君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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あなたの胸で泣けない

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シーツに背を預けながら、涼希は目を閉じた。肌に残る体温が、じんわりと背中に染み込んでくる。夜の静けさの中で、それだけが現実の証のように感じられた。

身体の奥ではまだ微かに鼓動が残っていた。
さっきまで抱かれていたという事実が、皮膚のひとつひとつに刻まれている。
けれど、心だけが置き去りだった。
満たされたはずの身体とは裏腹に、心は空洞のように深く、冷たくなっていく。

「…眠ってください」
そう言った声は、自分のものとは思えなかった。
音を削り、感情を削り、ただ相手を遠ざけるためだけに整えた声だった。
背を向けたまま、涼希は息を吸った。けれど、吐き出すことができなかった。

駒川は何も言わなかった。
静かに、ただ手を伸ばして、涼希の背中にそっと毛布をかけた。
その動作があまりにやさしくて、涼希はもう、それだけで泣きそうになった。
拒絶でも、追及でもなく、ただ受け入れてくれる手のひら。
触れてはいないのに、その温度が背中越しに伝わってくる。

ありがとう、と言いたかった。
でもその言葉を口にしてしまったら、涙がこぼれてしまう気がして、唇を閉ざした。
身体を丸めるようにして、喉にせり上がってくる声を押し殺す。
指先がシーツを握りしめる。そんな動作ひとつで、感情が崩れてしまいそうだった。

優しくされることが、こんなにも苦しいなんて思っていなかった。
駒川のやさしさは、罪悪感と直結していた。
涼希はこの夜に嘘を持ち込んでいる。
名前も、声も、すべて仮面の上に重ねたものだ。
だからこそ、受け入れられることが、こんなにも痛かった。

ごめんなさい。
ごめんなさい。
心の中で、涼希は何度も繰り返した。
ごめんなさいと口にする勇気すらなく、ただひたすらに自分を責め続けた。

この人の隣にいることが、もう許されない気がした。
それなのに、今夜だけはそばにいたくて、自分を騙してしまった。
仮面を外せないまま、求められることに甘えてしまった。
そして、その結果として返ってきたのが、このやさしさだった。

どうして、あなたはそんなふうに触れるの。
どうして、責めずにいてくれるの。
どうして、名前も知らない誰かに、そんなふうに心を寄せられるの。

涼希は、自分の存在を消してしまいたいと思った。
このまま、シーツに沈み込んで、どこか遠くへ行けたらいい。
目が覚めたとき、自分という輪郭がすべて溶けて、何も残っていなければいいのに。

耳元に、駒川の寝息がかすかに聞こえ始める。
きっと、無理をして眠ったふりをしているのだろう。
それでも、涼希は振り返ることができなかった。
目を合わせたら、壊れてしまう気がした。

睫毛の奥に、また涙がにじむ。
それは声にならないまま、シーツに吸い込まれていった。
頬を伝うこともなく、ただ落ちていく。
シーツの白に、涼希の長い髪がふわりと絡んでいた。
その髪の先が、かすかに濡れていた。

誰にも気づかれない涙だった。
けれど、その一滴が、この夜のすべてを物語っていた。
仮面の下に隠した声も、笑顔も、触れられた身体も、すべては“りょう”としての姿でしかなかった。

だけど、泣いたのは“涼希”だった。
その矛盾をどう処理すればいいのかわからなくて、涼希はただ、眠ったふりを続けた。
本当は、こんな場所で誰かの胸で泣きたかった。
でも、それができるほど素直にはなれなかった。

だからせめて、今夜だけは…このままで。
何も知られないままで、やさしさの中に沈められていたかった。

息をひとつ吸って、吐いた。
それだけで喉の奥が震えた。
けれど、声にはならなかった。
そして、涼希は静かにまぶたを閉じたまま、自分の存在を薄めていった。
この夜が明けてしまえば、すべてが終わる。
だから今はただ、消えていくように眠っていたかった。
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