32 / 61
“りょう”として、愛されること
しおりを挟む
「うれしいです。でも…私は、ただの“りょう”ですよ」
その言葉が自分の口から出た瞬間、涼希は唇の裏をわずかに噛んだ。
それは、あまりにも習慣的な“逃げ口上”だった。言い慣れているのに、今夜のそれは、いつもよりも少しだけ声が震えていた気がする。
作り笑いが顔に浮かぶ。けれど、その微笑がうまく形を保てなかった。
頬の筋肉が僅かに引きつり、目元の光だけがどこか迷子のようにさまよっていた。
鏡があったなら、きっとこの顔は“完璧”とは呼べなかっただろう。
仮面のままで愛されること。
それがどれほど危うくて、どれほど甘美なことかを、涼希は知っていた。
それでも、今夜は…少しだけ、本気で望んでしまった。
彼の言葉に、真っ直ぐな眼差しに、どこかで「信じたい」と思ってしまった自分がいた。
だからこそ、こうして言葉を濁した。
「私はただの“りょう”です」
そう言っておけば、きっとすべてが夢で済む。
仮面のままで抱かれても、真実に踏み込まれないまま、ひと晩をやり過ごすことができる。
そう思っていたのに。
駒川は、すぐに言葉を返した。
ためらいも、否定もなかった。
ただ、ごく自然な声音で、静かに言った。
「それでも、いいんです」
涼希の指先から、何かがすっと抜け落ちたような感覚がした。
張り詰めていた心の一角が、音もなくほどける。
それは、許しの言葉だった。
誰かが、“りょう”としての自分を受け入れようとしてくれている。
この姿のままで、名前すら知られずに、心を差し出そうとしてくれている。
それがどれだけ、涼希にとって…罪深く、優しいことか。
気づけば、駒川の手がゆっくりと伸びていた。
遠慮がちで、でも確かな意志のこもった動きだった。
涼希の手の上に、彼の指先が触れる。
わずかに重なっただけの、軽い接触だった。
けれど、その瞬間、涼希の身体は反射的に跳ねた。
ほんのわずかに、ほんの数ミリだけ。
けれど、それは確かに逃げようとする動きだった。
肌が、彼の手の温度を覚えた。
ただの手のひらの熱ではなかった。
そこには、誰かに触れられることの重みがあった。
この数年で忘れかけていたもの。
「誰かに受け入れられる」という感触。
それを、いまこの一瞬で思い出してしまった。
だめだ、と涼希は思った。
この手をあたたかいと思ってしまったら終わりだ。
これは仕事だ。仮面だ。演技の延長だ。
“りょう”として生きる夜に、本物の感情なんて持ち込んじゃいけない。
なのに。
呼吸が、一度だけ浅くなった。
それを自分でごまかすように、ほんの小さく息を吸い直す。
その動きに連動するように、肩がひとつ上下する。
意識せずに、体が呼吸に追いつこうとしていた。
レースの胸元が、そのたった一度の呼吸でふわりと波打った。
ささやかな動きだった。けれど、それはこの空気のなかでひどく際立って感じられた。
駒川の指は、ただ触れているだけだった。
動かさない。握らない。
ただ、涼希の意思を試すように、そっとそのままでいた。
涼希は目を伏せたまま、まぶたの裏で必死に考えていた。
どうすれば、この震えをごまかせるのか。
どうすれば、この感情を外に漏らさずに済むのか。
でも、もう遅かった。
彼の声が、彼の眼差しが、彼の手のひらが。
すでに涼希の仮面の内側に、入り込んできてしまっていた。
見えないところで、心の輪郭が、少しずつ変わっていくのがわかる。
ほんのささいな接触で、自分がどれほど脆くなっていたかを思い知らされる。
仮面はまだ崩れていない。
だけど、その裏側では…もう、涼希という人間が、涙をこらえるようにして立っていた。
言葉を失っていた。
このままではいけない、と思いながらも、何も言えなかった。
駒川の視線が、こちらを見ていた。
問いかけるでもなく、追いつめるでもなく、ただ、見つめていた。
その視線に、涼希はまた呼吸を忘れた。
「……ありがとうございます」
ようやく絞り出した言葉は、限界ぎりぎりのところでかろうじて形を成した。
