君が知らない僕を、君が愛した——会社では“同期”、夜の街では“知らない誰か”

中岡 始

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心が追いつかない夜

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パウダールームに灯る間接照明が、壁に柔らかな陰影を落としていた。光は白く冷たくはなく、どこか微かに桃色を帯びていて、それが鏡に映る肌をひときわ滑らかに見せていた。だがその鏡の向こうにいる人物は、どれだけ丁寧に光に包まれていても、何かを隠しきれてはいなかった。

涼希は、鏡台の前に腰掛けたまま、視線を上げる。
目の前にいるのは“りょう”だった。
しなやかな頬の線に沿ってシェーディングを入れ、まぶたには落ち着いたグレイッシュなラメを重ねていた。
睫毛は丁寧にコームでとかされ、リップは唇の輪郭をなぞるように艶を足している。
どこからどう見ても、魅せることに長けた“りょう”という存在がそこに完成されていた。

だがその完成に至る過程のなかで、涼希の手は何度もわずかに震えた。
アイラインを引こうとした手が、線を描く直前で止まる。
眉の形を整える途中で、鏡の奥に映る自分と目が合ってしまい、言葉を失った。

何をしているんだろう、と心のどこかで思った。
どうして今日に限って、こんなにも躊躇しているのか。
いつもなら、仮面を貼るように“りょう”を重ねていく時間は、むしろ呼吸のリズムを整える行為だった。
けれど今夜は、何かが違っていた。

胸の奥が、ずっと落ち着かない。
まるで誰かに名前を呼ばれる寸前のような、感情の輪郭だけがざわついていた。

「ねえ、涼ちゃん」

ふいに背後からかけられた声に、涼希ははっとして肩をすくめた。
阿波座ママだった。今日も淡いピンクのボウタイブラウスに、年季の入ったパールのネックレスを揺らしている。

「最近、色っぽさに拍車がかかってるじゃない。なあに、もしかして…恋でもしてる?」

冗談めいた声だった。
ママの声音はいつもどこか茶目っ気を含んでいて、その場の空気を和らげてくれる。
でも、今夜ばかりはその言葉が、胸の芯に鋭く刺さった。

「そんなこと、ないですよ」

涼希は笑ってみせた。
口角をきゅっと上げ、何気ないふうを装って眉を持ち上げる。
けれど鏡の中の“りょう”は、その笑顔の裏側に、何かを隠していた。
その視線が…どこか、暗かった。

「そ。だったらいいのよ。色気も武器だけど、恋しちゃうと、弱点にもなるからね」

そう言って笑う阿波座ママの背中を見送りながら、涼希は再び、鏡に向き直った。

自分の睫毛を整えようとした指先が、一瞬だけ止まる。
コームを握る手が、力を失ったように空中で宙ぶらりんになった。
そのまま数秒、動けなかった。

鏡の中の“りょう”は、相変わらず美しく、よく出来た表情を浮かべていた。
でもその目の奥にいる“涼希”は、まるで空っぽだった。
感情の色を忘れてしまったように、瞳が揺れていた。

“りょう”として、駒川と過ごした夜。
手を重ね、声を交わし、体温に触れた。
そのひとつひとつが、嘘でありながら、真実にも思えてしまった。
仮面のまま抱かれて、涼希としては泣くことも、触れることもできなかった。
けれど、心は確かに揺れていた。
それは、仮面の奥から染み出すように、自分自身を少しずつ蝕んでいった。

もう、演じきれる自信がなかった。
今夜も“りょう”として笑って、誰かの話に頷いて、甘い言葉を返す。
それが、どれほど苦しいか…想像しただけで、喉が締めつけられた。

「だめだな…」

涼希は小さくつぶやいた。
その声は、鏡の中の“りょう”には似合わないほど素朴で、弱々しかった。
まるで、本当の自分の居場所が、どこにも見つからないと訴えているかのようだった。

けれど、その声を飲み込むようにして、涼希はもう一度だけ口角を持ち上げた。
仮面を貼り直すように。
いつも通りに、何もなかったふうを装って。

今日もまた“りょう”として、生きなければならない。
そのことに、どれほど心が追いつかなくても。
夜はもうすぐ始まる。
終わることのない仮面劇が、またひとつの夜を奪っていく。
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