があったなら、きっとこの顔は“完璧”とは呼べなかっただろう。

仮面のままで愛されること。
それがどれほど危うくて、どれほど甘美なことかを、涼希は知っていた。
それでも、今夜は…少しだけ、本気で望んでしまった。
彼の言葉に、真っ直ぐな眼差しに、どこかで「信じたい」と思ってしまった自分がいた。

だからこそ、こうして言葉を濁した。
「私はただの“りょう”です」
そう言っておけば、きっとすべてが夢で済む。
仮面のままで抱かれても、真実に踏み込まれないまま、ひと晩をやり過ごすことができる。
そう思っていたのに。

駒川は、すぐに言葉を返した。
ためらいも、否定もなかった。
ただ、ごく自然な声音で、静かに言った。

「それでも、いいんです」

涼希の指先から、何かがすっと抜け落ちたような感覚がした。
張り詰めていた心の一角が、音もなくほどける。
それは、許しの言葉だった。
誰かが、“りょう”としての自分を受け入れようとしてくれている。
この姿のままで、名前すら知られずに、心を差し出そうとしてくれている。

それがどれだけ、涼希にとって…罪深く、優しいことか。

気づけば、駒川の手がゆっくりと伸びていた。
遠慮がちで、でも確かな意志のこもった動きだった。
涼希の手の上に、彼の指先が触れる。
わずかに重なっただけの、軽い接触だった。
けれど、その瞬間、涼希の身体は反射的に跳ねた。
ほんのわずかに、ほんの数ミリだけ。
けれど、それは確かに逃げようとする動きだった。

肌が、彼の手の温度を覚えた。
ただの手のひらの熱ではなかった。
そこには、誰かに触れられることの重みがあった。
この数年で忘れかけていたもの。
「誰かに受け入れられる」という感触。
それを、いまこの一瞬で思い出してしまった。

だめだ、と涼希は思った。
この手をあたたかいと思ってしまったら終わりだ。
これは仕事だ。仮面だ。演技の延長だ。
“りょう”として生きる夜に、本物の感情なんて持ち込んじゃいけない。

なのに。

呼吸が、一度だけ浅くなった。
それを自分でごまかすように、ほんの小さく息を吸い直す。
その動きに連動するように、肩がひとつ上下する。
意識せずに、体が呼吸に追いつこうとしていた。

レースの胸元が、そのたった一度の呼吸でふわりと波打った。
ささやかな動きだった。けれど、それはこの空気のなかでひどく際立って感じられた。

駒川の指は、ただ触れているだけだった。
動かさない。握らない。
ただ、涼希の意思を試すように、そっとそのままでいた。

涼希は目を伏せたまま、まぶたの裏で必死に考えていた。
どうすれば、この震えをごまかせるのか。
どうすれば、この感情を外に漏らさずに済むのか。

でも、もう遅かった。

彼の声が、彼の眼差しが、彼の手のひらが。
すでに涼希の仮面の内側に、入り込んできてしまっていた。

見えないところで、心の輪郭が、少しずつ変わっていくのがわかる。
ほんのささいな接触で、自分がどれほど脆くなっていたかを思い知らされる。

仮面はまだ崩れていない。
だけど、その裏側では…もう、涼希という人間が、涙をこらえるようにして立っていた。

言葉を失っていた。
このままではいけない、と思いながらも、何も言えなかった。

駒川の視線が、こちらを見ていた。
問いかけるでもなく、追いつめるでもなく、ただ、見つめていた。

その視線に、涼希はまた呼吸を忘れた。

「……ありがとうございます」
ようやく絞り出した言葉は、限界ぎりぎりのところでかろうじて形を成した。
まるで、沈みかけた水面にやっと浮かび上がった声のようだった。

その一言には、演技も、仮面も、ほとんど含まれていなかった。
それでも、それを「りょう」の声として発した自分に、涼希は少しだけ苦しさを感じていた。

嘘じゃない。
でも、真実でもない。
その狭間で、心が引き裂かれそうになっていた。

グラスの中の氷が、かすかに音を立てた。
時間が動いたことを知らせるような、控えめな音だった。
けれど、ふたりの間の距離には…もう、目には見えない熱が立ちのぼっていた。
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