まるで、沈みかけた水面にやっと浮かび上がった声のようだった。
その一言には、演技も、仮面も、ほとんど含まれていなかった。
それでも、それを「りょう」の声として発した自分に、涼希は少しだけ苦しさを感じていた。
嘘じゃない。
でも、真実でもない。
その狭間で、心が引き裂かれそうになっていた。
グラスの中の氷が、かすかに音を立てた。
時間が動いたことを知らせるような、控えめな音だった。
けれど、ふたりの間の距離には…もう、目には見えない熱が立ちのぼっていた。
その言葉が自分の口から出た瞬間、涼希は唇の裏をわずかに噛んだ。
それは、あまりにも習慣的な“逃げ口上”だった。言い慣れているのに、今夜のそれは、いつもよりも少しだけ声が震えていた気がする。
作り笑いが顔に浮かぶ。けれど、その微笑がうまく形を保てなかった。
頬の筋肉が僅かに引きつり、目元の光だけがどこか迷子のようにさまよっていた。
鏡があったなら、きっとこの顔は“完璧”とは呼べなかっただろう。
仮面のままで愛されること。
それがどれほど危うくて、どれほど甘美なことかを、涼希は知っていた。
それでも、今夜は…少しだけ、本気で望んでしまった。
彼の言葉に、真っ直ぐな眼差しに、どこかで「信じたい」と思ってしまった自分がいた。
だからこそ、こうして言葉を濁した。
「私はただの“りょう”です」
そう言っておけば、きっとすべてが夢で済む。
仮面のままで抱かれても、真実に踏み込まれないまま、ひと晩をやり過ごすことができる。
そう思っていたのに。
駒川は、すぐに言葉を返した。
ためらいも、否定もなかった。
ただ、ごく自然な声音で、静かに言った。
「それでも、いいんです」
涼希の指先から、何かがすっと抜け落ちたような感覚がした。
張り詰めていた心の一角が、音もなくほどける。
それは、許しの言葉だった。
誰かが、“りょう”としての自分を受け入れようとしてくれている。
この姿のままで、名前すら知られずに、心を差し出そうとしてくれている。
それがどれだけ、涼希にとって…罪深く、優しいことか。
気づけば、駒川の手がゆっくりと伸びていた。
遠慮がちで、でも確かな意志のこもった動きだった。
涼希の手の上に、彼の指先が触れる。
わずかに重なっただけの、軽い接触だった。
けれど、その瞬間、涼希の身体は反射的に跳ねた。
ほんのわずかに、ほんの数ミリだけ。
けれど、それは確かに逃げようとする動きだった。
肌が、彼の手の温度を覚えた。
ただの手のひらの熱ではなかった。
そこには、誰かに触れられることの重みがあった。
この数年で忘れかけていたもの。
「誰かに受け入れられる」という感触。
それを、いまこの一瞬で思い出してしまった。
だめだ、と涼希は思った。
この手をあたたかいと思ってしまったら終わりだ。
これは仕事だ。仮面だ。演技の延長だ。
“りょう”として生きる夜に、本物の感情なんて持ち込んじゃいけない。
なのに。
呼吸が、一度だけ浅くなった。
それを自分でごまかすように、ほんの小さく息を吸い直す。
その動きに連動するように、肩がひとつ上下する。
意識せずに、体が呼吸に追いつこうとしていた。
レースの胸元が、そのたった一度の呼吸でふわりと波打った。
ささやかな動きだった。けれど、それはこの空気のなかでひどく際立って感じられた。
駒川の指は、ただ触れているだけだった。
動かさない。握らない。
ただ、涼希の意思を試すように、そっとそのままでいた。
涼希は目を伏せたまま、まぶたの裏で必死に考えていた。
どうすれば、この震えをごまかせるのか。
どうすれば、この感情を外に漏らさずに済むのか。
でも、もう遅かった。
彼の声が、彼の眼差しが、彼の手のひらが。
すでに涼希の仮面の内側に、入り込んできてしまっていた。
見えないところで、心の輪郭が、少しずつ変わっていくのがわかる。
ほんのささいな接触で、自分がどれほど脆くなっていたかを思い知らされる。
仮面はまだ崩れていない。
だけど、その裏側では…もう、涼希という人間が、涙をこらえるようにして立っていた。
言葉を失っていた。
このままではいけない、と思いながらも、何も言えなかった。
駒川の視線が、こちらを見ていた。
問いかけるでもなく、追いつめるでもなく、ただ、見つめていた。
その視線に、涼希はまた呼吸を忘れた。
「……ありがとうございます」
ようやく絞り出した言葉は、限界ぎりぎりのところでかろうじて形を成した。
まるで、沈みかけた水面にやっと浮かび上がった声のようだった。
その一言には、演技も、仮面も、ほとんど含まれていなかった。
それでも、それを「りょう」の声として発した自分に、涼希は少しだけ苦しさを感じていた。
嘘じゃない。
でも、真実でもない。
その狭間で、心が引き裂かれそうになっていた。
グラスの中の氷が、かすかに音を立てた。
時間が動いたことを知らせるような、控えめな音だった。
けれど、ふたりの間の距離には…もう、目には見えない熱が立ちのぼっていた。
2
あなたにおすすめの小説
【完結】極貧イケメン学生は体を売らない。【番外編あります】
紫紺
BL
貧乏学生をスパダリが救済!?代償は『恋人のフリ』だった。
相模原涼(さがみはらりょう)は法学部の大学2年生。
超がつく貧乏学生なのに、突然居酒屋のバイトをクビになってしまった。
失意に沈む涼の前に現れたのは、ブランドスーツに身を包んだイケメン、大手法律事務所の副所長 城南晄矢(じょうなんみつや)。
彼は涼にバイトしないかと誘うのだが……。
※番外編を公開しました(2024.10.21)
生活に追われて恋とは無縁の極貧イケメンの涼と、何もかもに恵まれた晄矢のラブコメBL。二人の気持ちはどっちに向いていくのか。
※本作品中の公判、判例、事件等は全て架空のものです。完全なフィクションであり、参考にした事件等もございません。拙い表現や現実との乖離はどうぞご容赦ください。
勇者様への片思いを拗らせていた僕は勇者様から溺愛される
八朔バニラ
BL
蓮とリアムは共に孤児院育ちの幼馴染。
蓮とリアムは切磋琢磨しながら成長し、リアムは村の勇者として祭り上げられた。
リアムは勇者として村に入ってくる魔物退治をしていたが、だんだんと疲れが見えてきた。
ある日、蓮は何者かに誘拐されてしまい……
スパダリ勇者×ツンデレ陰陽師(忘却の術熟練者)
オッサン課長のくせに、無自覚に色気がありすぎる~ヨレヨレ上司とエリート部下、恋は仕事の延長ですか?
中岡 始
BL
「新しい営業課長は、超敏腕らしい」
そんな噂を聞いて、期待していた橘陽翔(28)。
しかし、本社に異動してきた榊圭吾(42)は――
ヨレヨレのスーツ、だるそうな関西弁、ネクタイはゆるゆる。
(……いやいや、これがウワサの敏腕課長⁉ 絶対ハズレ上司だろ)
ところが、初めての商談でその評価は一変する。
榊は巧みな話術と冷静な判断で、取引先をあっさり落としにかかる。
(仕事できる……! でも、普段がズボラすぎるんだよな)
ネクタイを締め直したり、書類のコーヒー染みを指摘したり――
なぜか陽翔は、榊の世話を焼くようになっていく。
そして気づく。
「この人、仕事中はめちゃくちゃデキるのに……なんでこんなに色気ダダ漏れなんだ?」
煙草をくゆらせる仕草。
ネクタイを緩める無防備な姿。
そのたびに、陽翔の理性は削られていく。
「俺、もう待てないんで……」
ついに陽翔は榊を追い詰めるが――
「……お前、ほんまに俺のこと好きなんか?」
攻めるエリート部下 × 無自覚な色気ダダ漏れのオッサン上司。
じわじわ迫る恋の攻防戦、始まります。
【最新話:主任補佐のくせに、年下部下に見透かされている(気がする)ー関西弁とミルクティーと、春のすこし前に恋が始まった話】
主任補佐として、ちゃんとせなあかん──
そう思っていたのに、君はなぜか、俺の“弱いとこ”ばっかり見抜いてくる。
春のすこし手前、まだ肌寒い季節。
新卒配属された年下部下・瀬戸 悠貴は、無表情で口数も少ないけれど、妙に人の感情に鋭い。
風邪気味で声がかすれた朝、佐倉 奏太は、彼にそっと差し出された「ミルクティー」に言葉を失う。
何も言わないのに、なぜか伝わってしまう。
拒むでも、求めるでもなく、ただそばにいようとするその距離感に──佐倉の心は少しずつ、ほどけていく。
年上なのに、守られるみたいで、悔しいけどうれしい。
これはまだ、恋になる“少し前”の物語。
関西弁とミルクティーに包まれた、ふたりだけの静かな始まり。
(5月14日より連載開始)
【完結】大学で再会した幼馴染(初恋相手)に恋人のふりをしてほしいと頼まれた件について
kouta
BL
大学で再会した幼馴染から『ストーカーに悩まされている。半年間だけ恋人のふりをしてほしい』と頼まれた夏樹。『焼き肉奢ってくれるなら』と承諾したものの次第に意識してしまうようになって……
※ムーンライトノベルズでも投稿しています
Please,Call My Name
叶けい
BL
アイドルグループ『star.b』最年長メンバーの桐谷大知はある日、同じグループのメンバーである櫻井悠貴の幼なじみの青年・雪村眞白と知り合う。眞白には難聴のハンディがあった。
何度も会ううちに、眞白に惹かれていく大知。
しかし、かつてアイドルに憧れた過去を持つ眞白の胸中は複雑だった。
大知の優しさに触れるうち、傷ついて頑なになっていた眞白の気持ちも少しずつ解けていく。
眞白もまた大知への想いを募らせるようになるが、素直に気持ちを伝えられない。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
冷徹勇猛な竜将アルファは純粋無垢な王子オメガに甘えたいのだ! ~だけど殿下は僕に、癒ししか求めてくれないのかな……~
大波小波
BL
フェリックス・エディン・ラヴィゲールは、ネイトステフ王国の第三王子だ。
端正だが、どこか猛禽類の鋭さを思わせる面立ち。
鋭い長剣を振るう、引き締まった体。
第二性がアルファだからというだけではない、自らを鍛え抜いた武人だった。
彼は『竜将』と呼ばれる称号と共に、内戦に苦しむ隣国へと派遣されていた。
軍閥のクーデターにより内戦の起きた、テミスアーリン王国。
そこでは、国王の第二夫人が亡命の準備を急いでいた。
王は戦闘で命を落とし、彼の正妻である王妃は早々と我が子を連れて逃げている。
仮王として指揮をとる第二夫人の長男は、近隣諸国へ支援を求めて欲しいと、彼女に亡命を勧めた。
仮王の弟である、アルネ・エドゥアルド・クラルは、兄の力になれない歯がゆさを感じていた。
瑞々しい、均整の取れた体。
絹のような栗色の髪に、白い肌。
美しい面立ちだが、茶目っ気も覗くつぶらな瞳。
第二性はオメガだが、彼は利発で優しい少年だった。
そんなアルネは兄から聞いた、隣国の支援部隊を指揮する『竜将』の名を呟く。
「フェリックス・エディン・ラヴィゲール殿下……」
不思議と、勇気が湧いてくる。
「長い、お名前。まるで、呪文みたい」
その名が、恋の呪文となる日が近いことを、アルネはまだ知らなかった。
転生DKは、オーガさんのお気に入り~姉の婚約者に嫁ぐことになったんだが、こんなに溺愛されるとは聞いてない!~
トモモト ヨシユキ
BL
魔物の国との和議の証に結ばれた公爵家同士の婚約。だが、婚約することになった姉が拒んだため6男のシャル(俺)が代わりに婚約することになった。
突然、オーガ(鬼)の嫁になることがきまった俺は、ショックで前世を思い出す。
有名進学校に通うDKだった俺は、前世の知識と根性で自分の身を守るための剣と魔法の鍛練を始める。
約束の10年後。
俺は、人類最強の魔法剣士になっていた。
どこからでもかかってこいや!
と思っていたら、婚約者のオーガ公爵は、全くの塩対応で。
そんなある日、魔王国のバーティーで絡んできた魔物を俺は、こてんぱんにのしてやったんだが、それ以来、旦那様の様子が変?
急に花とか贈ってきたり、デートに誘われたり。
慣れない溺愛にこっちまで調子が狂うし!
このまま、俺は、絆されてしまうのか!?
カイタ、エブリスタにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる